太平洋戦争の「捕虜第2号」から「証券マン」に…半死半生で漂流し、人跡未踏のジャングルをさまよった元海軍軍人の数奇な運命
太平洋戦争で軍人として最前線で戦ったのは、明治後期から大正、昭和初期までに生まれた人たちだった。戦後81年。当事者のほとんどが鬼籍に入り、「忘れてはならない」の掛け声とはうらはらに、確実に戦争の記憶は遠ざかってゆく。そして終戦後、当事者たちがどのように生きたかということは戦争中の出来事以上に知られていない。だが、戦後、焼け跡からの復興を担ったのもこの世代だ。ここでは、私が30年以上にわたり、直接インタビューした元海軍軍人の「戦後」をシリーズで振り返る。
今回は、オーストラリア軍の捕虜となりカウラ収容所での暴動に参加、戦後は証券会社に身を投じ、「北浜の古武士」と呼ばれた高原希國氏を紹介する。
「影」の証券マン
昭和50年代、1970年代から80年代にかけ、日本セメント(昭和51-1976年)、同和鉱業(昭和54-1979年)、不二家(昭和57-1982年)、丸善石油(昭和58-1983年)、平和不動産(同)の株を買い占め、そして金品位のきわめて高い鉱脈が発見された菱刈鉱山を所有する住友鉱山の仕手戦(1981-82)で巨額の利を得、「最後の相場師」と呼ばれた男がいた。是川銀蔵(1897-1992)である。
是川は昭和58(1983)年に発表された高額納税者番付で、申告額28億9090万円で一位になっている。その数々の仕手戦に、必ず「影」としてその名を取り沙汰された証券マンがいた。高原希國。当時、株式会社黒川証券(52年、黒川木徳証券となり、現在はあかつき証券株式会社)専務だった。人に媚びない超然とした態度と金への執着心のなさが客の信頼を呼び、「北浜の古武士」と呼ばれていた。
高原は、太平洋戦争中は日本海軍の飛行艇搭乗員だったが、オーストラリアの沖合で敵戦闘機に撃墜され、捕虜となった。収容所では偽名の船員・高田一郎を名乗り、1944年8月5日、オーストラリアのカウラ捕虜収容所で日本兵捕虜が蜂起した「カウラ暴動」に加わったが、奇跡的に生き残った人である。
大正9(1920)年、兵庫県姫路市の生まれ。神戸二中(現・兵庫県立兵庫高校)では野球部に入って三塁手・キャプテンを務め、のちに巨人軍のエースとなる京都商業学校の沢村栄治(のち戦死)と対戦したこともある。
「ものすごい直球とドロップ、打てる気がせん。バットにかすりもせえへんかった」
と、高原は私のインタビューに答えている。
リンドバーグに憧れて
大西洋単独無着陸飛行を成し遂げたチャールズ・リンドバーグに憧れて飛行機乗りを志し、昭和13(1938)年、海軍甲種飛行予科練習生に二期生として入隊、偵察員としての教程を経て、飛行艇搭乗員となった。
昭和15(1940)年10月11日、横浜沖で挙行された「紀元二千六百年記念特別観艦式」で、佐世保海軍航空隊司令・三浦鑑三大佐が搭乗する九七式大型飛行艇(九七大艇)の一番機に電信員として乗り、大艦隊の上空を527機の飛行機の先頭を切って飛んだのが、海軍でもっとも華やかで、記憶に残る出来事であったという。
太平洋戦争の開戦時は、九七大艇で編成された東港(とうこう)海軍航空隊の一員(一等飛行兵曹)として、前進基地のパラオ島にいて、偵察飛行などに任じたが、日本軍の緒戦における破竹の進撃にともない、ダバオ(フィリピン)、ケマ(セレベス島北部)、アンボンと転戦。飛行艇ではそれが日本海軍で唯一の例となる敵巡洋艦への雷撃(魚雷攻撃)に出撃したこともある。
「飛行艇3機に2本ずつ魚雷を積んで、3方向から攻撃しましたが、敵艦からはものすごい対空砲火を浴びました。魚雷? そんなもん、当たれへんがな」
と、高原は言う。
漂流して辿り着いたのは…
昭和17(1942)年2月15日、電信員として搭乗していた九七大艇が、オーストラリア北方のアラフラ海を単機で索敵飛行中、敵輸送船団を発見。約2時間の触接(しょくせつ)ののち、積んでいた8発の六十キロ爆弾で爆撃を試みたが、その直後、米陸軍の戦闘機カーチスP-40と遭遇、高原が尾部銃座から放った機銃弾で撃墜したものの、自機も被弾、炎上し、海面に墜落した。
「撃ったとき、命中の手応えがあって、敵機が白い煙を吐いて墜ちてゆくから、勝った!と思ったのもつかの間、後ろを振り返ったら自分の飛行機も燃えてる。墜落しながら、炎がまるで大蛇の舌のように、最後尾にいる私の尻に迫ってきました」
機長の主操縦員は機上で戦死、副操縦員が最後の力をふり絞って海面近くで機首を立て直したおかげで急角度での墜落は免れ、不時着に近い状態で着水。8名の搭乗員のうち6名は脱出に成功し、運よく搭載していた小さなゴムボートで漂流を始める。南洋の灼熱の太陽の下、水も食糧もなく、重傷を負っていた1名は3日めに死亡、残った5名は5日めにようやく、ダーウィン近くのバサースト島に漂着した。
そしてさらに、人跡未踏のマングローブの森やジャングルのなかをあてどもなく彷徨い歩き続けること10日間。飢えと疲労で半死半生でいるところを現地人に助けられ、安心して眠りに落ちたが、目が覚めるとオーストラリア兵の銃剣に囲まれていて、抵抗すらできずに、開戦以来2番めの、オーストラリア軍の捕虜となった。
ちなみに第1号は、のちにカウラで捕虜の団長になった「南忠男兵曹」である。(彼が、2月19日、機動部隊のダーウィン空襲のさいに戦死とされた空母飛龍の零戦搭乗員・豊島一一等飛行兵であったことは、戦後、明らかになる。階級も下士官の「一飛曹」と偽称していた)
機転を利かせて尋問を切り抜けた
「『生きて虜囚の辱めを受けず』という戦陣訓は、陸軍内部にのみ達せられたもので、海軍では読んだことも教わったこともありませんでしたが、日本人の道徳律として、そう考えるのが自然な時代やった。5人は示し合わせて、米潜水艦に撃沈されたトロール船の船員ということにして、それぞれ偽名で呼び合うようになりました。私は、『船員・高田一郎』として、軍人としての痕跡を残さずに死んでいこう、そう決意することが、捕虜になったいまいましい我が身を救う唯一の道と考えて、訊問に臨みました」
5人は、豪州軍の取調べに対して、徹底的に抵抗した。ある者は何を聞かれても「ハングリー」で通し、またある者は読み書きができない風を装った。取調べ官もついにさじを投げ、彼らに対する訊問を打ち切った。
オーストラリア軍は、彼らをきわめて人道的に扱った。高原ら偽船員たちは、はじめの半年はシドニーの西方約700キロのヘイという小さな町に設けられた収容所で、拘留されている在留邦人らとともに過ごしたが、そこの団長以外には軍人であることを隠し続けた。
捕虜に課せられた労働は1日8時間で、その内容も、道路の補修作業や、柵を作ったり牛馬の糞を集めたり、薪集めをしたりと、簡単なことばかりだった。労働に対しては、1日8ペンスの報酬が支払われた。
【後編を読む】<待遇は悪くなかったのに、暴動を起こして死体の山を築いた「日本人捕虜」たちの目的>
