作家・政治家として活躍した石原慎太郎は、どんな人物だったか。長男の石原伸晃さんは「ときに殴られることはあった。しかし世間が思っているほど、厳しい父親というわけではなかった」という――。

※本稿は、石原伸晃、石原良純、石原宏高、石原延啓『石原家の兄弟』(新潮社)の一部を再編集したものです。

写真=AFP/時事通信フォト
日本・原発事故・東京に関連した仏AFP通信社・小澤治美によるインタビューに、東京都庁で応じる石原慎太郎知事(2011年6月28日撮影) - 写真=AFP/時事通信フォト

■父・石原慎太郎の素顔

石原慎太郎=『スパルタ教育』(昭和44年の著書。副題「強い子どもに育てる本」光文社)というイメージが定着しているせいか、「さぞかし厳しいお父さんだったでしょう」と言われる事が良くある。

確かに思い付きで行動したり、意に沿わない事は断固拒否したり、自分を貫き通す事は多々あったが、では、厳しかったか、と問われると全くそのような事は無かった。

私の祖父、石原潔の家は宇和島藩の服部家の分家で所謂(いわゆる)没落士族であったが、明治生まれの祖母光子はその家系に誇りを抱いていたらしい。年長者を頂点としたヒエラルキーが厳然とした家長絶対主義者で、故にその祖母に育てられた父もその影響を受けていたのだろう。

自分の家庭は自分が守り、子供達を一人前に育てる、と言う使命感は誰よりも強かったように思う。

■父の“聖域”をこっそり探検した

父の書斎は家の一番日当たりの良い一等地にあったが、特に出入り禁止という訳ではなく、父が不在の時には防音の為の重い厚い扉を開けて中を探検しに入った。机の上の分厚い広辞苑、船の形の文鎮、双眼鏡などをひとしきり眺めてから奥の書庫に入る。

暗い、中2階までびっしりと本が詰まったそこは紙の匂いと静けさに満たされていて聖域、と言う感じがした。小学校高学年位になると、父がそこから本を抜き出して勧めてくれるようになり、その一人前扱いが嬉しくて随分と背伸びをしたものだった。

書庫の前には白黒の外国人男性の写真が飾ってあり、誰かと問うと、一番好きな作家でヘミングウェイと言うんだ、と言い、『キリマンジャロの雪』を手渡してくれた。

■逗子駅の本屋ではツケ払いで買う

内容は難しく子供の私にはさっぱり理解できなかったが、父が語ってくれた、スペイン内戦で報道記者として戦い冒険好きだった作家自身の人生や、キリマンジャロの山頂で凍え死んだ豹のイメージは強く心に残った。

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※写真はイメージです - 写真=iStock.com/vovashevchuk

その他、ジイドの『地の糧』、ジョン・ファウルズの『魔術師』、福永武彦の『草の花』等、父のオススメは難解なものばかりだったが、自分の愛する作品を息子に伝える事に喜びを見出していたのではないだろうか。

自然、私も本好きになり、父が逗子駅の本屋さんに話をつけてくれて私が買う本を全てツケ払いにしてくれたのは嬉しかった。但しマンガ本はその限りにあらず、だったのは残念だったが。

■自宅の裏の公園に、縊死体を見に行った

三島由紀夫全集を読むように、とも勧められた。俺の事を連隊旗を引き継ぐ文人だと思ってくれている尊敬する先輩だ、と良く言っていた。

同じく尊敬する作家の川端康成先生が亡くなった、と言う一報を受けた時には私を連れて逗子マリーナの氏の書斎に駆け付けた。私はその時中学生だったが、父のその後暫く続いた沈鬱さに、自殺、と言う暗い影を身近に感じたものだった。

鎌倉文士の仲間の作家が自死を遂げた時も父は私を伴った。また、逗子の家の裏手にある披露山公園の林で縊死体を発見したハイカーが我が家の電話を借りて警察に通報した事があったが、その時も警察より先に二人で現場を見に行った。

父は子供を死から遠ざけるべき存在ではなく、人生の最後には死がある事、そして人生を途中で自ら断つという選択の結果を私に見せ、何かを学ばせようとしたのだと思う。

■墓参りでは大きな花束を持参する

祖父の墓参りにもよく連れて行かれた。いつも豪華な色とりどりの大きな花束を持参し、墓前で長々とお経を唱えていた。

私が退屈で不満を言うと、このお祖父ちゃんが居たからお前が居るんだ、と繰り返し言われたものだった。

殊更に読書を強制されたり、死について語ったり、先祖供養の大切さを諭されたりと言う事は無かったが、共に経験をする中で身に付いた事々は今でも私の核となっている。

■目の前で、ポンッポンッと蓮の花が開いた

自然を体験する楽しさ、素晴らしさ、恐ろしさも父から学んだ。或る朝、非常に珍しい事だったが未明に起きた父が自分で運転し、鎌倉の鶴岡八幡宮に連れて行ってくれた。

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池のほとりで待っていると陽が昇るのと同時にポン、ポンッ、と音を立てて蓮の花が開いて行き、見る間に池一面が白とピンクの花に覆われた。気品に溢れた造形美に二人で見惚れたものだった。

或る夜は長者ヶ崎まで散歩に誘われた。片道7、8キロだろうか、歩き疲れた頃に、ここが分水嶺だ覚えておけ、と言われた岬を回ると突然空気が変わり、見上げると町では決して見られない満天の星だった。

台風の日に外へ出てみようと一緒に海まで行った事もある。暴風と大雨を体に受け、自然のエネルギーの凄まじさ、人間の身の小ささを思い知った。

■「脆弱な都会っ子の泣きっ面」と笑った

父と小坪に散歩に行った時の事。小坪は今でこそお洒落なレストランやカフェがあるが、当時は漁村だった。

父と二人で歩いていると向こうから小学生の私と同じくらいの背丈の子が何やら大きな物をぶら下げて歩いて来る。すれ違いざまその子がホラッ! と私の顔の前にそのモノを突き付けた。

グニャグニャした灰色の物体のあまりの不気味さに私はワーッと飛び退いたが、なんとそれはアンコウで、父とその子は半泣きの私を見て大笑い。「あれは脆弱な都会っ子の泣き面だったな」とその後魚介の鍋を見る度に父は同じ話を繰り返し愉快がった。

たくさん色々歩いたが、道端にあるお地蔵さんや道祖神にその都度手を合わせ、神社の鳥居をくぐる時には頭を下げる父だった。

■父が電車の中で幼稚園児の私を殴った

『スパルタ教育』の中で「子どもをなぐることを恐れるな」と言う今なら物議を醸し、炎上するような項目がある。無論それは虐待容認という事では決してなく、父曰く、「人間の規範を」教える為の、「もっとも効果的」な、「肉体対肉体の伝達」方法という事らしい。

私が父に初めて殴られたのは幼稚園生の時。

東海道線の中で初めて傷痍軍人に遭遇し、「あの人どうしたの?」と指差した時だった。指と顔を同時に叩かれて驚き泣いたが、なぜその軍人が身体の一部を失う事になったのか、と戦争について教えられ、その恐ろしさが叩かれたショックと共に心に刻まれた。

■親子そろってやらかした「遭難事件」

次に殴られたのは高校生の時。友人と3人でデイセイラーという小さな船に乗って三崎まで遊びに行ったが、帰途の風が悪く予定帰港時間を大幅に過ぎてしまった。

写真=iStock.com/valio84sl
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ようよう港に帰ると、連絡を受けた父が鬼の形相で待ち構えており、謝るより先に思い切り殴られた。それだけ心配をかけたのだな、と申し訳なく反省した。

後から聞くと、父も自分が小学校5年生の時に同じようなボート事件をやらかし、祖父に体罰を受けた事があったそうで、「親子だなぁ」と思い出を懐かしがっていた。

■石原慎太郎が涙を流して喜んだ日

時代が変わり、世の中の常識も規範も変わった今、父の教育、子供の育て方に対する考え方や方針が正しい、正しくない、という判断は下せないが、父が自分なりの信義と愛情の下、石原家をリードしていたのは間違いなく、母も又、良妻賢母たるイメージを常に念頭に、父に寄り添い、日々努力を重ねていたのだと思う。

お陰様で私達4人の息子達もオジサン、オジイサンになり、家庭を築き、子供を育て、それぞれの人生のコマを進めている。

石原伸晃、石原良純、石原宏高、石原延啓『石原家の兄弟』(新潮社)

私の長女は父母にとっての初孫だったが誕生の時、真っ先に父が駆け付け、「こうやって血脈は続いていくんだと実感するなぁ」と涙を流して喜んだ。

人生が何度もやり直しできるものではない以上、100%正しい教育、という大それた答えは見つけられまいが、私も父母から受けた教育を自分なりの判断、基準で取捨選択し、実践してきたつもりだ。

娘、息子がそれをどう捉え、かみ砕き、受け継いで行くかは彼ら次第。日々、より難しくなって行く社会だが、その一員として歩んで行く彼らの人生に、そして続いて行くであろう血脈に幸多からんことを心の底から願うのみだ。

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石原 伸晃(いしはら・のぶてる)
元自民党幹事長
1957(昭和32)年、神奈川生まれ。慶應義塾大学文学部卒。日本テレビ政治部記者を経て、1990年に衆議院議員初当選。以降、10期連続当選、衆議院議員在職32年。経済再生担当大臣、社会保障・税一体改革担当大臣などを歴任。2025年、政界引退。現在は政治ジャーナリストとしてテレビなどに出演。コラムニスト、執筆人としても活躍。
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(元自民党幹事長 石原 伸晃)