冨永照子さん(撮影・内外タイムス)

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今や日本を代表する観光地のひとつとなり、多くの若者やインバウンドで連日ごった返している東京・浅草。そんな街に温かくも厳しい目を向けるのが、手打ちそば「十和田」の4代目女将・冨永照子さんだ。

「ニッポンおかみさん会」会長として日本全国のおかみさんを引っ張り、政財界や芸能界の大物とも親交のある冨永さんに内外タイムスがインタビュー。街が廃れそうになったころから見事に復興させた数々の仕掛けや、現在の浅草をどのように見ているか聞いた。

「南千住から浅草へギューッて曲がってんだから」

浅草にある「十和田」すしや通り店の2階。座敷で行ったインタビューは営業時間中ということもあり、時間が限られていた。そのためというわけではないだろうが、冨永さんはこちらの質問に対し、早口で一から十まで一気に話す。そのスピードは、これまでの人生同様、止まることを許さず、常に前だけを見て数々の困難を突破してきた生き様そのもののようだった。

「ここで生まれて、結婚して最初は儲かったんですけど、東京オリンピックのころからテレビに押されて、映画館は全部なくなってゴーストタウンのようになったんです。これじゃあ、次の子どもたちに良い浅草を渡せないと作ったのが浅草おかみさん会です。それから街おこしとして、いろんなイベントをやったり、2階建てバスを日本で初めて導入しました。浅草サンバカーニバルもやったし、浅草寺のライトアップもやったし、一番すごい事業はつくばエクスプレスを引いてきたこと。相当お金を使いましたよ」

街おこしのイベントを仕掛けるだけでも大変な行動力とバイタリティーだが、つくばエクスプレスの開通に寄与していたとは、もはや「おかみさん」の域を越えている。2005年に開業し、東京・秋葉原と茨城県つくば市を結ぶつくばエクスプレスは、今では関東一円の勤め人の足であり、観光客の移動手段として定着。「常磐新線」として計画された当初、冨永さんは浅草繁栄のためには、夢の新線を浅草に誘致するしかないと動いた。

「当時は国鉄民営化のちょっと前でしたけど、本当に浴びるほど酒を飲みましたよ。国鉄は“東大を出てなきゃ人間にあらず”の人たちばっかりだったから、お世辞を使って浴びるほど酒を飲んでね。国鉄総裁だった仁杉巌さんを地下で待ち伏せして“総裁お願い!”とか、何でもやりました。再開発事業に関わって、有名な人とコネクションができてたんでね」

まさかの直談判。関係性があったとはいえ、そば屋のおかみさんが国鉄の総裁に直接アタックするとは、普通では考えられない。しかし、冨永さんの情熱と行動力、愛される人柄は国鉄をも動かした。

「計画では南千住から向こう側を通って浅草には来なかったんですよ。それじゃあ、何のために私が努力してきたか分かんないから、相当お金も使ったし、いろんな偉い人と付き合いました。乗ると分かりますよ。南千住から浅草へギューッて曲がってんだから。これこそ私の功績ですよ」

なんと冨永さんの熱意は線路を曲げてしまった。文字通りの紆余曲折を経て、つくばエクスプレスは浅草に停まることになった。開通後、初めて乗った時のことは鮮明に覚えているという。

「ガタッと揺れることもなくて、すごい列車だと思いました。新幹線並みのレールを敷いてくれたんですよ。だから、ちょっと高いけど乗りますよ」

冨永さんの目論見通り、つくばエクスプレス効果もあって浅草を訪れる人は増えた。現在の浅草の繁栄は決して偶然ではない。

「未来のために頑張ったのが、つくばエクスプレスです。だから浅草駅のメーン広告はおかみさん会に権利があるんですよ。去年が20周年でした。素晴らしいですね、本当に」

店内に飾られているつくばエクスプレスの記念品(撮影・内外タイムス)

「回遊性、滞在時間が長い浅草を作りたい」

政財界だけでなく、芸能界にも顔の広い冨永さん。これまで最も華を感じた役者を尋ねると即答した。

「やっぱり市川猿之助、亀ちゃんですよ。今も歌舞伎座で公演してるけど(猿之助とは)全然違いますよ。つまんないから途中で出てきちゃった」

二代目市川亀治郎は2012年に四代目市川猿之助を襲名。歌舞伎役者として人気を博していたが、2023年に父・段四郎と母・喜熨斗延子さんが自宅で死亡し、猿之助は自殺幇助容疑で逮捕された。それでも冨永さんの猿之助への思いは変わらない。

「うちのうどんが好きで、今でも盆暮れに贈ってますよ。それこそ義理人情でしょうよ」

猿之助の犯した罪は別問題だが、辛い時、困難にぶち当たった時に支え、応援してくれる人のありがたみは冨永さん自身が体感してきたからこそ、大切にしているのだろう。

店内に飾られている市川猿之助とのツーショット写真(撮影・内外タイムス)

「ニューオータニの大谷(米一)さんとダイエーの中内(功)さんには生涯、借りがあると思って尽くすつもりです。お二人がいなかったら浅草はまだゴーストタウンですよ」

浅草から人が消え、復興のためにスポンサーを探して奔走していたころ、救いの手を差し伸べてくれたのが、ホテルニューオータニの大谷米一社長とダイエーの中内功会長だった。その恩義を胸に刻んでいるからこそ、冨永さんは縁と義理人情を大切にする。

しかし、大きく発展を遂げた今の浅草にもまだ満足はしていないという。冨永さんにとってゴールはないのかもしれない。

「ダメだと思いますよ。家賃ばっかり高くなって、後継者問題もあります。昔は盛り場だったんですよ。家族でご飯を食べに来て、観音さんをお参りして、映画を見て、お母さんは子どもを連れて帰る、お父さんはもう一軒って時代がありました。回遊性、滞在時間が長い浅草を作りたいというのが私の希望です」

インバウンドや国内の観光客の増加は喜ばしいことではあるものの、観光資源を一見して終わりでは浅草の本当の魅力は伝わらない。理想はみんなが何度も来て、帰りたくなくなる街。愛してやまない浅草のため、冨永さんの情熱が冷めることはない。

冨永照子さん(撮影・内外タイムス)

《プロフィール》
冨永照子(とみなが・てるこ) 1937年1月3日、東京・浅草生まれ。手打ちそば「十和田」の4代目女将として働く傍ら、一般社団法人「ニッポンおかみさん会」会長、協同組合「浅草おかみさん会」理事長などを務め、浅草の発展に尽力。2015年に「下町人間庶民文化賞」(下町人間の会)を受賞。