なぜかインバウンドが急増中…岡山県南部“ナゾの観光地の駅”「宇野」には何がある?
岡山駅のホームには、小柳ルミ子『瀬戸の花嫁』のメロディが流れている。瀬戸大橋を渡って四国に向かう列車のターミナルだからだ。
【写真多数】駅舎はまるで地中海…ナゾの観光地「宇野」を写真で一気に見る
『瀬戸の花嫁』は50年以上前の曲で、もちろんリアルタイムでは知るはずもない。それでもこの曲のメロディをホームで聞くと、なんともいえない旅情を感じるものである。
だから、『瀬戸の花嫁』に背中を押されてそのまま四国に向かう列車に乗るのもいい。ただ、ここはあえて脇に逸れてみたい。岡山〜宇野間を結ぶJR宇野線、通称“宇野みなと線”だ。
かつては四国へのメインルート
途中までは瀬戸大橋線と重なり、茶屋町駅で東に分かれて宇野駅へ。1時間に1本ほどの電車が走る、いわばローカル線だ。
ただし、1988年に瀬戸大橋ができるまでは、終点・宇野駅から高松に向かって連絡船が出ていた。つまりかつては宇野線の方が四国へのメインルートだったのだ。

岡山県南部“ナゾの観光地の駅”「宇野」には何がある? 撮影=鼠入昌史
だから、『瀬戸の花嫁』にふさわしい旅情といったらむしろ宇野。そんな思惑で、宇野駅を目指したのである。
のんびりと車窓でも眺めよう…とはならず
宇野駅は宇野線の終点といっても、岡山駅から直通する列車は少ない。大半の列車は茶屋町駅から瀬戸大橋方面に向かってしまうのだ。
だから、茶屋町駅で宇野行きの電車に乗り継がねばならぬ。かつての四国へのメインルートもいまや裏街道といったところか。
だからお客も少ないに違いない、のんびりと車窓でも眺めよう……などとタカをくくっていた。ところが、なかなかどうして電車の中は賑やかだ。
お客のほとんどが、外国人。でかいキャリーケースを抱えている人も少なくない。
外国人旅行者はどこへ行く?
彼らとともに茶屋町駅から30分ほど電車に揺られ、終点の宇野駅に着く。線路の途切れる頭端式のホームが1面あって、ホームからそのまま通じている改札口を抜けて小さな駅舎。
駅員さんのいない無人駅だが、観光案内所やちょっとした土産物店が入っていて、到着した外国人観光客が案内所のおばちゃんに何やら話しかけていた。
宇野駅に降り立った外国人たちは、そのまま駅前の広場から目の前の横断歩道を渡り、すぐ近くにある港に向かう。
彼らの目的地は、フェリー乗り場から通じている直島、そしてその東に浮かぶ豊島・小豆島のようだ。
直島といえば、いまやアートで名高い島だ。草間彌生の例のカボチャがあるのも直島だ。
2010年から定期的に開催されている瀬戸内国際芸術祭の効果もあって、いまやひっきりなしに外国人がやってくるインバウンドの島。おかげで、宇野駅はその玄関口となっている、というわけだ。
特に観光でやってきた外国人からすれば、新幹線で岡山駅に向かい、そこで宇野線に乗り継いで終点へ。そして港から船に乗れば直島に行けるのだからわかりやすい。
そういう事情もあって、宇野線と宇野駅は外国人観光客で賑わっているのだろう。
ただ、船が出てしまえば宇野駅周辺に留まる観光客はほとんどいない。すっかり静かになった宇野の駅。
島から島へと渡ってゆく外国人たちに背を向けて、こちらは宇野の町をもう少し歩いてみよう。
地中海を想起させるような駅舎と港のエリア
現在の宇野駅は、1994年に建てられた駅舎だ。オレンジ色の屋根と白い壁が青い空と海によく映える。
すぐ隣の交番や駅前広場の公衆トイレまで似たようなデザインで統一されていた。どことなく、地中海を想起させるような宇野駅だ。
駅の南側には外国人観光客が消えていった港がある。国道30号を渡れば、もうそこが港のエリア。南に向かって大きく海に突き出す突堤の先に行くと、手の届きそうな近くに直島が見える。
このあたり、かつては宇野と高松を結んでいた宇高連絡船の桟橋エリアだ。
宇野駅に着いたお客はそのまま桟橋に向かい、待ち受けていた船に乗り継いだ。さらに突堤の東側に向かっても、貨物用のエリアを含めて広大な鉄道用地が広がっていたようだ。
が、そんな面影はほぼ完全に消え失せているといっていい。
観光客向けのホテルがあったり、線路沿いの大通りにはヤマダデンキがあったり。路地に入ると工場群。これは連絡船現役時代からの施設なのだろう。
反対に、宇野駅のすぐ西側。こちらには、武骨な工場群とはうってかわって昔ながらの商店街になっていた。
メインストリートは築港銀座などと呼ばれ、ひと昔前まではアーケード商店街だったという。いまでも古い旅館や飲食店などが軒を連ねている。
ロードサイドにはお馴染みのチェーン店
古い地図を見ると、連絡船時代の宇野駅はいまとは違って西に正面を向けていた。つまり船に乗り継がないお客は、宇野駅を降りるとすぐ真正面にこの商店街、というあんばいだ。
駅前旅館に宿をとり、近くの酒場に足を運んだ人も少なくなかったろう。そんな“港の駅前繁華街”の面影がいまもほんのりと残っている。
そんな繁華街や宇野駅の南を東西に貫く国道30号。国道を西に向かって少し歩く。
こちらは築港銀座とは少し違い、大型の商業施設などが目立つエリアだ。いわゆる“ロードサイド系”といったところか。
特に国道の南側の一帯は玉野市役所あり、天満屋ハピータウンを核とする複合施設・メルカありと、なかなか規模が大きい。おなじみのチェーン店の看板もずらりと並ぶ。
一方で、海の近くには薄れて消えそうなTSUTAYAの看板を掲げたビルもあった。
調べてみると、昔はこのビルに天満屋ハピータウンが入っていたのだとか。ハピータウンは百貨店・天満屋系列の商業施設。その第1号が、宇野駅近くのこのビルにあった。開業したのは1972年のことだ。同じビルにはボウリング場なども設けられている。
だが、ハピータウンは現在のメルカに増床移転し、変わってTSUTAYAが入るもいまや空きテナントに。カラオケ店や飲食店などはいまも営業中だ。
連絡船全盛期、昭和40年代前半までは駅前の築港銀座が押しも押されもせぬ大中心部だったのだろう。
その後は“新開地”として現れた国道の南側の一角に中心部が移り、さらに現在では国道沿いのロードサイドが中心に。そんなひとつの都市の移り変わりが、宇野駅の周辺を少し歩くばかりで察することができる。
明治末期に港が整備され現在の姿に
そもそも、宇野が港町として台頭したのはそれほど古いことではなく、明治時代の終わり頃からだ。
それより前の時代の宇野はというと、秀吉の時代に大坂城の石垣の石を運び出した、などという逸話があるくらいで、基本的には小さな漁村。近辺では、日比の港などのほうが遥かに栄えていた。
ところが、そんな寒村に近代港が現れたのが明治の終わり頃。岡山県の8代目知事・檜垣直右が県議会の反対なども押し切って「県政百年の計」となかば強引に整備を推し進めたのが現在の宇野港なのだ。
そして1910年には宇野〜高松間を結ぶ宇高連絡船が誕生。以後、長らく本四連絡の主役を張り、宇野はその本州側の拠点として栄えることになる。
さらに1917年には玉地区に三井造船の工場ができて、連絡船と造船業の二本柱で発展していった。1940年には、県下第三の人口を抱える都市として「玉野市」が誕生している。
戦後は「宇野の黄金時代」が到来
戦後も宇野の快進撃は続く。1960年に宇野線が電化すると翌年、東京から直通の特急が登場。
1972年の山陽新幹線開通時には、“船も夢の超特急”とばかりに連絡船にホバークラフトを導入した。それまでは1時間もかかっていた高松までの所要時間が、これで20分ちょっとに短縮されたという。
この時期にはそろそろカーフェリーなどに押されつつあったのだろうが、それでも宇野の黄金時代。
20分ちょっとで高松なのだから、何とすれば県都・岡山駅よりもよっぽど近い。実際、当時の高校生たちは都会まで遊びに行くとなれば船に乗って高松まで足を伸ばしたのだとか。
しかし、1988年に瀬戸大橋が開通すると連絡船のターミナルとしての役割を失うことになる。
幻に終わった「スペイン村」建設計画
広大な鉄道施設も連絡船に乗り継ぐ桟橋も必要ない。だから駅はだいぶ小さくなって、現在のコンパクトな駅舎に装いを改めた。
いま、連絡船の設備のあった突堤付近を歩いても、往時の面影はほとんど残っていない。わずか突堤の隅っこに、宇野港を築いた檜垣知事の像が建ち、その近くに連絡船の小さな遺構があるくらいだ。
実は連絡船なきあと、この町では跡地を活用して「スペイン村」なるレジャー施設の建設を計画していた。
玉野市や岡山県も出資する第三セクターを設立し、国鉄用地(国鉄清算事業団用地)を取得してスペインの伝統ある町並を再現。1992年のバルセロナ五輪に合わせてオープンしよう……というものだ。
当時は連絡船がなくなり造船不況という二重苦にあった玉野にとって、観光産業は町の救世主として期待されたのである。
しかし、ほどなくバブルが崩壊し、用地を取得しただけで建設には至らずスペイン村計画は頓挫した。
このあたりの成り行きは、とりたてて珍しくもなんともない。バブル崩壊に前後して日本中でこうしたよくわからないレジャー施設構想が生まれては頓挫していた。
宇野駅前のスペイン村も、数多の例のひとつに過ぎない。むしろ建物ができる前に諦めたのは幸運だったといっていい。なまじっかスペイン村ができていたら、それがそっくり廃墟になっていたのかもしれないのだから。
そんな幻のスペイン村。ほとんど唯一といっていい名残が、宇野駅だ。1994年に完成した宇野駅は、構想段階のスペイン村に合わせてデザインされたのだとか。
だからどことなく地中海ムード。瀬戸内海といえば、日本の地中海。スペイン村はないけれど、芸術の島の玄関口としては案外馴染んだ駅舎になっていた。
撮影=鼠入昌史
〈ポツンと残された線路跡、市街地の中に現れるトンネル…岡山の港町から“わずか19年”で消えた「幻のローカル線」の痕跡をたどる〉へ続く
(鼠入 昌史)
