「描き切れなかったら、あの世でみなさんに怒られる」32年かけて完結した伝説的漫画への深すぎる想いとは【里中満智子さんインタビュー】
昭和に連載開始、平成に完結、そして令和に電子配信──。32年間にわたり、里中満智子さんが描ききった大作『天上の虹』が、2026年1月、完結から11年の時を経て電子配信された。鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)=持統天皇の波乱に満ちた生涯を描いた本作は、電子化を機に、あらためて多くの読者を惹きつけている。16歳で漫画家デビューを果たし、これまでに500タイトル以上の作品を世に送り出してきた里中さん。2023年には文化功労者にも選出された、日本漫画界を代表する存在だ。今回は電子化を記念して、『天上の虹』に込めた想い、そして時代を超えてなお響くその魅力について、お話をうかがった。
「描ききらないのは失礼」──『天上の虹』を支えた強い覚悟
―『天上の虹』電子化、おめでとうございます。配信まで時間がかかりましたが、先生ご自身のお考えがなにかありましたでしょうか。
里中満智子さん(以下里中):待っていてくださった皆様には、本当に申し訳なく思っています。電子化にあたっては、少し描き直したい気持ちもありましたし、考えているうちに「もう一話分くらい加えたい」と思い始めてしまって。ただ、それでは時間がかかりすぎてしまうので、まずは電子版としてお届けすることにしました。
―「付け加えたい」と思われた一話が気になります。
里中:物語の冒頭で、中大兄皇子をもっと深く描きたかったですね。彼はとても苦しい少年時代を過ごしていて、その経験から人を信じられなくなった、そういう背景のある人物です。ただ、連載当時はいろいろな事情から、とにかく早く本筋に入る必要があって、かなり急いで描く必要があったんです。その後、長く連載できることになり、さらに熱心な読者の方から感想もたくさんいただいて、「もっと自分の解釈で、じっくり描いていいんだ」と思えるようになりました。だからこそ今でも、冒頭をもう少し丁寧に描き込んでみたかった、という気持ちがあります。
―その「もう一話」心待ちにしています! 長く描き続ける支えとなったものは?
里中:実在の人物を描いている以上、「最後まで描き切らないのは失礼だ」という想いがずっと心の中にありました。作中に出てくる方々と私たちとは生きる時代は違えど、一人ひとりが、色々な想いや葛藤を抱えながら懸命に生きていらしたはずです。その方たちの大切な人生を、私の勝手な解釈で描かせていただいているわけですから、途中で投げ出すわけにはいかない。もし描き切れないままに私が死んだならば、あの世で皆さんにどれだけ怒られるかと思い、「とにかく描き切らなければ」という気持ちでおりました。
「万葉集」が映し出す、讃良の理性、そして強さ
―「鸕野讃良」や「持統天皇」という呼び名がありますが、先生の呼び方は?
里中:私は「讃良(さらら)様」です。「ささら」と読むという説もあり、文献では「鸕野皇女(うののひめみこ)」や「持統天皇」と書かれることが多いですが、私は「さらら」の響きがすてきだと思い、こちらを使わせていただいています。あわよくばこれをきっかけに「鸕野」よりも「讃良」がポピュラーになれば嬉しいと思いながら連載をスタートしました。当時は皇族の固有名詞がよくわからずで、与えられた領地名に「皇子」や「皇女」がついて呼ばれることが多かったのですが、讃良様は、そのあたりがはっきりしないんですよね。
―作中、讃良の「理性的で強い女性」の人物像は、どこから立ち上がってるのでしょうか。
里中:万葉集からです。讃良様の歌※は、非常に構成力があり、とても理性的な印象があります。「きっと感情に任せて物事を処理する人ではなかっただろう」と強く感じました。そこから、すべてのことをきちんと考える人、という前提で、讃良様という人物を想像していきました。
※特に有名な歌は万葉集の巻一・28番収録
「春すぎて 夏来たるらし 白たへの衣干したり 天の香具山」
―万葉集が人物造形の核になっているんですね。
里中:はい、わずかな手がかりではありますが、そのわずかの中に、その人らしさが宿っていて、考え方や気質が、とてもにじみ出ていると思います。たとえば、夫の天武天皇(大海人皇子)が亡くなった後の歌には、切々たる感情が込められている。それも、感情に流されるというより、深い想いをきちんと歌に結晶させている印象です。だからこそ私は、讃良様を「理性的な強さをもった人」として描きたいと思いました。
強さは、立場の中で育つ
―持統天皇を物語の主人公に選ばれた理由は。
里中:讃良様が生きた万葉集の時代には、魅力的な人物がたくさんいますし、物語の主人公として描かれてきた人も多いんです。でも、讃良様を主人公にした作品は、私の知る限り、ほとんどありませんでした。しかも、権力志向の冷たい女性だとか、父と、さらには夫の七光りだとか、あまり良く言われていませんでした。それがちょっと納得できませんでした。
―先入観に対する違和感が、出発点のひとつだったのでしょうか。
里中:そうですね、前にも申し上げた通り、万葉集の歌を読むと、そういった良い風に言われていない人物像とはとても思えず、そして讃良様は、生まれた時期も亡くなった時期も比較的はっきりしていて、一代記として描きやすい方でもありました。この人の人生を通して、あの時代をよりよく描けるかもしれない。そう思えたことが、『天上の虹』につながっていったと思います。
―いま「強いリーダー」という言葉をよく聞きます。讃良が現代のリーダーと重なる部分はありますでしょうか。
里中:あると思います。私は讃良様を、きちんと物事を考え、その立場を確実に引き受けていく人として描きたかったんです。そういう理性的な強さや、立場の重みに背を向けないところは、現代のリーダーに通じるものがあるのではないでしょうか。もちろん皆さんお一人おひとり違いますけれど、リーダーという立場に立つと、人は頑張りますよね。周囲も、その立場になったとき、踏ん張れる人を推すのではないかと。よく「立場が人を作る」と言いますけれど、やはりそういうことはあると思います。実際にその立場になってみて初めて、それまで先輩たちが背負ってきたものの大きさや、大変さが見えてくることもある。そこで簡単に投げ出さずに踏ん張るうちに、その人の強さが発揮されていく。そうやって、結果としてリーダーは強くなっていくんでしょうね。
―強さは、権力の強さとはまた違うものなんですね。先生にとって、強さとはどういうものですか。
里中:権力があることではないと思うんです。むしろ、打たれ強いこととか、言い訳は言わないだとか、覚悟していることとか、そういうものなんじゃないでしょうか。立場があるから強いのではなく、その立場を引き受けて、簡単には折れないこと。その中でにじんでくるものが、本当の強さではないかと思います。
1300年の時を超えて、響く言葉
―1300年前の時代を描かれて、あらためて感じるこの時代の魅力とは。
里中:1300年前というと、ずいぶん遠い昔のように思いますよね。でも、『万葉集』のような歌集を通して、その時代の言葉が、いまも日本語として読めるというのは、本当にすばらしいことだと思います。長い時間を経ても、声に出せばちゃんと日本語として響く。それはとても豊かなことです。万葉集の歌は、男女や身分の高低にかかわらず歌が収められていて、とても開かれた歌集なんですね。しかも、身分の高い男性が身分の低い女性に思いを寄せて、でもうまくいかなくて嘆くような歌もあって、そこに、この時代の人間らしさやおおらかさを感じます。こういう文化を大切に受け継いできたことを、誇りに思い続けてほしいです。
―『天上の虹』をこれから読む読者へ、メッセージを。
里中:登場人物たちの生き方から、その向こうにある歴史や言葉の面白さにも触れていただけたら嬉しいです。1000年以上前の人たちも、やはり一生懸命に生きて、悩んで、考えていた。その息づかいのようなものを、現代に生きる皆様に感じてもらえたら、とても幸せです。
