昨年2月、襲名式での糸数真・二代目会長(撮影/鈴木智彦)

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 4月19日未明、沖縄市諸見里の集合住宅で火災が発生し、焼け跡から性別不明の1人の遺体が見つかった。現場は沖縄の指定暴力団・旭琉會が事務所兼住宅として使用しており、トップの糸数真会長と連絡が取れていなかった。その後、21日になって沖縄県警が遺体は糸数会長だったと発表した。沖縄の暴力団は身内で血を流し続けた過去がある。幾度の抗争で一般市民にも犠牲者を出し、暴対法制定の一因になったほど。ようやく平穏を取り戻した矢先にトップを失うという事態に見舞われた沖縄暴力団は今後どうなるのか。長年、旭琉會に密着してきたフリーライターの鈴木智彦氏が緊急寄稿する。

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 4月19日、沖縄の二代目旭琉會糸数真会長(71歳)が亡くなった。

 午前4時過ぎ、沖縄市諸見里のマンション最上階から出火、火の手は4階部分に広がり、居住エリアが全焼したという。ここは糸数会長が自宅兼事務所にしていた場所だ。情況から考え、旭琉會の幹部は午前中の早い時間に、遺体がほぼ糸数会長だと判断していたようである。だが遺体の損傷が酷く、死亡が確定したのは2日後に持ち越された。
 
 糸数会長が旭琉會の当代である二代目会長を襲名したのは昨年の2月8日だった。組織にとって最大の慶事からわずか1年2ヶ月後、不慮の火災事故でトップが帰らぬ人となってしまった。長い時間をかけて調整し、ようやく完成した沖縄暴力社会の未来図は白紙撤回され、すべて一からやり直しになる。

 沖縄県警は警戒しているだろう。

 なにしろ沖縄の暴力団社会は、火を噴くと大爆発する土地柄だ。5次に渡る苛烈な抗争を経て、四代目旭琉会と沖縄旭琉会が大同団結、ようやく「旭琉會」として一本化したのは2011年と遅かった。また2019年7月、沖縄のカリスマだった初代・富永清会長が亡くなってからも、実に5年もの間、トップ不在の状態が続いていた。

「力を持った一派の意向が筋になるなら、親分連中は『殺せ』しか言わなくなる。果たしてそれでいいのかとゆっくり話し合った」(旭琉會の古参幹部)

 糸数会長の旭琉會の二代目襲名は慎重かつ入念な根回しを経て実現していた。その膨大な努力が、この火事によって灰燼に帰したのだ。

山口組の沖縄侵攻で、身内同士の抗争へ

 沖縄の抗争事件は加減がない。1992年に施行された暴力団対策法も、沖縄抗争が加熱し、定時制高校に在籍する高校生や警察官が巻き添え死する異常事態が発生、抑止力となる法律が必要だと議論され、施行された経緯がある。特に日本最大の暴力団である山口組が沖縄に進出した昭和の一時期は、殺しに躊躇がなかった。山口組が那覇市内に初めて四次団体の事務所を開設したのは1970年4月のことだ。

 事務所は警察によって撤収されたが、本土暴力団の県内進出に警戒感を強めた沖縄暴力団は、この年の12月に沖縄連合旭琉会を結成、東亜友愛事業組合沖縄支部と向かい合った。当時、山口組は『山口組時報』という機関誌を発行していた。編集責任者の小田秀臣若頭補佐は本土復帰の2ヶ月前に取材名目で沖縄を訪問、誌面で沖縄進出を明言した。

「わが系列下の沖縄在住組員はいかにと、訪問したのであるが、軍政下において半端に育った"ぐれん隊"にあらず。組長の宜保(※俊夫)氏を頂点として、実によく統制の取れた、そして礼儀の正しい組織であった」(『山口組時報』第4号「時局随想」)

 山口組の全国進出は地元の火種を煽り、離脱派に肩入れして進む。1974年5月、旭琉会理事の上原一家・上原勇吉が待遇を巡る不満で脱退すると沖縄はたちまち発火し、短期間で殺人事件が連鎖する。山口組は水面下で上原一家をバックアップし、のち、系列化に組み入れるのだ。

 脱退から2ヶ月も経たない10月24日、まずは宜野湾市のクラブでミンタミーこと新城喜史・旭琉会理事長が射殺された。12月14日にはその報復で、上原一家幹部が糸満市の平和の塔の裏にある崖下で刺し殺された。2ヶ月後に起きた殺人事件は、目を覆いたくなるような残虐さで沖縄暴力団を全国に知らしめた。

 翌年2月14日、旭琉会の7名が、上原一家組員3名を詐言を弄しておびき出す。だが旭琉会は親分の上原総長の居場所を聞き出せなかった。上原一家の組員たちは自分たちを埋めるための穴を1.35メートルの深さまで掘らされ、穴の中で拳銃を乱射され死んだ。うち一人が瀕死で這い上がってきたが、胸をナイフで刺され、埋め戻されている。残忍な事件は新聞や雑誌で大きく取り上げられ、映画にもなった。実行犯の他、旭琉会初代・仲本善忠会長が殺人教唆で逮捕され無期懲役となったが、コロナ禍の直前、仮釈放を間近に控えながら風邪をこじらせ亡くなっている。

警官に「お前から先に殺してやる」

上原一家が山口組大平組に加入し、東亜友愛沖縄支部から分派した琉真会が、当時、大平組だった古川組と結縁すると、抗争はさらに激化する。1977年には旭琉会の4人が上原一家の組事務所に貼り付き警戒をしている警察官に向かって「イッター・カラサチニ・クルサイヤー(お前から先に殺してやる)」と叫んで発砲、その隙に手榴弾を投げ込んで襲撃した。この事件によって沖縄県警は「発砲もやむなし」との通達を下している。しかし、その後の第5次抗争で2人の警官が誤射され殉職した。

 東京都の石原慎太郎都知事下で副知事となり、「歌舞伎町浄化作戦」を敢行した竹花豊氏は、1978年、沖縄県警捜査第二課長として『沖縄県における暴力団の実態と取締まり』を執筆した。原稿によると、1961年9月の第一次沖縄抗争勃発から1978年11月までの間、〈殺された暴力団員は25名、抗争中に殺されかかった者延36名にのぼる〉という。
 
 沖縄暴力団にはヤクザの順列とは別に、地縁・血縁の縛りが濃厚に残っており、人間関係が複雑だ。うるさ型が多い地元の先輩連中が、最終的に年が若い糸数体制を受け入れたのは、二代目会長が身体を懸け、"ジギリ"と呼ばれる抗争事件の当事者だったからに違いない。

 糸数二代目は、初代富永会長と同じ久米島出身で、富永初代の出身母体である富永一家の三代目を継いだ子飼いだ。若い頃は2022年にNHKで放映された連続テレビ小説『ちむどんどん』の舞台となった横浜市鶴見・潮田地区の沖縄人集住エリアに住み、富永一家川崎支部を率いていた。ドラマの放映時、鶴見時代の思い出を訊いたことがある。

「本土復帰の前だから、パスポートを持って沖縄と鶴見を行ったり来たりの生活。鶴見はアパートや飲み屋でも、沖縄人お断りのところがたくさんあった。なにせすぐ喧嘩をするしね。朝鮮の人たちとは仲が良かった。地域には共産党もあちこちにいた」(糸数会長)

 他団体との小競り合いもあったが、「相手があることだから」と詳細を話すことはなかった。当時はまだ関東も、もめ事は暴力でカタを付ける荒事第一主義の時代だったから、差し障りも多いのだろう。

長期服役を経て沖縄ヤクザをまとめた糸数会長

 糸数会長自身も自らヒットマンとなって長期服役した過去を持っている。

 沖縄と鶴見を行き来して暮らしていたが、1982年、沖縄に戻ると多和田真山二代目会長が関東風のシマ割り(各組織の「縄張り」)制度を導入、各一家に不満が鬱積していた。多和田会長は若い頃、スナックで刺殺事件を起こし、殺害現場で「俺も男だ。自分で死ぬ」と自らの首を刺した後、割腹自殺を図った激情家である。
 
「多和田組結成当時から会長の取り調べなどに当たってきた捜査員は『多和田は性格的にも攻撃的な男。部下をとりまとめる手腕もそれなりにあったが、あれだけの大組織をまとめるにはある程度の恐怖政治も行っていたはずだ』と話す」(『琉球新報』1982年10月12日号)

 シマ割りは、よほど強引だったのだろう。
 
 27歳の糸数二代目は鶴見に戻らず、ヒットマンとなった。多和田二代目は沖縄市・中の町のカウンターが6、7席だけの小さなスナックで撃たれ絶命した。多和田会長はオールドパーが好きで、襲撃時も愛飲していたらしい。新聞はシマ割り制度が、これですべてパーになったと揶揄した。

 刑期は15年で出所するとまたも沖縄は第五次抗争が終結したばかりで剣呑だった。抗争の完全終結は、前述の通り2011年の大同団結まで待たねばならない。

 糸数会長の急逝で、沖縄の暴力団社会はどうなるのか。警察関係者に当てると、沖縄県警は山口組トップである司忍組長の出身母体である弘道会四代目を襲名した野内正博会長が、糸数会長の兄弟分だった事実を警戒しているふうである。

「もはや昭和や平成ではない。山口組とて、このご時世に強引な横やりを入れるはずもない。だが歴史を見れば、沖縄をかき回したのは山口組だ。沖縄のことは沖縄で決めるにしても、予想外の事態だけにすぐに跡目は決められないだろう」(警察関係者)

 時代背景を考えればいくさ世に戻ることは考えにくいが、沖縄暴力団社会に大きな試練が訪れたのは間違いない。

鈴木智彦(すずき・ともひこ)/1966年、北海道生まれ。日本大学藝術学部写真学科除籍。雑誌・広告カメラマンを経て、ヤクザ専門誌『実話時代』編集部に入社。『実話時代BULL』編集長を務めたのち、フリーに。現在は週刊誌や実話誌を中心に暴力団関連記事を寄稿する。著書に『サカナとヤクザ 暴力団の巨大資金源「密漁ビジネス」を追う』(小学館)、『潜入ルポ ヤクザの修羅場』(文春新書)、『ヤクザと原発 福島第一潜入記』(文春文庫)など多数。溝口敦氏との共著に『教養としてのヤクザ』(小学館新書)などがある。