岩下志麻さん、夫・篠田正浩さんを亡くして初の公の場に。「94歳の誕生日を祝ったすぐ後、突然逝ってしまった夫・篠田正浩。今も書斎の遺骨に、今日あったことを報告して」
2026年5月30日、女優の岩下志麻さん(85)が、都内で「映画監督 篠田正浩レトロスペクティブ」トークイベントに登壇した。夫の篠田正浩さんが25年3月25日に94歳で亡くなって以来、初の公の場。「やっと前向きになれた」と気持ちを語った。岩下さんが篠田さんを見送って半年、夫婦の思い出を語ったインタビューを再配信します。********日本を代表する映画監督の一人である篠田正浩さんが亡くなって半年が経つ。妻であり、篠田作品に欠かせない主演女優でもあった岩下志麻さんが夫との日々を振り返る。(聞き手:関容子 撮影:岡本隆史)
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94歳の誕生日を一緒に祝って
――日本映画界を牽引した篠田正浩監督が逝去したのは2025年3月25日。永年連れ添った女優の岩下志麻さんは未だ傷心の中にいる。でも、今日はあえて楽しかった思い出を語り、改めてその幸せを噛みしめていただきたい。
まだお骨は篠田の書斎の机の上に置いてあるんですよ。今日あったことを報告して、「また来るわね」「明日も頑張るわね」と、いつも話しかけてます。お夕飯の時がとっても寂しいです。いつも隣にいた人が、いないから……。
ここ2年くらい老化が進みましたが、今年1月に転倒して骨折してからは急に体力が落ちましたね。それでも3月9日のお誕生日には、娘一家と集まってお祝いできたんですよ。その時、「94歳だなんて……こんなに生きるとは思わなかった」と言って、初めて私と行ったカンヌ国際映画祭のことや、楽しかったことをいろいろ話したりしてました。
そのあと肺炎になって入院するんですけれど、1週間くらいで治るからと看護師さんがおっしゃったので、「よくなったらすぐ家に帰りましょうね」って言ったら「うん」って返事をしてくれて。ところが翌朝5時に、突然亡くなってしまったんです。
病院からの知らせは、早朝。娘のところに電話がありました。その後、私は何も手につかず泣いてばかりで……。葬儀のことからお別れ会のことなど、全部娘がしてくれて本当に助かりました。
――篠田家の墓所は岐阜にあって、曹洞宗。岩下家は品川で時宗だとか。
ええ、篠田は私の両親と同居していましたから、品川のお墓詣りにもよく一緒に行って、「僕はこの時宗が好きだから、亡くなったらここに入れてもらうから頼むよ」と言っていて。
亡くなった後で本棚を見たら、「時宗」の本が、まぁ10冊以上ありましたから。相当研究したようです。本当に勉強家でした。
それでも4年ほど前からは「やっぱり岐阜に分骨してもらおうかな」と言い始めたので、その通りにしたんです。いろいろ昔の思い出が蘇ってきて、故郷がなつかしくなったんでしょうね。
――志麻さんと監督との出会いは、篠田監督2作目の『乾いた湖』(1960年)。主演女優のオーディションで、志麻さんを見て即決した、と私は以前、監督から聞いている。脚本家の寺山修司と「あの子ですね!」とにっこり顔を見合わせた、と。
あら、そうですか。オーディションは神楽坂にある日本旅館でしたね。ショッキングピンクの五分丈のショートパンツに、アロハっぽいものをパッと羽織って、金のペンダントをしてる男性が。当然、助監督さんだと思って、「あの、監督さんは?」「僕です」って(笑)。
この作品が私の主演デビュー。相手役の三上真一郎さんとキスシーンがあって、グズグズしてたら、「はい、キスして、早く」って怒鳴られたりしましたね。
この映画をご覧になった小津安二郎監督が、「あの女優はどんなもんかい」って篠田に訊いたんですって。何て答えたか知りませんけど、おかげで小津先生の『秋日和』にちょっと出演させていただき、次に『秋刀魚の味』の主役をいただきました。篠田の『乾いた湖』がなければ小津監督の目にも留まらなかったわけで、今あるのは篠田のおかげだと思っています。

家族旅行での一枚。仲良く腕を組んで(写真提供:岩下志麻事務所)
30歳までは結婚しないと思っていたのに
――監督との結婚を決めたのは、『暗殺』(64年)の完成打ち上げの会でマンボを踊っていて、突然「この人と結婚する!」と閃いたからとか。志麻さんは子供の頃から霊感が強かった。
そうなの。私が子供の頃の夢で、大好きだったお祖母ちゃんを戸板に乗っけて大勢の小人がさぁーっと運び去って行くのを見たんですよ。お祖母ちゃん、亡くなったんじゃないの? と言ったら、翌日本当に亡くなっていました。
小津先生の時も、私の枕元に立って、「志麻ちゃん、やっと楽になったよ」とおっしゃった。それで母に、「小津先生、今日亡くなったみたい」と伝えると、「ええっ?」って。そして本当にお亡くなりになりました。ところが私、子供を産んだらストーンとその霊感が消えたんですよ。楽になりました。
それで『暗殺』の撮影の時にね、前のキスシーンのことがあったんで、私、京都にいる篠田に電話をしたんです。現場でいきなり、「はい、裸になって!」なんて言われたら困るので、「あの、ラブシーンはどのようにお撮りになるのでしょうか」って。
そしたら笑って、「僕はそんなひどい扱いはしませんから、安心して来てください」と、すご〜く優しい声に聞こえたのね。(笑)
それで京都に行ったら、篠田も丁寧に扱ってくれて、共演の丹波哲郎さんも親切にしてくださいました。あの方は私のこと「志麻子」って呼ぶの。
催眠術がすごかったですね。みんなの前で「手が開かなくなる〜」って言うと、本当に私の手が開かなくなるの。そしてパーンと手を叩くと、フワッと手が開くんです。
すごい、と思っていたら、「二人きりの部屋でやれば、将来結婚する人を出してあげるよ」と言われて。そんなことして「君は裸になる〜」なんて暗示をかけられたら困りますから(笑)、それはお断りしました。
――京都で撮影が終わると、監督と二人、先斗町でよく飲んだとか。
よく、でもないわよ。2、3回。その頃は私もお酒が強かったので、最初のデートで二合徳利が10本並んだわね。篠田はずっと映画の話を大学の講義みたいに話してて、私は生徒のようにおとなしくそれを聴いてましたから、全然酔わなかった。
その後、東京へ帰って、赤坂のニューラテンクォーターという所での打ち上げで二人で踊った時に突然閃いて、「私、監督と結婚するような気がする」って言っちゃったの。
ほんとは束縛されるのがいやだから、30歳までは絶対、結婚なんかしないと思ってたのに、なぜそんなこと言ったかわからない。そうしたら篠田はパッと引いちゃって、向こうに行っちゃった。清純派だと思ってたのに、とんでもない! って思ったらしいの。(笑)
それからしばらく会わないでいたんだけど、篠田が脚本家の白坂依志夫さんとパリに行った時、金の模様の入ったとても素敵な黒いハンドバッグを買ってきてくれたんです。それを持って、私の家に来てくれました。今でも取ってありますよ、そのバッグ。
<後編につづく>
