RKK

写真拡大

日本が高度経済成長に沸いていた時代、現在のチッソの付属病院から水俣保健所に報告が入りました。

【写真を見る】水俣病「認定基準」めぐって続く対立 公式確認から70年 最高裁判決後も国の態度変わらず

「原因不明の脳症状を呈する患者が発生」

1956年5月1日。公害の原点といわれる水俣病の発生が公式に確認された日です。

チッソの工場が流したメチル水銀を含む排水が不知火海に広がり、汚染された魚介類を食べた人たちが発症したのです。

12年後にようやく「公害病」

国がようやく水俣病を公害病と認定したのは、公式確認から12年も経ってからのことでした。

国がチッソの責任を認めたことで、被害を訴える人たちがチッソに損害賠償を求め提訴しました。

判決は原告の全面勝訴でした。

これを受け、国の基準で水俣病と認定された患者に、チッソが補償する仕組みができたのです。

認定基準の厳格化…「患者切り捨て」

この頃から「水俣病」の認定を求める人が急増し、国は1977年、水俣病の認定基準を「感覚障害や視野が狭まるなど複数の症状の組み合わせが必要」と厳しくしました。

これで、水俣病と認められる人は激減し、「患者切り捨て」とも言われました。

長引く闘争、疲弊する被害者たち

当時の政府は、患者に認定されない人たちに一時金を支払うなどの対応で、事態の収束をはかろうとしました。

ただその条件は、「水俣病とは認めず、裁判も取り下げること」「国や県の行政責任を問わない」というものでした。

長引く闘争に疲弊していた被害者たちは、苦渋の選択でこれを受け入れざるをえませんでした。

最高裁が行政責任を認定するも…

ところが、大きな転機が訪れます。不知火海沿岸から関西に移り住んだ被害者たちが起こした裁判で最高裁判所が初めて国や県の行政責任を認めたのです。

しかも、国の認定基準より広く水俣病と認めました。

阪南中央病院 村田三郎医師「これまでの認定基準を大きく変える突破口になるかもしれない」

しかし、国は現在も、最高裁の判決によって「認定基準が否定されたわけではない」という立場は崩していません。