「首を半分切断」の痛ましい事故…人間爆弾「桜花」の特攻隊員が目にした「血の洪水」

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太平洋戦争末期、日本海軍は、1.2トンの爆弾に翼とロケットをつけ、それに操縦席をつけたような形の特攻兵器「桜花」を開発、実戦に投入した。「人間爆弾」とも呼ばれた桜花は、母機の一式陸上攻撃機に懸吊され、敵艦隊の手前で投下されたら滑空で、あるいはロケットを吹かして敵艦に突入する。のべ10回の出撃で、桜花は米駆逐艦1隻を撃沈、6隻に損傷を与えたが、その戦果はとても犠牲に見合うものではなかった。生き残った元桜花搭乗員は戦後も長く結束を保っていたが、今年(2026年)、ついにの最後の一人が亡くなった。

私は2023年6月、『カミカゼの幽霊 人間爆弾をつくった父』(小学館)という本を上梓している。大戦中、桜花を発案し、終戦直後に自決したとされながら、戦後は戸籍も名前も失ったまま半世紀近くを別人として生きた大田正一とその家族の数奇な運命を描いたノンフィクションだ。この作品のなかで大きな役割を占める桜花特攻隊員が、貴重な日記を残していた。「死」を目前にした隊員の目に映っていたものとは――。(第5回前編)

「大空の記」と題する戦争中の手記

佐伯正明(旧姓味口)は戦争中、「大空の記」と題するノート8冊(本来もう1冊あったが、最初のものは戦災で焼失)におよぶ手記を、終戦2年後の昭和22(1947)年には「神雷の回顧」と題した手記を書き残している。いずれも、当事者ならではの視点で書かれていて、資料的価値も高い。

前回は、戦争末期の空襲など、神之池基地の模様について述べた。今回は佐伯の目に映った「終戦」である

〈すっかり夏になった。昼間の暑さはどうだ。光と影が次第に判然してきて、夏だ、という感じが十分である。

はじめて関東で迎える夏。どんなものであろうか、楽しみである。〉

昭和20(1945)年夏、茨城県神之池基地の桜花隊にまたも出撃準備の命令が下り、選ばれた者はどこへとも言わずに転勤していった。佐伯は1月に負った傷もすっかり癒えていたが、またも居残りである。

やがて神之池基地でも、K1(桜花の練習機型)の投下訓練が再開された。これは、来るべき本土決戦に備えたものだ。

訓練初日から殉職者を出していた

第1回にも書いたように、K1での人身事故は、終戦までの9ヵ月のあいだに4件、うち死亡事故は2件で死亡者2名で、海軍航空隊の他の機種に比べてけっして多くはない。

だが投下訓練が再開された7月26日、最若年の搭乗員だった中根凡夫二飛曹が殉職する事故が起きた。以下、佐伯の「大空の記」より。

〈この日は快晴であったが、地点上空で落ちず、行き過ぎて陸攻がバンク(主翼を傾けること)をふるとトタンに落下し、爆弾の落ちるように落ち、右に右に主翼を急激に振りつつ、物凄いスピードで垂直に落下、グングン〇千米の高度より地上に向けて落ち、やがて第一飛行場の中へ入り、グーっと機首を起こした時にはしばらく水平飛行を行い、エンド(飛行場の端)の松林の中へ、弾丸を撃ち込む如き速力で突入してしまった。

風防ガラスは吹き飛び、風防サイドの縁で首を半分切断、食道まで見えていた。座席は血の洪水で、痛ましき殉職であった。

訓練第一日より殉職者を出したが、原因は陸攻の爆管(投下装置)不良のため不時落下してバンクをとって傾いているとき落ちたので、桜花も傾いたままであった。それで、泡食ったのだ。落着きを失った彼は無意識に第一飛行場へ向け右旋回を行い、飛行場を通過、エンドの松林に飛び込んでしまったのである。

この日、正規のところで常通り投下された者は何事もなく第二飛行場に降着、貴重なる飛行を経験した。

翌日、自分は第二飛行場指揮所にあって、この投下状況を地上で見た。指揮所といっても草原の一隅に建つバラックの如きもので、簡単である。

その屋根の上に立って、終始見学ができた。この第二回目のときも不時落下の機がまた一機あった。

例によって指揮所頭上まで来たが、落ちない。やり直し、飛行場を右に見て、大きくまわっている。すると、レンズ(双眼鏡)についていた整備員が、

「あッ落としました❕」

と素っ頓狂に叫んだ。地上では指揮官はじめとして腰掛をはねこかせて飛び上がった。

見る見るうちに(飛行場の)エンドにそって飛んでくる。正常の飛行ぶりだったが、とんでもないところで離されたものだ。陸攻の奴どうしたのか?しかし考える暇はなかった。

ドンドン飛ぶ。地上では丸川中尉が叫んだ。「オイツ救急車をよべ、それと戸板用意しろ」

(K1は)真正面を向いて飛んできた。俺たちは泡食った。また少し右にひねった。やれよかった。そのうちに高度二十米ぐらいで目の前へ迫ってきた。このスマートな機体!ああ、きれいだ。褐色の機体、小さな主翼、尾翼!風防を閉めてある中に、ぼんやりと曇ってはいるが、操縦中の搭乗員の姿が見える。目の前を疾風のようにサーっと飛んでくる。見守っていると、無事場内に入った。〉

「大空の記」から見て取れる特攻隊員の暮らし

このK1は、陸攻の投下ミスにもかかわらず、搭乗員の沈着な操縦で無事に着陸できたのだ。搭乗員は、中根二飛曹と同期、甲種予科練十三期出身の堀重計二飛曹だった。

それからの「大空の記」には、部隊で流行っていた「コックリさん」(もっとも、各部隊で流行っていたようだ)の話題や、「遺品控え」として全持ち物を記しているが、持ち物は、

「ノート10冊、ハンカチ3枚、マフラー2枚、革財布1個、石鹸箱1個、航空手袋(左)、靴べら1個……それにマスコット人形や現金400余円」など、全部合わせてもカバン一つで容易に持ち歩ける程度の身軽さである(着るものやマフラー以外の装備は官給品、あるいは貸与品)。

【後編を読む】<無戸籍のまま癌で亡くなった…人間爆弾「桜花」の発案者が辿った数奇な運命>

【つづきを読む】無戸籍のまま癌で亡くなった…人間爆弾「桜花」の発案者が辿った数奇な運命