モルモン教の福岡神殿(画像/著者提供)

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今夏、女優・斉藤由貴の不倫騒動が報じられた際、彼女が「モルモン教」を信仰していることも注目された。モルモン教は男女問題に非常に厳格なため、今回の一件で彼女は、地元の教会に除名処分を願い出たという。なぜそこまで不倫に厳しいのか。その背景には「多重婚の容認」という歴史が関係している。宗教ジャーナリストの松口祐太氏が解説する――。

女優・斉藤由貴、保守系知識人として多くの著作を出しているケント・ギルバード、外国人タレントのケント・デリカットは、共通した信仰を持っている。アメリカ発祥の新宗教、モルモン教(正式名称は末日聖徒イエス・キリスト教会)だ。後者2人は、アメリカから布教目的で来日した宣教師である。

モルモン教は、全世界で約1500万人以上の信者数を持つ巨大教団である。アメリカ国内でいえば、2012年に共和党の大統領候補として、オバマ前大統領と争ったミット・ロムニーもモルモン教徒だ。

では、モルモン教とは何か? 実態を知る人は少ないだろう。例えば街で若い西洋人の男性2人組に「キリストの教えについて」や、「無料英会話教室」などに誘われた経験がある人がいるかもしれない。これは、モルモン教の宣教師が行う典型的な手法だ。

■「金版」と「翻訳機」から始まった信仰

まず、モルモン教の歴史について見ていこう。

モルモン教は、1830年にアメリカのニューヨーク州で、ジョセフ・スミス・Jr(1805−44)によって設立された。スミスは1823年、ニューヨーク州パラマイラ南方にあるクモラの丘で古代文字によって書かれた「金版」を発見した。この金版には、旧約聖書の時代にアメリカに移住してきた(と彼らが主張する)ユダヤ人の衰退の歴史が預言者モルモンによって記録されたものであるという。そして、この金版はモルモンの息子のモロナイによって隠されていたとされる。

スミスは、この金版と同時に発見された「ウリムとトンミム」という翻訳機のようなものを用い、古代文字を解読した。そして、これを1830年に『モルモン書(The Book of Mormon)』と題して出版し、宗教教団を設立して信者を獲得していった。

急速に規模を拡大したモルモン教は、周辺住民との軋轢によってオハイオ州、ミズーリ州などに移動することになる。1839年4月には、イリノイ州ノーヴーに落ち着いた。信者たちは都市をつくり、市独自の立法権・司法権・義勇軍などを組織し、市長となったスミスはこれらを掌握した。またこの当時、多妻婚が行われた。そしてこれがのちに大問題となる。

1844年、スミスはアメリカ大統領選挙に出馬を表明。これに危機感を覚えた米国政府は、反逆罪の疑いでスミスを逮捕した。牢獄に監禁されたスミスは、同年、教会に不満を持つ群衆に襲撃され殺害された。

リーダーを失ったモルモン教は、新たにブリガム・ヤング(1801−1877)を大管長として選出し、集団で西へ移動した。1847年6月、彼らはユタ準州(現・ユタ州)を移住地とし、初代知事に就任したヤングのもとで開拓・都市建設を行った。ユタは急速に発展したが、アメリカ政府との軋轢が深まり、1857年5月にはユタ戦争が勃発する。

この戦争の要因のひとつは、先に述べた多妻婚であったといわれている。アメリカはピューリタンによって建設された国家で性倫理に非常に厳しく、多妻婚が堕落とみられていた。内乱は短期間で終結したが、政府との冷戦状態は続いた。だがユタは比較的孤立した土地にあったため、政府の干渉も限定的であり、モルモン教の信者たちは自分たちで理想の都市建設を行うことができた。

ユタが独立を維持することが難しくなったのは、大陸横断鉄道が敷設された南北戦争後だ。1877年、連邦議会で多妻婚を禁じる「エドマンド・タッカー法」が採択された。また、ユタ準州の州への格上げ問題なども起こり、1890年、ヤングの後を継いだウィルフォード・ウッドラフ大管長が「神からの啓示」という形で多妻婚の廃止を宣言する。以降、モルモン教は厳格な一夫一婦制をとり、違反者を破門するようになった。

■明治時代に来日した宣教師たち

モルモン教と日本との関係は、1872(明治5)年にさかのぼる。

不平等条約改正などを目的として渡米した岩倉使節団がワシントンに向かう途中、大陸横断鉄道が雪のため動けなくなり、ソルトレイクに滞在した。使節団はソルトレイクでモルモン教会に歓待を受けたようであるが、同行した久米邦武や木戸孝允が、アメリカという文明国家において多妻婚が行われていることに驚いたと記録されている。

モルモン教が日本にやってくるのは、1890(明治23)年の大日本帝国憲法の施行が最大の要因になっている。憲法によって一定の信教の自由が保障されたため、モルモン教本部は日本への布教を決定した。

1901(明治34)年8月、のちに大管長となるヒーバー・J・グラントを伝道部長とした4名の宣教師が横浜に到着した。当時の時事新報には、次のような記述がみられる。

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多妻主義を以て聞こえたる米国ユータのモルモン宗宣教師日本に渡航せんとすとの風説は予て米国新聞に見たる所なるが右は単に風説に止まらざりしと覚しく一昨日横浜入港のエムブレツス号にてグラント氏外三人遂に我邦に来着したり。氏等来航の目的は先づ日本の土地を視察し都合に依り分教会を設立せんとするが為なりと云ふ。(明治34年時事新報8月14日)

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ここから読み取れるように、すでに日本ではモルモン教が多妻婚を行っていたことが知れ渡っていたようだ。

来日した宣教師らは、多妻婚は1890年にすでに放棄した事実を新聞で紹介するなど、イメージの払拭から始めていった。当時のインタビュー記事には、

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グラント氏等は曰く「一夫多妻は過去の事なり。願くは二六の読者をして吾徒を誤解せしむる勿れ。吾徒は他より問はれざれば好んで一夫多妻主義を談ぜず。貴下も知る如く米国にても其実行は禁ぜられ、又貴国にても法律にて禁ぜらるる。(中略)吾徒は第一歩として此の諸問題より貴国人に教へ始めんとす。両三日前の事なりき、或る他宗の宣教師来りて次の日曜演説に一夫多妻主義を始め其他モルモン信仰の非なる事を攻撃すべしと我等に告げられぬ。(「二六新報」明治34年8月23日)

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とある。明治政府はモルモン教を警戒したが、内務省による内偵の結果、特に問題が見つからなかったとされ、国内で布教が黙認されることとなった。宣教師らは、重要な聖典であるモルモン書(当時はモルモン経)の翻訳を夏目漱石に頼むなど、活発に活動したが、夏目による翻訳はかなわなかった。最終的に、漱石に紹介された生田長江による翻訳によって1909(明治42)年にモルモン書は刊行された。

■現在の日本人信者は約13万人

モルモン教の宣教師たちは聖典の翻訳や街頭勧誘など精力的に活動したが、日本人信者は増えなかった。布教活動に陰りが見え始めたさなか、1923年(大正12年)9月1日に関東大震災が発生。宣教師らに被害は無かったが、都内の伝道本部が損壊し、組織の維持が難しくなる。また、1924(大正13)年にアメリカ本国で排日移民法が成立したことで日本人の対米感情が悪化し、主にアメリカ人で構成されていた宣教師たちは窮地に立たされた。同年、アメリカ本部は日本からの撤退を決定し、ハワイにいる日系移民への布教にシフトする。

モルモン教徒が日本国内に増えたのは、戦後のことだ。布教活動を再開し、60年代以降は急速に信者を獲得していった。1970年の大阪万博に建てられたモルモンパビリオンには、天皇陛下(当時は皇太子)が訪問している。現在、日本人信者は13万人ほどである。

端的に言えば、モルモン教は、当時のアメリカにおけるキリスト教の教えや旧約聖書に描かれる世界観を独自に再解釈したもので、分類的にはキリスト教系の新宗教であるといえる。ベースはキリスト教であるが、先に述べた多妻婚などは、旧約聖書に見られる部族社会の世界観を当時のアメリカで再興させたものであると考えられる。

モルモン教信者のみで行われる、一般には公開されない儀式などもある。これらをいくつか紹介しておこう。

前提として、モルモン教の行事は世界共通のプログラムで行われる。聖典や機関誌、学習教材などはすべてアメリカで出されたものを布教先用に翻訳したものである。そのため、日本独自の教えなどは存在しない。

また、誤解を恐れずに言えば、日本のモルモン教信者はあまり目立たない。これは、布教活動を行う宣教師のほうが社会との接点が多く、一般信者はほとんど普通の生活を送っているためだ。ただ、食事に関するタブーがあり、コーヒーなどのカフェインを含むものやアルコール、タバコを摂取することができない。日本人信者は、社会人になった際などの飲み会で、大変心苦しい気持ちになることがあるという。

■日本国内には「神殿」が3つ

モルモン教では、教会にあたる施設を「ワード」と呼ぶ。現在、日本国内にワードは265カ所、これらを統括する伝道部は全国に7カ所存在する。ワードでは、聖餐会という一般のキリスト教でいう礼拝が行われる。

ワードとは別に、特別な儀式を行う「神殿」もある。この神殿は、モルモン教の信者のみ入ることができる施設である。モルモン教の信仰で最も重要な要素を持っており、「地上で最も神聖な、人が神と聖約を交わす礼拝の場所」と教義上で位置づけられている。

神殿は世界で157カ所に存在しており、日本では東京都港区にある「東京神殿」(1980年建立)、福岡県福岡市にある「福岡神殿」(2000年建立)、北海道札幌市の「札幌神殿」(2016年建立)の3カ所がある。

神殿で行われる儀式には、信者同士で行われる結婚式(死後の世界でも結婚が継続される)のほか、死者のために行われるバプテスマなどがある。特に、この死者のために行われるバプテスマは、一般的なキリスト教とは最も違うモルモン教独自の儀式だ。

バプテスマ(洗礼)はキリスト教の儀式で、入信のために行われるサクラメント(秘跡)だ。カトリックでは幼児洗礼、プロテスタントでは成人洗礼が一般的であるが、モルモン教では、すでに死んだ先祖のために代理でバプテスマを行うことができる。そのため、モルモン教の信者は先祖の情報を収集することが奨励されている。この先祖の情報はモルモン教本部に送られ、グラナイトマウンテン記録保管庫というユタ州の施設で管理される。

■モルモン教会が男女問題に厳格な理由

最後に、多妻婚についても取り上げておこう。教会は1890年以降、厳格な一夫一婦主義を取り入れたことはすでに述べた。現在、モルモン教会は男女問題に非常に厳格だが、これはアメリカにおける歴史的経緯が理由なのだ。初代管長のジョセフ・スミスには40人の妻がおり、最年少の妻は14歳であった。そのことをモルモン教会が正式に認めたのは2014年のことである。

現在でも、モルモン教に関して取り上げられる事件で、多妻婚に関するものがある。モルモン教会は認めていないが、モルモン教分派に分類されるFLDS(The Fundamentalist Church of Jesus Christ of Latter-Day Saints)という宗教団体がある。彼らは19世紀前半のモルモン教の教えを忠実に守り、今でも多妻婚を行っている。2008年には指導者のウォレン・ジェフスが14歳の少女と結婚を行ったとして指名手配され、12人の信徒が重婚や未成年者に対する性的行為の容疑で起訴された。こういった事件と結び付けられることを、モルモン教会は特にセンシティブに感じているのである。

このように、斉藤由貴が不倫問題でバッシングを受けた際、彼女自身が除名を申し出たのは、モルモン教の持つ歴史的経緯によるものであるというのは想像に難くない。モルモン教会が男女問題に非常に厳格なのは、多妻婚という歴史があったからなのだ。

(宗教ジャーナリスト 松口 祐太)