家族の「絶縁」は、どんなきっかけで起きるのか。『絶縁家族』(さくら舎)でさまざまな絶縁家族を取材した橘さつきさんは、自身も母親と絶縁状態にある。そのきっかけは、なんと「初孫」の妊娠だったという――。

※本稿は、橘さつき『絶縁家族 終焉のとき 試される「家族」の絆』(さくら舎)の一部を再編集したものです。

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※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Andrey Zhuravlev

■出産予定日に実母から届いた“呪いの手紙”

家族の綻びはまさかのことで始まり、あっという間に家族を崩壊していく。母の攻撃は突然、私が第一子を産む臨月に始まった。

兄には授からない子を私が産むことが家族の憎悪を買ってしまったのだ。兄は35歳、私は31歳の時のことだった。両親が長男である兄の子を切望しているのは知っていたが、私は私、兄には兄の人生がある。

こうしたきょうだい間の違いはどこの家庭でもありそうなことだが、両親と兄は私に突然、憎悪を向けてきたのだった。

母親にとって娘の出産ほど幸せなものはないというのは本当だと、娘を持って実感するが、私の母は違った。

臨月に入って、胎児との対面を待ち望む私の幸せそうな姿が母の憎悪に火をつけてしまったのだった。出産予定日には、母から「死産を予言する」呪いの手紙が届けられた。

私は2歳違いで三人の子どもを産んでいるが、出産予定日に母から「死産予言」の呪いの手紙をもらわずに産めたのは次男だけである。なぜなら、両親に隠れて産み、誕生も知らせなかったからだ。

同じ町に住みながら、身を守るために必死で隠し通した。

■「なぜ、お前はこの家の跡取りになりたがる?」

内孫を望む両親は外孫の誕生を憎んだのだ。世間はまさか、孫を産んだがために我が子と絶縁する親がいるなんて、想像もしないだろう。

長男を無事に産むと、親から家への出入りを禁じられ、絶縁を言い渡されたのである。

「なぜ、お前はこの家の跡取りになりたがる? この家の跡取りは○○(兄の名)だ!」

これが、長男が誕生したとき、私が親に言われた言葉だった。私は嫁いだ夫の姓を名乗っていて、兄も私も家業を継いでいないのにもかかわらず。

狂気の乱に、まともな理由なんていらない。ただ剥(む)き出しの感情をぶつけてくる、私の両親だった。母の毒に染まっていくかのように、父も兄も母に従い、私を孤立させることに異議を唱える者は、誰一人いなかった。

優しかった兄はすっかり別人になってしまった。世間からの不妊に対する心ない言葉や親からの重圧に傷ついたのだろうか? 子どもがいたら、きっと子煩悩な父親になったであろう兄が、すっかり子ども嫌いになり、子持ちの夫婦にも冷淡になった。

そんな兄を見て親は嘆き、不憫に思えば、すべて私への攻撃につながった。

しかし、社会が伝える不妊問題にはこうした話は聞こえてこない。

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■兄に子が授からないのは私のせい…

家庭ほど無法地帯なものはない。母からの嫌がらせはそれだけでは終わらなかった。

親子が縁を切るのはいかに難しいことか……。親からの希望で絶縁中に父が急逝し、父の葬儀をきっかけに母や兄と復縁。母は何もなかったかのごとく、毎日孫に会いに来ては、私の家に入り浸った。

父と反目のまま永別したので、母とは時間をかけて修復する覚悟でいたが、それを再び覆したのも、私の第三子の懐妊だった。

「母と娘」をやり直すために、女の子が欲しいという私の願いが叶ったのだ。しかし、兄と母がこんなに苦しんでいるのに、三人も産む私の気が知れないと平気で言う母だったのである。母は私が子どもを産むから、兄に子が授からないと思っているようだった。

それでも母は毎日、孫に会いに我が家に来るのをやめなかった。

そして臨月に入ると、再び狂気の攻撃が始まったのだ。

■身重の私に母親が命じた“異常な仕打ち”

私が結婚前に住んでいた実家の離れをトランクルーム代わりに使えばいいと言われ、不要の物を運び入れたとたんに、今度はその離れに私が婚前から残してきた荷物を含めすべてを出すように、母は臨月の娘に命じたのだ。

実家は長男である兄のものだからという理由だ。そんな母に兄も加担した。

もう、さすがに夫には言えず、一戸建ての引っ越し相当の荷物を家具に至るまで、一人で運び捨てた。私の過去をすべて捨てて、完全に母と兄とも縁を切るつもりだった。

三人目の妊娠は進みが早く、いつ出産が始まってもおかしくない状態だと、産科医からは注意を受けていた。二階から大型のスーツケースを降ろそうとして、突き出たお腹と階段に挟まり、そのまま一気に落ちそうになった。危機一髪だった。

「気を付けなさいよ、流産したら大変よ」と母が薄笑いを浮かべて見ていた。

私の流産、それが母の狙いだったのだ。母という人は自分で手を汚さずに、こうして人を陥れる人だった。母はまともではなかった。

一般に犯罪と認められた虐待死は氷山の一角にすぎない。もしも、私が流産をしても、私の不注意の事故で処理され、母が罪に問われることはないのだ。

10日ほどかけて荷物の運び出しを無事に終えた時、予定日が間近に迫っていた。

そして、出産予定日には、母からトドメのように「死産予言」の呪いの手紙が再び届いた。もう涙は出なかった。

入院中に我が子に危害が及ぶことが心配で、警察に母からの手紙を見せて保護を求めた。しかし、ストーカーと同じで事件にならない限り、警察としては動けないと言われた。

それでも、その警察官が心配して福祉事務所に連絡を取ってくれたおかげで、入院中から産後しばらくは、シニア用送迎車で息子たちを保育園まで有料で送り迎えをしてもらうことになったのだ。

■一歩間違えば母の願い通りになっていた…

保育園とも、祖母が迎えにきても今後は絶対に子どもを渡さないように約束をしてもらった。孫にとっても危険極まりない祖母だったのである。

写真=iStock.com/goncharovaia
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しかし、その後、無事に陣痛を迎えて入院したものの、胎児がお腹の中で回り方を間違えて、産道で引っかかって出てこられなくなった。

母の命令に従った自分の愚かさを後悔して、私は泣き続けた。

医師には翌朝まで様子を見ようと言われたが、産道でつかえて出られなくなっている娘をそのままにはしておけなかった。

私は母の呪いと対決するつもりで、窓の外の月に訴える気持ちで、世界の神々に祈りではなく、怒りを全身全霊でぶつけたのだ。目の奥で火花が散った気がした。腰が砕けるような激痛が走り、身体中の血管が裂けるかと思った。

すると不思議なことに、5分もしないで女の赤ちゃんが無事に産まれてきた。向きを変えずに勢いに任せて産まれてきた娘は無事だったが、私のほうは出血が止まらず大変だった。

しかし人生でこの時ほど、救われたと思ったことはない。神様はいたのだ。娘を無事授かることができて、命の大切さを思い知った。いつの時代でも出産は母子ともに命がけである。

母や兄の命令など無視して、お腹の赤ちゃんを第一に守るべきだった。私も母親失格だった。今でも、身重の身体で母と闘ったことは、私の人生最大の過ちだったと後悔している。一歩間違えば母の願い通りに、取り返しのつかないことになっていたかもしれない。

■ようやく実現した母との絶縁

まだまだ闘いは終わらなかった。

再び絶縁して3年後、兄が海外赴任中に母が手術を受け、再び母と復縁。子どもたちは7歳、5歳、3歳になっていた。

母はまたしても何もなかったかのように、三人の子の祖母として私の家に入り浸るようになった。親子の縁はなかなか切れるものではない。

母のストレスで私は声を失い、引っ越しを口実に母としばらく距離を置いていたが、ついに母との終わりの日が来た。

母は次男を特別に可愛がっていたが、なんと次男を勝手に自分の養子にして墓守をさせようとたくらんでいたことがわかったのである。次男には生まれた時から自分の養子にもらう約束だと偽り、母は幼い孫まで傷つけていた。私がそれを知ったのは、何年も後になってからだった。

次男はすでに思春期で、反抗期の嵐の真っただ中。もう、私に迷いはなかった。母と永遠に絶縁しなければ、私の家庭が壊されてしまう。子育てができないと思った。今度こそ、母を許せなかった。

今までに送られてきた呪いの手紙や、嫌がらせのメールなどすべて証拠を保管してあり、母が死んだらすべてを兄や孫、親戚に公開すると手紙に書いて母と完全に絶縁した。

それは私が48歳で初めてした「親との対決」だった。それから12年になるが、一度も後悔をしたことはない。しかしそれでも、もしも母に最期の日がきたら、連絡をもらえば会いに行くつもりでいた。私は娘として母を看取り、見送る覚悟でいたのだ。

■母はずっと私の死を願っていた

今から三年前、大切な用があり思い切って母を訪ねた。仏壇に線香をあげさせてほしいと頼む娘を、家の敷地にも入れずに門前払いで報いた母だった。

85歳の母は老いのすべてを私のせいにして恨みをぶつけた。私も膵臓(すいぞう)に嚢胞があり定期的にがんの検査をしていると伝えると、「なら、あなたもすぐ死ぬね」と、母は含み笑いを浮かべて、二度同じ言葉を繰り返した。

そして兄は家に隠れて、カーテンの奥から私と母を見ていた。

母はずっと私の死を願っていたのだ。娘に握られた証拠を恐れていたのだろう。実は私も心の底で、母の死で母から解放される日をずっと待っていた。

互いに死を願う母と娘。悲しいことに、こうした親子がこの世にはいる……。

もう二度と会うことも骨を拾う必要もないと思った。母を看取り送ることで娘のつとめを果たそうとしていたのは、私の自己欺瞞(ぎまん)だったのだ。母がどんな末路を背負い、最期を迎えるのか、この目で見定めてやろうと思っていただけだった。

でもそんな気持ちを抱えているうちは、憎しみを手放せなかった。初めて、もう母とは一切関係のないまったく別の人生を生きようと決めた。

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■「家族とはまさに無法地帯だ」

気づくまでにこんなにも長い年月がかってしまった。あの時、母と絶縁をしなければ、私は自分の家族を守り、子どもたちを育てることはできなかっただろう。私自身が壊れていた。

57歳のこの日が、私の心の中で母が死んだ日となったのである。

家族とはまさに無法地帯だ。母を殺そうと思ったことは一度もないが、もう死んでほしいと思ったことは何度もあった……。家族内の殺人事件の報道を見るたびに、事件になった家族と我が家族の違いは何かと、心の中で問う日々だった。

何不自由なく豊かに育ち、私たち家族は世間からは問題のない平和な家庭に見えていたことだろう……。こうした家族でどのように亡父の供養をしてきたかを、伝えておきたい。それが、私が葬送に関心をもったきっかけにもなった。

私の第三子の懐妊中に父の一周忌が故郷の菩提(ぼだい)寺で営なまれた。法要の席で、母と兄夫婦は私と私の家族とは目を合わせようともせず、一切口をきかずに、私たち家族の存在を無視した。

これが父の遺した家族であり、父の一周忌だったのだ。私が兄に会ったのはこの日が最後になった。

私は今でもあのような法要なら、する意味がないと思っている。

■家族を切り裂くのも、また家族

母との縁はなかなか切れず、母は孫に会いに毎日のように我が家に来ていた。

しかし、子連れの私の存在が兄を傷つけるという理由で、父の供養の場に私が同席することを母は禁じたのだ。母に呼ばれて実家にいても、兄から訪問の電話があると、冬の夜の風呂上がりであろうと子連れで追い返された。

幼い頃から兄とはとても仲がよかったが、父の死後、線香すら一緒にあげたことはない。それは母がさせたことだったのだ。

母はそんなことを我が子にさせて、自分が亡くなるときのことをどう考えていたのだろう? 母が会わせようとしないので、私は兄と25年も会っていない。

それからずっと、一人で父の供養をしてきた。仏壇も位牌(いはい)もない我が家で、お盆には子どもと野菜で精霊馬を作り、迎え火をして、命日の供養もしてきた。飛行機に乗って亡父のお墓参りも回忌法要もずっと一人でしてきたのだ。

私の墓参りは仏になった父との対話のためだった。

「なぜ助けてくれなかったの? もう、あの人を止めさせて! 早く迎えに来てよ!」

しかし、そんな私の墓参りさえ母は、私に後ろめたいことがあるからだと、自分に都合よく利用したのだ。父が私を恨んで書き遺した遺言があると、母の気分で、いくらでも証拠は作られたのである。

■「私の心の中に母はもう存在しない」

今思うと、人間の「生と死」をいかに軽んじる家族だったのか、すべてが一本の糸でつながるように思える。生まれてくる血を分けた尊い小さな命に対して嫉妬と憎しみをぶつけ、夫であり父親の供養の場も家族を分断する機会に利用した母。そして従った兄だった。

橘さつき『絶縁家族 終焉のとき 試される「家族」の絆』(さくら舎)

また、それが家庭人としての父の生きざまと死にざまでもあったのである。

私にはどうすることもできなかった。

きっと母が亡くなっても、兄から私に連絡は来ないだろう。今となっては、それは私にとって救いかもしれない。3年前から私の中では、母はもう存在していない。

振り返ってみれば、何も問題がない家族が、いきなり孫の誕生をめぐって崩壊が始まったわけではなかった。家族とは内側から朽ちて、内壁がはがれるように腐乱していく。

家族の問題はずっと昔から根を張っていた。ただ目を瞑り見ないようにして、薄氷の平穏な暮らしを維持してきたのだと、今の私にはわかる。

自分が育った家族の崩壊を目の当たりにしながら、新しい命と新しい家族を築いてきた。家族というものの脆弱(ぜいじゃく)さと哀しさを身近に見つめても、やはり大切な家族でありたいと願い、子どもを育ててきた30年だった。

「親なのだから」という言葉は、子ではなく親に対して「親の責任」を問う言葉ではないだろうか?

30年の年月を越えて、世代は一巡して、子どもたちは当時の私の年に近づき、私はあの頃の母の歳になった。親としての生き方を問われるのは、まだまだこれからだと思っている。

いつか訪れる母との別れを偽善でも復讐(ふくしゅう)でもなく、自分の気持ちに誠実に向き合って、この家族戦争を終焉(しゅうえん)させたいと思っている。

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橘 さつき(たちばな・さつき)
日本葬送文化学会常任理事、ライター
1961年、東京に生まれる。早稲田大学第二文学部演劇専修卒業。日本葬送文化学会常任理事。自身に起きた問題をきっかけに、問題を抱えた家族の葬送を取材、活動。「これからの家族の在り方と葬送」をテーマに執筆を続けている
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(日本葬送文化学会常任理事、ライター 橘 さつき)