「朝起きたら鈍器で殴られたような強烈な頭痛があった」。2017年に左脳室内出血を発症した安田大サーカスのHIROさんは当時の様子をそう振り返ります。一時は生存率20%とも言われ、病室のベット脇で泣く両親を目にし、変わった人生観とは。(全2回の1回)

【写真】<MAX198キロ→93キロ>もはや別人となったHIROさんの近影(全16枚)

気づいたらベッドの上でした

現在は地元・和歌山を拠点に活動しているHIROさん

── 2017年6月に左脳室内出血を発症。一時は医師から生存確率20%と言われていたそうですが、治療とリハビリを経て無事に退院し、現在は和歌山で暮らしているとのこと。まず、病気を発症したときの状況について覚えていますか?

HIROさん:朝起きたら、鈍器で殴られているような強烈な頭痛があって、トイレに駆け込んだんです。もともと偏頭痛持ちなんですけど、そのときは今までにない痛みと吐き気があったので、マネージャーにすぐ連絡してタクシー呼んでもらい、一緒に病院に行きました。

1件目の病院では「うちでは無理だから大きな病院で診てもらって」と言われ、すぐに救急病院に運ばれたんですけど、そのあたりから記憶があいまいで…。緊急でカテーテル手術をしたって聞いてるんですが、気づいたらベッドの上でした。

目が覚めて2、3日はボーッとしていたらしく、手を縛られたことはぼんやり覚えてるんだけど。僕、無意識にベッドで暴れたみたいで。たぶん、マネージャーと会社の偉い人がいたのと、おかんがすごく泣いていたような気がします。頭がスッキリしない状態でも、すごく心配させてしまってるんだなっていうのは覚えています。

── メンバーのおふたりもお見舞いにきたそうですね。

HIROさん:団長がめっちゃ泣いてくれてるなぁと思ったら、あとから聞いたら目にゴミが入って、目が痛かっただけだったみたい。クロちゃんはずっと時計見ながらソワソワしていて、仕事の合間をぬって駆けつけてくれたんやろうか…って思ったら、早くパチンコ行きたかったみたいですね。あとは、島崎和歌子さん、浅野忠信さんが来てくれました。

── 浅野忠信さんともおつき合いがあるのですね。

HIROさん:以前『アウトサイダー』という映画でご一緒したことがあって、そこからの縁です。和歌子さんは帽子とマスクをつけて来てくれたんだけど、浅野さんはあのまんまなんですよ。顔を隠すでもなく、普通に病室に入ってきたので、びっくりした人もおると思うんですけど(笑)。

── 思わず2度見しそうですね(笑)。入院は約1か月間だったと伺いました。

HIROさん:後半は体調がよくなって暇になってきたので、病院の廊下をひたすらぐるぐる歩いてました。1時間とか2時間くらい歩いて、看護師さんとたまにしゃべるとか気分転換させてもらって。当初、生存確率20%と言われてたらしいんですけど、だいぶ回復が早かったみたいで、先生が驚いてました。

── 病気をきっかけにダイエットもしたそうですね。

HIROさん:はい。体重はピーク時には198キロあって、トイレの便座とか風呂釜を壊したことがありました。それから番組の企画などでダイエットには何度か挑戦したんですけど、結局やせてはリバウンドの繰り返し。病院に運ばれたときはまだ140キロくらいありました。

スタバの抹茶フラペチーノを1日8杯飲んでいた

2017年退院したとき。体重は130キロくらい

── 倒れる前はどんな食生活でしたか?

HIROさん:スターバックスの抹茶フラペチーノが好きで、いちばん大きいサイズを1日8本くらい飲んでました。

── 1日8本も?2、3本いっぺんに購入されるんですか?

HIROさん:いえいえ。この体型なんですけど、お店の人にいっぱい飲むって思われたくないんですよ(笑)。だからひとつの店で1本だけ買う。しかも、お店の人に何度も買いにくるって思われるのは恥ずかしいから、いろいろなお店をはしごするんです。移動とかロケの合間に目黒のスタバに行ったり、渋谷のスタバに行ったり、スタバはよく行くから携帯のマップに登録してました。そもそも、団長が僕に「これおいしいよ」って飲ませてくれて、そこからハマってもうて。だから団長が悪いです(笑)。

── そうなんですね(笑)。

HIROさん:ちなみにすき家とか吉野家もよく行ってましたけど、ここでも大食いって思われたくないから、1か所で並を2つ頼んで店はしごしてました。

あと、食べ放題にもよく行きました。食べ放題って夢の国じゃないですか。東京にいるときは「スタミナ太郎」によく行ってて、焼肉にお寿司、麺類も食べ放題だから、あそこ行ったらお腹はちきれるくらい食ってました。後輩たちともよく行きました。みんなめっちゃ食べるけど、食べ放題だからお金の計算がラクだし。

── 出禁とか大丈夫でしたか…?

HIROさん:出禁はないよ!ない、ない(笑)。でも、昼も夜も別の食べ放題に行くことはあったかな。言っててちょっと恥ずかしいけど…。あと、回転寿司だったら少なくて50皿、多くて80皿くらいいってたんちゃうかな。

── 子どものころからたくさん食べる方でしたか?

HIROさん:2、3歳のころはそうでもなかったんですよ。とくに太ってなかったし、髪型もおかっぱみたいな感じでかわいらしかった気がするし。でも、小学1年生のときに体重が60キロあって、小学6年生のときは身長160センチで体重120キロありました。家族は両親と兄がいるんですけど、おかんは小さくて細かったし、親父はたぶん170センチくらいで昔は80キロくらい、兄貴が90キロ、僕だけ3桁余裕で超えていて、家族のなかでも突出してました。

── なぜHIROさんだけ体格がよくなったと思いますか?

HIROさん:わからなかったから僕、小学生のときに親父に聞いたことあるんですよ。「なんで僕だけ太ってるの?」って。そしたら冗談だろうけど「川で拾ってきたから」ってベタに言ってました(笑)。

あと、うちの実家がお寿司屋さんやってて、夜は両親が店に出ていたんです。兄貴はおかんが晩ご飯作るまで待てたんだけど、僕はお腹空いて我慢できなかったので、小学3年生くらいから自分で御飯作ってたんですよ。ただ、子どもなので分量とか味の濃さとか何も考えずに作っていて。肉を1キロ焼いてそのまま全部食べてお腹いっぱいにする、でも1時間経つとお腹が空くので、また食べて。これを吐くまでやってました。今思えば過食みたいな感じやったのかな。

── 子どもながらにストレスを感じることがあったんでしょうか。

HIROさん:親が仕事ばっかやってたから寂しかったのかなぁ。あんまり考えたことなかったけど。学校でも先生や友達に体重について言われたことがあったけど、そこはムシしていました。でも、あまりに体重が増えてしまって、小学6年のときに太り過ぎで1週間くらい入院したんですよ。そこで20キロくらいやせて100キロくらいになったけど、中学で相撲部に入ったらまた食べるようになって。

── 思春期のころは、「やせてモテたい」といった願望はありましたか?

HIROさん:「どれだけおいしいものが食べられるか」しか考えてなかったですね。でも、高校生、社会人になってくると、ごくまれにね、こういう体型が好きっていう人もおるんで、おつき合いさせてもらったことがあるんですよ。でも最後は僕より20キロ重い人にとられたことが2回くらいあるかな。「結局、デブ専狙いかい!デカければデカいほどいいんかい!」って思ったけど。

仕事に影響あれど、親が悲しむ顔は見たくないから

── 芸人になった後は、やせることによって仕事への影響もあったのでしょうか?

HIROさん:それは大きかったですね。それまでは僕の見た目とか食べっぷりが評価されて仕事をいただいてきたんだと思います。ダイエット企画もそう。だから、やせると仕事が一気になくなるんですよ。わかりやすくスケジュールに空白ができる。

でも、さすがに病気になってからは意識が変わりました。ここまで大きな病気をして、周りの人に助けてもらって、親切にしてもらって。それに、おかんが泣いてた顔も覚えてるし、親とか周りの人たちが悲しむ顔は見たくないからね。

芸人としてまだまだやりたいこともあるし、あと半世紀は生きたいんです。今48歳なので50歳まであと少し。若いときは自由でなんでもええって思ってたけど、年とったらまずは健康第一で考えていかないとね。

だから病気を機に故郷の和歌山に戻り、ダイエットに励みました。今もYouTubeやロケで食べる仕事もありますが、回転寿司は食べても10皿でちょうどいいくらい。仕事で食べたぶんは自分で食事を調整しています。

和歌山移住をしてダイエットに励み、減量に成功。その結果、味覚も変わったというHIROさん。以前は「野菜は虫が食べるものだと思っていた」そうですが、野菜のおいしさを知った現在は、小さな畑を借りて自身で野菜作りも楽しんでいるそうです。

取材・文/松永怜 写真提供/HIRO