現在放送中のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』。ゆかりの城として今回訪れたのは、滋賀県長浜市の「小谷城」だ。浅井長政の“最期の地”となった城は、今どうなっているのか?

【写真多数】苔むした石垣、赤く染まった池、秀吉の“強行突破”ルートも…道中を写真で一気に見る(全38枚)


浅井長政が自刃を遂げた“難攻不落の城”「小谷城」の遺構をたどる 写真=今泉慎一

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あまりに広大な“広義”の小谷城

 信長に反旗を翻した「金ヶ崎の退き口」から3年。ついに浅井長政が散る。5月3日放送の大河ドラマ『豊臣兄弟!』第17回では小谷城が落城し長政は自刃してしまう。先陣を切って突入した秀吉の奇策によりあっけなく落城した小谷城だが、実際には難攻不落を絵に描いたような巨大山城だ。現地に足を運んでみるとそれがよくわかる。

 標高495mの小谷山は、谷を挟んで2本の尾根が伸びている。“狭義”の小谷城は東側の尾根を指し、大半の人はこちらのみを訪れる。ただし広い意味では東の尾根や周囲の支尾根、谷間に至るまで小谷山全山が小谷城だともいえる。それらをすべて踏破してこそ、その堅固さがわかるはず。今回は、小谷城完全制覇作戦だ。

敵の陣城は目と鼻の先に

 全域制覇にはおそらく丸1日かかるだろうと予測し、出発は午前7時半。初めに西尾根を南から北へ辿り、Uターンするように東尾根へと向かう計画だ。

 登山口から早々に現れるのが「出丸」。のっけから丁寧な土塁がグルリ。木々の隙間から見えるのは虎御前山城(とらごぜやまじょう)。秀吉ほか織田軍が小谷城攻めで駐屯した陣城(前線基地)だ。直線距離だと1kmくらいでは? この距離で睨み合っていたのかと思うとゾクゾクする。

 出丸直下の山腹には車道がある。実は麓から中腹の「番所」まで季節によりシャトルバスも出ているのだが、一般車両は進入禁止。歩きやすさよりも雰囲気重視、尾根伝いの登山道を登る。

「金吾丸」、番所を過ぎ「御馬屋」にたどりつく。「籠城戦で馬は不要なはずだけどな……」と毎度思うが、山城でも馬関連の名がついた遺構は意外と多い。御馬屋の一角には「馬洗池」もあった。

 セオリー的に考えれば水の手(城内の水源)だとは思うが、鉄分を含んでいるのか赤いのが気になる。深さも数十cmほどだし、もしや成分的に飲用には適さず、本当に馬洗い用だったのかも……。

 曲輪の端まで足を運ぶと、虎御前山城が正面にはっきり見えた。出丸よりは距離があるが、やはり近い。しかし標高はこちらの方が上なので、織田軍の動きは城内から手に取るように掴めそうだ。

首据石とはもしや……

 馬洗池の脇を抜けると、道は二又に分岐している。そしてその傍に気になるものが……。

「首据石」? もしや浅井長政の? と思ったが違った。長政の祖父・亮政(すけまさ)の時代に、内通した家臣を誅殺しその首を晒した石だった。長政が切腹したのは、分岐から脇へ進み、しばらく行った先の赤尾屋敷だ。

 赤尾屋敷の背後には、見上げるような切岸。この上が「本丸」や「大広間」だ。

 織田軍に城内に攻め込まれた際、長政は本丸から討って出たものの退路を絶たれ、やむなくここで自刃したと伝わる。覚悟していたとはいえ、想定外の最期となったのだ。

 生きたまま救出された妻・お市とその子である三姉妹、嫡男の万福丸がいたのは頭上の大広間あたりだっただろうか。切岸を隔てて今生の別れだったとすると、実に傷ましい。

本丸の先に小谷城最大の見所

 二又まで戻り、本丸方面へ。するとすぐに黒金門の石垣が見えてくる。両脇の斜面にも巨石が散在している。往時はズラリ石垣だったのだろう。

 門を抜けると大広間。ここが事実上の主郭だろう。それにしても広い。幅は30m以上、奥行きは100m弱はありそうだ。縦断した先には、今度は崩れていない見事な野面積みの石垣が現れた。

 この上が本丸だ。石垣の脇から登り、反対側を覗き込んで息を呑む。

 この大堀切のハンパなさは、下に戻り脇から見上げるとさらに際立つ。落差もさることながら、幅もスゴい。全国に数多ある山城の大堀切でも屈指の規模だろう。

城内最大の大石垣が山上に

 普通の城ならここが城端でもおかしくないのだが、小谷城にはまだまだ先がある。地図を見ると、さらに曲輪が連なっているのがよくわかる。

 大堀切を挟んで南北別の城、いわゆる「一城別郭」と見ていいだろう。小谷城の戦いでも、長政は本丸に陣取り、父・久政は「小丸」にいたという。ちなみに標高で本丸付近が350m、山王丸はさらに50mほど高い。

 大堀切から、「中丸(中ノ丸)」「京極丸」「小丸」「山王丸」と、勾配はさほど急ではないが遺構が次々と現れる。サイズ感は小ぶりだがタイプは様々で変化に富んでいる。

 猛攻をかわしつつ進軍する気分で登ってゆくと、目の前にスゴい石垣が現れた。本丸や黒金門のそれよりはるかに高く、落差10m以上はありそうだ。案内板によると城内最大とのこと。

 石垣の崩壊は破城の跡。ということは秀吉の仕業か? 小谷城の戦いで大手柄を挙げた秀吉は同城を信長から与えられるが、しばらくして長浜城へ移り小谷城は廃城に。その際のものだろうか。

ようやく全体の中間地点

 この山王丸まででようやく“狭義”の小谷城を制覇したことになるが、恐ろしいことにこれで全体の中間地点。まだまだ先がある。時刻は13時前。

 山王丸から北は一気の下り。本丸背後と異なり、こちらは堀切を設けるまでもない。幅狭、デコボコ、急峻な天然の要害が守ってくれている。比高30〜40mを一気に下る。

 その途上、谷を挟んで西尾根が見えた。山頂が大嶽城(おおづくじょう)。小谷城の戦いでは、朝倉家の援軍の主要陣地だった。あそこまで登るのか……。

 一度下ってからまた登るのは精神的にダメージが大きい。だが行くしかない。下り切った鞍部が「六坊」。寺院があったらしいが、ここも小谷城の一部として緊急時は活用されたのでは?

 大嶽へ向かう前に、少し北の尾根へ寄り道。出丸「月所丸」が北を守っているのだ。5分もせず到達。北側に高土塁と一体化した切岸、さらにその外には二重堀切。

 この尾根は山続きに越前へと続く「越前忍道」という間道だったという。そんなところまで固めていたのかと感心する。

大嶽城の圧巻の遺構群

 引き返しいよいよ大嶽城へ。六坊からの比高は120m強もある。標高は495m、東尾根の最高地点だった山王丸よりも100mも高い。案の定、胸をつくような急坂で、必死に登ってゆく。

 休み休み30分ほどでようやく山頂へ。いきなりの大嶽城の主郭だ。ぐるりと土塁で囲まれている。主郭を中心に、同心円状に帯曲輪とも横堀とも見える地形が並び、それらにも土塁がきっちり築かれている。都合3年も続いた浅井・朝倉vs信長戦の中で、徐々に改修を加えていったのかもしれない。

 東尾根と同じく西尾根も南から尾根伝いの道が最も勾配がゆるやか。当然、そちらを固める必要があるな、と思いながら下った先に大竪堀が落ちていた。

極めて技巧的な2つの出丸

 大竪堀を横目に、尾根を下ってゆく。この先に出丸が2つ。なかなか辿りつかないが、あとは下りなので気は楽だ。約20分で城の遺構らしき凸凹が見えてきた。「福寿丸」だ。時刻は15時30分。比高は一気に200m近くを下っていた。

 曲輪はほぼ主郭のみの単郭タイプだが、かなり技巧的。主郭をグルリと囲む土塁の高さも相当だし、見事な食違い虎口まである。しかも北と東の2カ所。北側の虎口の外にある幅広の横堀は尾根の両端まで続いている。

 福寿丸からさらに下ること20分ほど。比高100mほど下がったところに「山崎丸」。こちらも福寿丸同様に凝っている。

 タイプは似ており、単郭の外周部を土塁で固めてある。南側の横堀は、やはり比較的幅の広い尾根いっぱいに伸びていた。

秀吉の駆け上ったあの場所へ

 山崎丸からは10分ほどで登山口の清水神社にたどり着く。これで2つの尾根を完走、つまり支城や出丸を含む小谷城をコンプリートしたことになる。16時30分。日没までもう少し時間があったので、疲労困憊だが気合いを入れ直し2つの尾根に挟まれた「清水谷」へ。

 谷の奥まった場所に、実は小谷城の戦いに関する重要スポットが隠れている。徳勝寺から薄暗い谷間へ入り込み、5分ほどで目的のものが見えてきた。「水ノ手」だ。

 今も滔々と湧水が流れ落ちているこの谷間、実は秀吉が強攻突入したルートにあたる。「大嶽城と出丸はもちろん、さらにここまで来てこそ、小谷城完全制覇といえるのではないか」と一人合点。しかしこの坂を駆け上ったのか、やはり天下を獲る男のやることは違うな、と思う。

 今も一応、小谷城まで登山道は伸びているらしいが、流石にこの時間からは無謀過ぎるので、またの機会に。

 完全制覇ついでに、さらに奥まった場所にある「三田村屋敷」「土佐屋敷(大野木屋敷)」へ。

 清水谷の最も奥まったところにある土佐屋敷の石垣が圧巻だった。

 これは屋敷というより城郭遺構では? 少し登れば六坊や月所丸だし、谷筋から登って来る敵を阻止するための防備を固めていても不思議ではない。第一、生活するには日当たりも悪そうだし……。

 前言撤回。この土佐屋敷の石垣まで押さえてこそ、「小谷城完全制覇」だと。丸一日歩き通しはなかなかハードだったが、満足度は非常に高い小谷城攻めだった。

写真=今泉慎一

(今泉 慎一)