長身痩躯のモンゴル少年が、異国の異なる文化の只中で戸惑いつつ、その「国技」の世界の頂点に。長くその座に君臨し、ついにはその地に骨を埋めると決めるに至ったその心境をきいてみた。

■常に崖っぷちにいる気持ちだった

――日本国籍の取得、おめでとうございます。

ありがとうございます。本当に嬉しいことでした。

白鵬

――横綱にとって大きな決断だったのではないですか。

モンゴル国籍を失うことにもなったわけですけど、それよりも日本に帰化したいという気持ちのほうが強かったです。

――日本人しか得られない年寄名跡ですが、白鵬関については、実績面でも存在感でも文句のつけようがない、国籍はもういいんじゃないか、という声も大きかったですよね。

正直なところ、日本国籍のない状態で土俵に上がるのは不安でした。もし大怪我をしたら引退です。わたしにとって、それは相撲協会との縁が切れること。弟子(炎鵬、石浦などの内弟子)を預かっているので、引退後は相撲協会に残って彼らを指導しなくてはいけませんから、日本国籍を得られないと、彼らの信頼を裏切ることにもなります。

■横綱としてのプレッシャーだけではなかった

――横綱としてのプレッシャーだけではなかったのですね。

常に崖っぷちにいる気持ちでした。ケガで休場しているときでも、「引退」という2文字がいつも頭にあって、ゆっくりと眠れなかった。ところが日本人になった今は、ぐっすり眠れます。ほんとうに心安らか。味わったことのない気持ちですね。

PIXTA=写真

――日本への帰化について、モンゴルの白鵬ファンたちの気持ちは複雑だったのでは。お父さまもモンゴルの英雄ですし(モンゴル相撲元最高位。レスリング選手として同国史上初の五輪メダリストに)。

わたしがモンゴルへ帰ることを望んでいたかもしれません。歴代の横綱、朝青龍関、日馬富士関もそうでしたから。でも、わたしが日本人の奥さんと結婚したあたりから、モンゴルのファンには心の準備ができていたかも(笑)。失望よりも応援してくれる声が大きかった。親父も賛成してくれた。亡くなる数年前、思い切って帰化のことを相談すると、「我が道をいけ」と言ってくれましたね。レスリングの指導者・監督として世界中を見てきた親父だからこそ、後押ししてくれたのかなと。

――大相撲のほとんどの記録を塗り替えてしまった今、どこにモチベーションを見出すのでしょう?

いやいや、そんなことない。双葉山関の69連勝を超えるのは難しい(笑)。まず、2020年の東京オリンピック・パラリンピックのときには最強の横綱でありたいですね。

――先ほどの「常に崖っぷちにいる」という気持ちですけど、白鵬関の取り口が荒っぽいという批判の声も多かった。その心理とは無関係ではなさそうですね。

横綱はとにかく結果が大事。結果が残せなかったら引退だから。

――やはり「優勝」なのでしょうか。

そこは自分でも面白い変化がありました。大鵬さんの記録(優勝32回)を超えるまでは、ものすごく意識していた。でも、記録更新が迫って33回目の賜盃を抱く前には「優勝」の意識が消えてしまった。「1047勝」(魁皇の持つ幕内通算勝ち星記録)を超えることに気持ちが向きました。横綱は優勝することがとても大事だから、自分の気持ちが理解できなかった。

そんなとき、野球の王貞治さんとお話しする機会がありました。王さんは大鵬さんと同世代ですし、数々の大記録を持っている偉大な方ですし、日本を代表するプロスポーツ選手ですし。

――巨人・大鵬・玉子焼きですね。

「モチベーションが落ちてしまった」とわたしが言うと、王さんは、「記録を塗り替えるというのは、通過点なんだよ。40回優勝した人は誰もいないし、これからも出てこないよ。そこを目標にしたらどうか」って。そうきいたとき、火がついたように体が熱くなりました。王さんにしか言えない言葉だと感動しました。横綱はやっぱり優勝なんだ、と。自分でもメンタルの切り替えは速いと思います。

■年1回、3日間の断食で「最高の気分」

――それは、白鵬関の勝負どころでの仕掛けの速さと重なるもの?

どうなんでしょうね。ただ、いろいろと調べてみると、心も体も反応のスピードは速いそうです。体のメンテナンスで10年近く鍼を打ってもらっているんですけど、体の反応が普通じゃないって言われる。鍼が折れてしまうんです。だから、先生はポンポンと鍼が打てず、汗だくになってしまう。「こんな人は見たことがない」って。

――今、34歳ですけど、長く頂点に君臨している秘訣はメンテナンスにもありそうですね。

年齢的に衰えたな、という感じは全然ありません。細胞レベルでも元気が漲っているそうです。腕の筋肉を切ったときは、再生医療でほぼ完治しました。医者が「普通は完全には治らないケガだけど」と首を傾げた。それで遺伝子検査をやってみると、ストレスに強いとかガンになりにくいとか、様々なプラスのデータが出てきました。

――そこに、日々のメンテナンスが加わるわけですね。

もちろん食事にも気を配ります。野菜をたくさん食べます。色の濃い野菜には抗酸化作用が豊かです。それに断食もするしね。

――力士が断食ですか?

そんなお相撲さん、いないよね。食べることも稽古のうちだから。稽古放棄だ(笑)。

――内臓を休ませるのが目的ですか。

そう、リフレッシュ。細胞が若返る。やるなら徹底してやりたいから、3日間、なにも食べない。準備と回復にも時間をかける本格派です。いつも決まって13キロほど体重が落ちます。気持ちも軽くなって最高の気分です。

――定期的にやるんですか?

年に1度。季節は決まってないけど、休場したときとか。ケガをすると薬を飲むでしょう。そうやって溜まった毒を出す意味もあります。

――力士には豪放磊落、鯨飲馬食というイメージがありますが……。

昔はそうだったみたい。だけど、気をつけないと体を錆びつかせる悪い食べ物もあるから。今はみんな食事への意識は高いですよ。健康情報もきちんとしているし。

――食事面でもリーダーなんですね。

断食、今後はトレンドになるかもしれませんよ。引退して親方になる人はやったほうがいい。戦わない人は太っていないほうがいいでしょう。人としてのメンテナンスです。

■ほれぼれするような速い動きの秘密

――それで納得しました。ほれぼれするような速い動きの秘密も。

脳と筋肉との連携が速いらしい。自分でも実感することですが、取組の相手とは時間の感じ方が違うと。相撲に限らず、アスリートが「ゾーンに入る」って言うでしょう。それとはちょっと違うんですけど、攻防がやけにゆっくりと見えるんですね。

――取組中に? 力士の多くは「立ち合いだけ思い切って」とか「よく覚えてない」などと言いますが……。

そう。相手の動きがコマ送りのように見える。脳がフル回転しているためだって。野球の川上哲治さんが言った「ボールが止まって見える」というのと似てるかもしれません。

――19年春場所の優勝(42回目!)インタビューで「三本締め」を行って、物議をかもしました。

平成最後だったし、良いことと思ってサービス精神でとっさにやってしまった。本当は全部終わったあとで新弟子や若い力士たちが締める。そういうしきたりを知らなかった。だから、勝手に締めたらダメって怒られた。

――報道では、八角理事長がすごい剣幕で怒ったと。理事長が大横綱を怒鳴りつけるとは。どんな感じだったんですか。

それは、あのときだけのことですから(笑)。

――一対一だったのですか。

いえ、理事の親方が全員いました。怒ってくださったことに感謝しています。勇み足だと反省しました。

――白鵬関は、横綱昇進以降の時間が長い。どんな思い出が?

横綱に上がったときも、まだまだわからないことばかりでした。尊敬する大鵬さんとお話ししたくて、約束もせずに突然部屋へ行きました。二人で5時間くらい話しました。横綱の心構えなど、やさしくアドバイスしてくれました。部屋のおかみさんが「この子、いつまでいるんだろう」って顔で見てましたね(笑)。

――横綱の気持ちは、横綱にしかわからない。

本当にそう思う。大関時代には、「番付の差はひとつだけ」と思っていた。肩書が違うだけで相撲の力は変わらないんだと。でも横綱になってみると心の持ち方がまるっきり違う。そこのところ、わたしはよく富士山にたとえます。山頂が横綱。大関は麓(ふもと)。

――五合目とかではなく、麓?

麓です。そのくらい違う。横綱にもいろいろあって、双葉山関のような域に達すると、富士山の上にもうひとつ富士山を乗せた、そのてっぺん(笑)。

■横綱は一日3番相撲を取る

――双葉山関といえば「後の先(先に仕掛けてきた相手を制圧すること)」ですね。

双葉山関は自分の立ち合いをつくり上げたんです。強い力士ほど先に攻めて相撲を優位にしたいものですけど、後の先のほうは安定感がある。だから69連勝できた。

――白鵬関の「後の先」への模索は有名ですよね。

横綱に上がって4年ほどたったときでしょうか。双葉山関へのあこがれもありました。でも後の先の心構えで負けたとき、「受けてる場合じゃないな」と思った。やはり優勝しなければいけませんから、やっても2回か3回。15日間、全取組でそれができた双葉山関は、やっぱり富士山2つ分なんですよ。双葉山関や大鵬さんの「心・技・体」は突出していたと思います。でも、わたしくらいだと「心・技・体」は日々変化する。そこが難しい。戦うときに体中に漲るアドレナリンというホルモン。あれは限りがあるんですよ。

――限りがあるんですか?

今年の初場所、手術した膝が腫れあがって14日目から休場しました。あれはアドレナリンが切れたから。アドレナリンが漲っていれば、痛みを感じないんです。そういう感覚、20年近く相撲を取って初めてわかりました。栄養を摂って休めば補充できるけど、人によって出せる量が違うみたいです。

――横綱の場合、取組だけではなく、土俵入りなどでもアドレナリンを使う苛酷さがありますね。

そうそう。あそこでアドレナリンをかなり使うの(笑)。大鵬さんは「土俵入りは相撲2番」と言っています。そのくらいたいへん。横綱は一日3番相撲を取る。そういう気持ちですね。

――さらに未来の話です。相撲部屋を銀座につくりたいと?

あれは正式なコメントじゃないんですよ(笑)。どこに部屋を開くかという話が出て、「フランスならパリ、アメリカならニューヨークだよね」って流れから、「じゃあ、日本なら銀座かな」って言っただけ。記者との会話が盛りあがって、「稽古場をガラス張りにして、外国人観光客にアピールすると面白い」と。個人的には、銀座はお酒を飲むところだと思ってます(笑)。

――ありがとうございました。

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白鵬モンゴル名ムンフバット・ダバジャルガル1985年、モンゴル国ウランバートル生まれ。2000年来日、宮城野部屋入り。01年初土俵、04年新入幕。06年大関、07年横綱昇進。10年63連勝を達成。17年通算最多勝利記録(1047勝)を更新。19年9月、日本国籍を取得。
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白鵬 翔 インタビュー・構成=須藤靖貴 撮影=小原孝博 写真=PIXTA)