日本語と中国語(330)

(111)むつとしてもどれば庭に柳かな

 「弁じますなんか講釈師の云ひ草だ。演舌家はもつと上品な詞(ことば)を使つて貰(もら)ひ度(たい)ね」と迷亭に交ぜ返された寒月君は少々むっとして、「弁じますが下品なら何と云つたらいいでせう」と問いかける。「寒月君そんな弥次馬に構はず、さつさと遣るが好い」と主人。

 すると迷亭、「むつとして弁じましたる柳かな」かねと、なおも悪乗りを続ける。

 この句、句になってるかなあ?まあ一応は俳句の体裁を保ってはいるけれど。

 実はこの句にはもとの句がある。「実は」なんてもったいぶらなくても、たいていの人は一度や二度耳にしたり目にしたりしているはずの句である。

  むつとしてもどれば庭に柳かな

 出先で言い争いでもしてきたのでしょうか、怒りが収まらないまま門をくぐると、庭に柳が枝を垂れていた。そうだ、この柳の枝のように万事逆らわないで穏やかに受け流さなくては、と悟ったのでしょうね。あまりうまい句だと思いませんがね、理屈っぽくて。作者は大島蓼太(りょうた)という江戸時代の俳人です。1718−1787

 上に「たいていの人は一度や二度……」と書いたけれど、やはり簡単に出典に触れる程度の注釈はあったほうが親切だ。

  江戸中期の俳人、大島蓼太の句に「むつとして戻れば庭に柳かな」がある。(岩波『漱石全集』1993年版)

 ちょっと簡単すぎるなあ。でも、無いよりはまし。他も似たり寄ったり。どういうわけか、岩波文庫は注なし。手抜き?

  江戸中期の俳人大島蓼太に「むつとして戻れば庭に柳かな」という句がある。この句にかけた冗談。(集英社『漱石文学全集』)   江戸中期の俳人、大島蓼太(りょうた)の句〈むっとして戻れば庭に柳かな〉をもじった洒落。(新潮文庫)

  蕪村の弟子の俳人大島蓼太の句「むっとして戻れば庭に柳かな」をもじったもの。(文春文庫)   「むっとして戻れば庭に柳かな」のもじり。作者大島蓼太は蕪村の弟子で中期の俳人,「西の暁台、東の蓼太」といわれた。(角川文庫)

 ね、似たり寄ったりでしょ?まあ角川文庫の「西の暁台、東の蓼太」くらいが新情報か。でも、『猫』の鑑賞には差し当たって必要なさそう。ついでながら、暁台は加藤姓、尾張藩に仕えたが、辞して俳諧に専念した。確か、「秋の山ところどころに烟たつ」という平明な句があった。関係ないか、これも『猫』の鑑賞には。

(112)翻訳者泣かせの駄じゃれ 

 迷亭のこの句をもじった駄じゃれ、やっぱり俳句というより駄じゃれでしょうね、上手か下手かはともかく、「もどれば庭に柳かな」は意味は明快であるが、「弁じましたる柳かな」ではなんのことかさっぱりわからない。

 「冗談」だか「もじり」だか知らないけれど、こんな駄じゃれ、翻訳者泣かせですよね。日本語で説明せよと言われても、うまく説明できません。少なくとも、私には。

 試しに中国語訳を見てみましょうか。   

 于雷さん、ほんとにわかって訳されたのかしら。は「うちしおれている」、むっとするとはちょっとずれている。“恰似”は「よく似ている」。「庭の柳」に似ていると言いたいのであろうが、“慢慢道来”(ゆっくり弁じる)と“庭中柳”のつながりがよくわからない。というよりも、もともとつながりようがないのである。もう一つ挙げよう。

 がと1字ふえただけで、他はそっくり同じ。もちろん、例の訳である。(執筆者:上野惠司 編集担当:水野陽子)