なでしこジャパンにおいては、選手それぞれに役割があり、そのほとんどが誰かに言われたからその役割にたずさわるわけではない。キャプテンに任せて、それにただ従っているだけだとしたら、ロンドン五輪で、なでしこジャパンは戦える集団にはなりえかっただろう。

 なでしこジャパンの一員としての実感がつかめるか否かは、ひょっとしたらこの、自分の役割を理解する部分の方が大きいのかもしれない。自分がチームにとってどんな存在なのか、チームにどう貢献できるのか、それを実感できる選手は少ない。

 川澄奈穂美も自分のプレイで精一杯という“にわかなでしこ”の時代が約3年間あった。川澄が真の意味で“なでしこジャパン”のメンバーになり始めたのは、W杯ドイツ大会が終わった後、ロンドンへ向けてのチームづくりが始まった頃だった。

 だが、実際には北京五輪の約1年前にも、チャンスはあった。しかし何の因果か、なでしこジャパンへ練習生としての帯同を打診された日に、川澄は前十字靭帯断裂という大ケガを負ってしまい、北京五輪出場の夢は断たれた。

 その後、なでしこチャレンジメンバーとしての猛アピールを経て、晴れてなでしこジャパンに定着するようになった川澄。だが、“なでしこジャパン”の一員であると胸を張れるようになるまでには苦しい年月があった。

 川澄は2011年のW杯ドイツ大会での活躍で注目されるようになったものの、まだ中心選手という域にまでは達していなかった。すでにスタメンとして欠くことのできない人材へと成長していた岩清水梓や近賀ゆかりとは、大学時代にユニバーシアード代表として共に戦った旧知の間柄。このときふたりが背負っていたプレッシャーに比べれば、川澄はまだまだ「ひよっこ」だった。それでも、焦りを持たないのが川澄。

「力があれば、必ず“その時”はやってくる。いつまでになでしこ入りして、中心選手になって……というものはまったくなかったので、成長とともに、結果がついてくればいいなという感じでした」

 力みがないからこその飛躍だった。

 ドイツでの世界制覇で、なでしこジャパンの面々は各方面で引っ張りだこになった。想像を絶するほどの注目度。澤穂希を筆頭に、彼女たちの行動はさまざまなメディアで取り上げられ、誌面を飾り続けた。

 川澄も例外ではなかった。むしろ、これまでも当然のように注目されていた澤らに比べれば、川澄を取り巻く状況はまさに一変した。

「最初は戸惑うこともありましたが、慣れました(笑)。それに、応援してもらえることは本当にありがたいことだし、私、注目されるプレッシャーとかもあまり気にならないタイプなんです(笑)」

 それまで、どこか遠慮がちにプレイをしていた川澄はW杯を経験して、明らかに変わった。それはW杯という最高峰の世界大会を経験したことだけが要因ではない。

 2011年の初め、所属するINAC神戸レオネッサに、澤、大野忍、近賀、南山千明が日テレ・ベレーザから、そして韓国からチ・ソヨンという強力なメンバーが加わった。INACが国内最強チームになることは約束されていた。だからこそ、川澄は自分たちの力を表現しなければならなかったし、レベルの高い選手たちと日々の練習を重ねることで自信にもつながっていった。

 そして、ロンドン五輪では、突然の左サイドへのポジション変更にも、川澄は対応してみせた。

「チームでは左サイドをやっていますし、持ち味の切れ込んでいく攻撃が活かせるポジション。まだぎこちないですけど、試合を重ねて行く中で成長できるのがなでしこ。大丈夫です!」

 ロンドン五輪の期間中、川澄はこう話していた。いろいろと個人的には悔しいところもあっただろう。だが、ロンドン五輪を終えた今、川澄はスッキリとした表情でこう語った。