木村和司伝説〜プロ第1号の本性
連載◆第12回:水沼貴史評(2)

JSL(日本サッカーリーグ)の日産自動車、Jリーグ発足後の横浜マリノス(現横浜F・マリノス)で活躍し、日本代表の攻撃の柱としても輝かしい実績を残してきた木村和司氏。ここでは、そんな稀代のプレーヤーにスポットを当て、その秀逸さ、知られざる素顔に迫っていく――。


ユース代表当時の木村和司氏(写真一番右) 写真提供:(有)シュート

◆第11回:名ドリブラー・水沼貴史が高校1年生のときに対戦した驚愕の選手>>

 水沼貴史にとって、木村和司は2歳上の先輩だ。それゆえ、試合で対戦したのは、水沼が高校1年生のときの全国高校総体が唯一である。

 高校卒業後は、木村が当時関東大学リーグ2部の明治大学へ入学した一方で、水沼は同1部の法政大学へ進んだこともあり、大学での対戦は「たぶんない」と水沼は言う。

「僕、4年生のときだけは(関東大学リーグの)2部でやったんですけど、そのときは、もう和司さんは(大学を卒業していて)いない。だから、大学時代の(木村の)印象はあんまりないですね」

 高校総体での直接対決以降、初めてふたりが顔を合わせたのは、浦和南高在学中の水沼がユース代表(年代別日本代表)に選ばれ、すでに大学生となった木村とチームメイトになったときのことだ。

「同じメンバーには、田嶋(幸三)さんとかもいたんですよ。そのときに初めて一緒(のチーム)になったのかな」

 実際に対戦し、木村から衝撃を受けたプレー、すなわちドリブルからクロスへつながる一連の動きは、「横や前からじゃなくて、後ろからずっと見ていました」と水沼。

「足の運びがすごくスムーズだから、『どうやってるんだろうな』と思いながら見ていた記憶があります。自分でも何回か(真似して)やってみたりはしましたけど、『ああいうふうに足は出ないな』って思いましたね」

 だが、ひとたびピッチを離れると、これといって木村との交流についての記憶はない。

「(自分が)高校1年生のときにインターハイで戦って、僕がハットトリックして勝ったから、たぶん和司さんは(水沼のことを)覚えていたはずです。(ユース代表の)キャンプが何回かあったので、一緒に生活したりとかするなかで、そこでしゃべったりはしていましたけど......、ほぼほぼ印象に残ってないですね。サッカーの話もしたのかどうかっていう感じで......、サッカーの話をちゃんとするようになったのは、たぶん日産(自動車)に入ってからです」

 ただしひとつだけ、水沼がはっきりと印象に残していることがある。それが木村の髪型だった。

 水沼はユース代表で一緒になった木村を見つけ、「あ、和司さんだ!」と喜んだが、同時に「ボワーッと膨れ上がった髪型だったので、『どうしたんだろう?』って......」。

 そのときは、ただ驚いただけで、何も言えずにいた水沼だったが、のちにその理由を木村から聞いている。

「大学生だから、パーマをかけておしゃれにしたかったみたいなんですけど、お金がないから頻繁には(髪を)切れない。それで、そのまま伸びっぱなし、みたいな。そういう頭だったみたいです(笑)」

 そんな髪型とともに水沼が記憶しているのは、ユース代表で海外遠征したときの"逸話"である。

「僕、和司さんと一緒に旧ユーゴスラビア(現クロアチア)のリエカに行ってるんですよ。そこで国際ユーストーナメントがあって」

 現地ではオフの日があり、選手たちは何人かのグループに分かれて、街へと繰り出したという。

「行きも帰りも、僕らはヒッチハイクしてたんですけど、みんなが車でホテルに帰ってきたのに、和司さんだけはバイクで帰ってきたんです」

 ヒッチハイクというと、旅費を安く上げたいバックパッカーのイメージがあるかもしれないが、国によっては日常生活での移動のために一般の車に乗せてもらうことは、それ自体、決して珍しいことではない。

 しかし、だとしても、である。

 水沼をはじめ、ほとんどの選手は複数人で行動し、移動で使うのは自動車。ところが、木村だけは単独行動のうえにバイクを拾い、後部座席に二人乗りで戻ってきたのだ。

「もうその時点で、『この人、普通じゃないな』って思いましたね(笑)。だって、(バイクは)車よりも危険じゃないですか、やっぱり。しかも、知らない国で、ひとりで。それでよく帰ってきたな、と思いました」

 水沼が今でも残す最も鮮明な記憶は、何食わぬ顔でバイクにまたがり、ひとりでホテルに戻ってきた、パーマ頭の大学生である。

(文中敬称略/つづく)

木村和司(きむら・かずし)
1958年7月19日生まれ。広島県出身。広島工業高→明治大を経て、1981年にJSL(日本サッカーリーグ)の日産自動車(横浜F・マリノスの前身)入り。チームの主軸として数々のタイトル獲得に貢献した。その間、日本代表でも「10番」を背負って活躍。1985年のメキシコW杯予選における韓国戦で決めたFKは今なお"伝説"として語り継がれている。横浜マリノスの一員としてJリーグでもプレー。1994年シーズンをもって現役を引退した。引退後は解説者、指導者として奔走。日本フットサル代表(2001年)、横浜F・マリノス(2010年〜2011年)の指揮官も務めた。国際Aマッチ出場54試合26得点。

水沼貴史(みずぬま・たかし)
1960年5月28日生まれ。埼玉県出身。浦和市立本太中、浦和南高で全国制覇を経験。その後、法政大学を経て、1983年にJSL(日本サッカーリーグ)の日産自動車(横浜F・マリノスの前身)入り。金田喜稔、木村和司らとともに数々のタイトルを獲得し、黄金時代を築く。ユース代表、日本代表でも名ウイングとして活躍した。1995年、現役を引退。引退後は解説者、指導者として奔走。2006年には横浜F・マリノスの指揮官を務めた。国際Aマッチ出場32試合7得点。