かつて、「現代思想」というものがあった──【仲正昌樹『集中講義! 日本の現代思想』】#1
ポストモダンと「その後」を問いなおす
丸山眞男や吉本隆明など戦後思想との比較を踏まえ、浅田彰や中沢新一らの言説からポストモダン思想の功罪を論じたロングセラー『集中講義! 日本の現代思想』。
80年代に流行した「現代思想」は海外思想をいかに咀嚼して成り立ち、若者を魅了しながら広がり、やがて終焉へ向かったのでしょうか。またその後、ゼロ年代以降の「哲学・思想」ブームによって、多くの「スター」が輩出されても、彼らを軸にした思想の流れが生まれてこないのはなぜなのでしょうか──?
今回は新版刊行を記念し、本書のイントロダクションを3回にわたって公開します。
(全3回の第1回。第2回は12月26日公開予定)
『新版 集中講義!日本の現代思想』 書影
「八〇年代思想」としての現代思想
一九六三年生まれの私が学生だった頃、つまり一九八〇年代、日本の大学を中心とする人文系アカデミズムでは、「現代思想」という一定のジャンルが成立し、流行っていた。少なくとも、私が金沢大学に就職した九八年一月頃までは、肯定的に評価するのであれ否定的に評価するのであれ、「現代思想」とはだいたいどういうものかという了解があったような気がする―――裏を返して言えば、現時点では、かなり曖昧模糊としたものになっているということだが。
その場合の「現代思想」というのは、当然、「現代(同時代)において主流になっている思想(傾向)」とか「現代(同時代)の思想(家)にとっての主要な課題」、といった一般的な意味ではない。そうしたごく一般的な意味での“現代思想”は、各国・地域の各時代・年代ごとにあるはずだし、その意味で「現代思想」というタイトルが付けられている書籍はかなり昔からある。
たとえば、戦後の論壇に大きな影響を与えた社会学者・評論家の清水幾太郎(一九〇七―八八)には、『現代思想入門』(一九五九)『現代思想(上・下)』(一九六六)の二冊の著書があるが、これらは、私が本書で問題にしようとしている「現代思想」とは意味が異なっている。この二冊はそれぞれ、五〇年代後半あるいは六〇年代前半の政治・社会状況における思想の課題と、(清水から見て)それらの課題に答えようとしている当時の最先端に位置する“一群の思想”、たとえば、デューイ(一八五九―一九五二)のプラグマティズムやサルトル(一九〇五―八〇)の実存主義などをコンパクトにまとめて紹介したものである。清水は、それらの思想の間に見出されるいくつかの傾向を取り出そうとしているが、それらが、与えられた課題をめぐる思考を進めていくための一定のルール、手順、スタイルなどを共有しているという前提には必ずしも立っていない。
本書で言う「現代思想」というジャンルが、日本ではっきりとした輪郭を獲得するに至ったのは、おそらく、フランスの“現代思想”の動向に詳しい浅田彰(一九五七― )の『構造と力』が十数万部のベストセラーになった一九八三年前後であろう。この時期は、戦後の日本において大きな位置を占めてきた、階級闘争史観を前提とするマルクス主義の影響が政治運動の面でもアカデミズムの面でも大きく後退し、大量消費社会の現実に対応する新しい思想の枠組みが求められていた。そこで、高度に発達・爛熟した資本主義社会の行方と、その中で生きる「人間」像の変容、過激な言い方をすれば、「人間の終焉」を論じるフランスの“現代思想”が、“新しい時代”へのヒントを与えてくれるものとして新鮮に見えたわけである―――こうした政治・経済状況と、浅田たちの台頭の関係について詳しくは第Ⅱ部以降で論じることにする。そういう意味で、浅田がある時期まで代表していた「現代思想」とは、日本の八〇年代的な社会・経済状況に対応する「八〇年代思想」であったと理解している人も少なくない。
“不真面目な” 現代思想?
たしかに時代状況論的な側面に集中すると、[現代思想=八〇年代思想]という見方も成立するが、「現代思想」という呼称には、それだけに還元されないものも含まれていた(という気がする)。どこが違うのか要約するのは難しいが、あえてコンパクトに言うと、「「思想」という言葉の意味するところが従来と違う」、ということに尽きるだろう。
それまで大学などのアカデミックな場で使われる「思想」という言葉は、結構曖昧なところもあったが、最大公約数として、1人間の生き方あるいは社会の在り方にとって重要な意味をもつとされる課題について、2体系的かつ真摯に思索を積み重ねていき、3その課題に「解答」を与える、あるいは、与えることを目指す―――ということを含意していた、と言うことができるだろう。もっと平たく言うと、単に「考えることthinking」ではなく、一定のまとまりをもって蓄積していく「思想=考えられたもの(の集積体)thought」になっていなければならなかったわけである。
その意味では、体系的な思索を特徴とする「哲学」と結び付いていたと言える。大学の文学部あるいは人文学部―――ドイツの場合は、ほぼ同じものを「哲学部」という―――で教えられている狭義の哲学の枠から少しはみ出している“思想”、つまり哲学ほど厳密な手順を踏んで記述されない広義の“哲学”を、「思想」と呼んでいたと考えることもできる。もともと文献学者であったニーチェ(一八四四―一九〇〇)や、在野の政治活動家であるマルクス(一八一八―八三)、あるいは、社会学者である清水のような“思想”記述は、広義の“哲学”という意味で、「思想」と呼ばれていた。別の側面から見ると、狭義の「哲学」には、論理的整合性にこだわり、矛盾を回避しようとするので、なかなか最終的な「解答」に到達できない、あるいは、むしろ“不完全な解答”に到達するのを躊躇っているふしさえある。そのため、従来の哲学の“解答”の矛盾を是正して、より「真理」に近付こうとして延々と「哲学」が続くことになる。広義の“哲学”としての「思想」は、その点は割とルーズで、マルクス主義がまさにそうであるように、思い切って最終的な「解答」を出してしまい、自らを画期的な「世界観」として提示しようとするところがある。
そのように一貫性あるいは完結性を志向する従来の「哲学・思想」に比べると、「現代思想」は、まず2の点で決定的に異なっていた。少し後で述べるように、「現代思想」は、人間の「理性」にもとづく「体系」的な思考を信用しておらず、むしろ信用してしまうことの危険性を強調する傾向があり、理路整然としている「体系」を整えているかのような記述は行わない。「体系」を回避する、強い言い方をすれば、次第に脱・体系化もしくは脱・中心化していく傾向にあるのが、「現代思想」的な思考様式だと言うこともできる。そのため、体系的な記述を着実に積み重ねていくことが、知的な誠実さ、真面目さの証であるとされてきた従来の「思想」観に慣れ親しんだ人から見れば、「現代思想」はふざけているように見える。浅田彰が『構造と力』の中で使った、「シラケつつノリ、ノリつつシラケる」という有名なフレーズは、「現代思想」の不真面目さの象徴のように思われていたふしがある。
そして、「体系」化を拒否するせいで、「現代思想」はなかなか「解答」に向かって接近しているようには見えない。というより、「解答」という形の最終的な「目的=終焉end」に向かっていくつもりがそもそもないようにさえ見える。ストレートに「解答」に向かっていこうとしないで、あっちこっちにくねくねとねじ曲がり、いつまでもだらだらと埒の明かない思索を続けているように見えるのが、「現代思想」の特徴だ。すでに述べたように、狭義の「哲学」にももともと最終的な「解答」をなかなか出そうとしないところがある。ただし、「哲学」の場合は、いちおう「解答」を目指すという姿勢は見せるものの、なかなか到達できないで、結果的に延々と議論を続けることになるのに対し、「現代思想」は最初から確信犯的に、「解答」を放棄しているように見えるところがある。自分自身の“理性”を信用していないので、その論理的帰結としての「解答」も信用できないのである。自己自身の思考の根拠を徹底的に疑い続けるという意味では、通常の哲学以上に“哲学的”であるとも言えるわけだが、そのため、従来的な意味での“真面目な思想家”からなおさら嫌われることになる。
本書『新版 集中講義! 日本の現代思想 ポストモダンと「その後」を問いなおす』では、旧版に2万超の新章「二一世紀に“日本の現代思想”は存在するか」を加えた以下の構成で、「思想」の可能性をいま改めて問うていきます。
序 かつて、「現代思想」というものがあった
Ⅰ 空回りしたマルクス主義
第一講 現実離れの戦後マルクス主義
第二講 大衆社会のサヨク思想
Ⅱ 生産から消費へ──「現代思想」の背景
第三講 ポストモダンの社会的条件
第四講 近代知の限界──構造主義からポスト構造主義へ
Ⅲ 八〇年代に何が起きたか
第五講 日本版「現代思想」の誕生
第六講 「ニュー・アカデミズム」の広がり
Ⅳ 「現代思想」の左転回
第七講 なぜ「現代思想」は「終焉」したのか
第八講 カンタン化する「現代思想」
Ⅴ 物語の構造を見失った日本
第九講 二一世紀に“日本の現代思想”は存在するか
仲正昌樹(なかまさ・まさき)
哲学者、金沢大学教授。1963年広島県生まれ。東京大学総合文化研究科地域文化研究専攻博士課程修了。金沢大学法学類教授。専門は法哲学、政治思想史、ドイツ文学。著書に『現代哲学の最前線』『現代哲学の論点』(NHK出版新書)、『新版 集中講義!アメリカ現代思想』(NHKブックス)、『ヘーゲルを超えるヘーゲル』(講談社現代新書)、『〈戦後思想〉入門講義 丸山眞男と吉本隆明』『自由民主主義入門講義』(作品社)など多数。
※刊行時の情報です。
■『新版 集中講義! 日本の現代思想 ポストモダンと「その後」を問いなおす』より抜粋
■注、図版、写真、ルビなどは、記事から割愛している場合があります。

