広島テレビ放送

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83年前の大爆発で広島湾に沈んだ『戦艦陸奥』。引き揚げに関わった人たちと陸奥を撮影し続ける男性の思いを、広島テレビの樫原(かたぎはら)憲正記者が取材しました。

広島市に住む梶川昭夫さんは、週末に自慢のカメラを持って海に向かいます。この日は、20キロ近い機材を身につけて、冬の瀬戸内海を潜水撮影しました。梶川さんは美しい海の中の世界とは別に、広島湾の海底に80年以上沈んでいる『戦艦陸奥』を長年、撮り続けています。

1921年、『戦艦陸奥』は1番艦『戦艦長門』の姉妹艦として、横須賀海軍工廠で建造されました。当時、「陸奥の主砲があればアメリカは攻めてこない」と言われ、世界最大といわれた41センチ主砲を搭載していました。

しかし1943年6月8日、広島湾停泊中に謎の大爆発が起こります。乗組員1471人のうち、1121人の命が海に散りました。梶川さんは35年間、広島湾に沈んでいる『戦艦陸奥』を撮影し続けています。

■梶川昭夫さん
「82年前の感覚を見ているような気がして、行った者だけが感じる何か、言葉では言い表せない何か感じるものがあります。(最初潜ったときは)訳がわからなかったですね。深くて、暗いしおどろおどろしく、怖い印象がありました。」

1985年には、艦橋付近から頭蓋骨が発見されました。船体の中には、今も乗組員の遺骨が残されています。

■梶川昭夫さん
「(頭蓋骨は)たまたま表に出てきていたんですかね。海上保安庁の人が来て、引き揚げたと記憶しています。もちろん潜っていてやっぱり感じるのは『俺たちのこと忘れないでくれ』と感じるので、僕は。」

沈没から83年。地震の影響や船体の鉄の腐食により、海の底に横たわる『戦艦陸奥』は崩れ始めています。

■梶川昭夫さん
「朽ちていっているのは間違いないので、今までも写真を撮ってきて、もう二度と撮れない状況の写真があるので、今できることをさせてもらう。」

83年前に海に沈んだ『戦艦陸奥』はその後、どうなったのかをよく知る人がいます。広島でサルベージ会社に勤めていた花戸忠明さんは、数々の船を海底から引き揚げるプロジェクトに関わってきました。2002年には、奄美大島沖で沈没した北朝鮮の工作船の引き揚げも担当しました。

花戸さんが若い技術者だった時に参加した巨大プロジェクトが、終戦後も海底に放置されていた『戦艦陸奥』の引き揚げです。1970年、当時の深田サルベージは、旧大蔵省から国有財産である『戦艦陸奥』を買いとりました。引き揚げは、遺族たちの願いでもありました。

■元深田サルベージ建設西日本支社 支社長補佐 花戸忠明さん
「採算ベースは抜きに、スタートしている。(遺族のために)赤字覚悟でスタートしている。」

しかし、予想された通り作業は難航しました。全長225メートルで、基準排水量は、およそ3万9000トン。巨大な鉄の塊を引き揚げるために使われたのが、ダイナマイトでした。

■元深田サルベージ建設西日本支社 支社長補佐 花戸忠明さん
「潜水士は最初、火薬で切るんですよ。火薬切断、水中切断で解体していく。」

沈没から27年後に始まった引き揚げ作業。遺骨や遺品の回収を期待し、遺族も作業を見守りました。度重なる困難の末に最初に海面から出てきたのは、陸奥の「主砲」でした。ついに、遺族など関係者の悲願が実現した瞬間でした。

事業に参加した花戸さんは、広島県江田島市にある引き揚げられた船体の水洗いや、解体作業が行われた場所を案内してくれました。当時、現場には多くの人が訪れました。

■元深田サルベージ建設西日本支社 支社長補佐 花戸忠明さん
「主砲とか船体は、みなここに置いた。」

船体の中からは、陸奥と共に海に沈んだ乗組員たちの遺骨が見つかりました。花戸さんは、当時の遺族らの様子を覚えています。

■元深田サルベージ建設西日本支社 支社長補佐 花戸忠明さん
「遺族はね、息子であろう、旦那さんかもわからんけど叫んでね、手を合わせる人もおるし。」

船体のおよそ7割が引き揚げられましたが、オイルショックによる業績悪化で、事業は中止に。国は、水深40メートルにある遺骨は、尊厳が損なわれる状況ではないとして、引き揚げは行わないとしています。世界最強といわれた『戦艦陸奥』は、海底の墓標となり、乗組員と共に今も広島湾に沈んでいます。

【テレビ派 2026年3月12日放送】