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<天下一の補佐役>豊臣秀長の目線で歴史をダイナミックに描く、夢と希望の下克上サクセスストーリー・大河ドラマ『豊臣兄弟!』(NHK総合、日曜午後8時ほか)。ストーリーが展開していく中、戦国時代の武将や社会について、あらためて関心が集まっています。一方、歴史研究者で東大史料編纂所教授・本郷和人先生がドラマをもとに深く解説するのが本連載。今回は「岐阜」について。この連載を読めばドラマ本編がさらに楽しくなること間違いなし!

信長が絶大な信頼を置いた名将。本能寺後123万石となるも、最期には腹を切って取り出したしこりを秀吉へ送りつけた逸話も…演じるのは?

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美濃を手中に収めた信長

斎藤龍興を打ち破り、美濃をその手に収めた織田信長。ドラマでは、稲葉山城に居城をうつすと、その一帯を”岐阜”と名付けるシーンが描かれました。

その信長が「うつけ」と呼ばれていたというのはよく知られた話です。

しかし彼の生涯を見ていくと、中国やインドの古典の知識があるところからすると、僧侶などによるキチンとした教育を受けていたように思います。

『信長公記』によると、「織田信長が美濃国を攻略した際に、稲葉山の城下の井口を岐阜と改めた」と書かれていて、岐阜への改名も中国の故事に倣っていたのでしょう。

信長が“岐阜”と名付けたワケ

岐阜の「阜」は丘や小山を指しますので、岐阜は岐山に通じます。


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岐山は周の文王が拠点とした地名として有名です。

文王の子の武王は「酒池肉林」の享楽などで暴君として有名な殷の紂王を滅ぼしましたが、文王は実力では紂王を圧倒していたのに臣下の礼を執り続けました。

儒教はこういうのが大好きで、文王は理想的な君主として高く評価されています。

信長は我こそは周の文王たらんと、岐阜の名を付けたのだと思われます。岐阜の名は以前からあったとする説がありますが、信長の頃から一般的になったことは間違いないので、改名に彼の意志が働いた、とすることの反証にはならないでしょう。

花押に込めた願い

また、この頃から信長が使い始めた花押(サイン)も注目できます。

信長の花押は幕末の勝海舟のそれと形が似ていて、勝海舟は自身の通称である「麟太郎」の「麟」の字をデザイン化して花押として用いたと考えられる。とすると、信長も「麟」の字を花押化した可能性があります。

麟は麒麟。

麒麟とは世の中が平和になったときに、天帝が祝福としてこの世に送り出す霊獣です。

ということは、信長は「この世に戦乱がなくなり、平和になるように」という願いを花押に込めたのかもしれません。

「天下=京都」と限定的に捉える必要はない

最後に「天下布武」のハンコです。

信長は岐阜占領の頃から「天下布武」の印を使い始めます。

天下に武を布く。すなわち、武力で天下を統一する。最近では、「天下とは京都、もしくは京都の秩序を指す」から、信長の目標は武力による都の秩序の再建であると説く研究者が多いですね。

ですが「天皇」の古い(西暦700年より以前)呼称である「大王」の正式名称が「治天下大王」(あめのしたしらしめすおおきみ)であったように、「天下」は広く日本全体を指す言葉で、こうした用例はこの後もずっと確認することができます。なにも「天下=京都」と限定的に捉える必要はないでしょう。

岐阜から天下へ

信長は岐阜に入城し、反す刀で北伊勢も占領します。

濃尾平野一帯は日本でも有数の豊かな地域でした。

尾張が60万石、美濃が60万石、北伊勢は40万石くらい。あわせて160万石。

しかも「十楽の津」といわれた桑名や、博多津・坊津と並んで「日本三津」と称された安濃津(津)を掌握している。兵力は4万を養える。これならば、天下統一も夢ではありません。

信長は岐阜から天下へと飛躍をしていくのです。