松沼兄が告白。「西武ドラフト外入団」の真実と「空白の一日」との関係
根本陸夫外伝〜証言で綴る「球界の革命児」の知られざる真実
連載第6回
証言者・松沼博久(1)
暮れも押し迫った1978年の12月28日、都内の東京ガス本社をふたりの青年が訪れた。ひとりは同社のエースで、同年の社会人ベストナインに選ばれた松沼博久。もうひとりはその弟、同年の「大学No.1投手」と評され、東京ガス入社が内定していた東洋大のエース・松沼雅之である。
この日、兄・博久は退社届を、弟・雅之は入社辞退届けを会社に提出している。理由は前日、兄弟揃ってドラフト外での西武入団が決まったからだった。周りの声は「120%、巨人入り」だったところ、なぜ一転したのか--。そこは当時の西武監督兼球団管理部長、根本陸夫の存在が大きかったと伝えられているが、入団交渉に至るまでの経緯を兄・博久に聞く。
1978年のオフに西武にドラフト外で入団した松沼博久(写真右)と弟・雅之
「そもそも、巨人というより、プロ入り拒否ですから、オトマツ(弟・雅之)も。ドラフト前にはほかの球団から『本当にプロに行かないんですか?』って電話が入りました。そういう時には『いや、兄弟で東京ガスにお世話になります』って答えていたんです。そこまで言ったらね、ドラフトで指名はしないでしょうから。それで何で東京ガスかといったら、僕はチームの江口(昇)監督をめちゃくちゃ慕っていたので。『この人のために頑張りたい』っていう思いが入社当時からあったんですね」
東京ガスとの関係は高校時代にまで遡(さかのぼ)る。松沼家が東京・墨田区から千葉・流山市に転居したあと、博久は千葉・柏市立柏中野球部の先輩が通っていた茨城・取手二高に進学。のちに甲子園で全国優勝を成し遂げる監督、木内幸男と出会ったなか、投手コーチの本田有隆が東京ガスの出身だった。
「2年の夏が終わったあと、本田さんにピッチングを教わりました。ただ、ピッチャーが足りないから木内監督に『おまえやれ』と言われただけで、まさか自分が本当にやるとは思ってない。上から投げる投げ方もわからない。それで生き残っていくにはアンダースローかなと。僕はもともとショートで横から送球することも多かったから、そのほうがスムーズで、ストライクも入ったし、もうこれでいいやって」
嫌々ながらの投手だったが、アンダースローで快速球を投げるだけの高い身体能力はあった。父親は野球経験がなかったが足は速く、母親も学生時代は陸上部。それだけに博久にも脚力があり、俊足を生かすために木内から左打ちに変えさせられたほどだ。
「大学のセレクションも、最初は内野手として行きましたから。でも、東洋大に行って周りを見てすぐ『無理だな』って思った。自分では自信のあったバッティングが、実際には高校生レベルでしかないと気づかされました。それで東洋でピッチャーになって、僕が2年の時に就任した監督の高橋昭雄さんがやけに買ってくれて。かなり投げさせてもらいましたけど、実際に自信を持って投げられるようになったのは東京ガスに入って3年目、4年目からですよ」
一方で4つ年下の弟・雅之は中学時代、仕方なく野球部に入るぐらい好きではなかったのに、木内に誘われて入った取手二高では1年時からエース。兄弟ともに実力はあったが、いずれもあとづけのように投手になっていた。
4年目の78年夏、博久は都市対抗に出場すると1回戦の丸善石油戦で毎回の17奪三振を記録。平松政次(日本石油)が持つ16奪三振の大会記録を塗り替える。さらに秋の日本選手権では、4試合連続完投勝利を挙げて11月5日の決勝に進出。拓銀に0対1で惜敗したものの、一気にプロの評価を上げた。だが試合後、博久は「仮にドラフトで指名されてもプロ入りする気はない」とコメントした。
同じ日、東洋大の弟・雅之は明治神宮野球大会の準決勝、東海大戦に先発。2年生の原辰徳にソロ本塁打を打たれるも、延長11回をひとりで投げ切ってチームは3対2で勝利。試合後には「兄も頑張っているし、負けられません。今日投げたから、明日はもっと調子がいいと思いますよ」とコメントしている。
結局、翌日の同志社大との決勝戦では敗れたが、東洋大での雅之は2年時の76年秋季リーグ戦で8勝を挙げ、チームのリーグ初優勝に大貢献した本格派右腕として評価を上げた。77年から2年連続で日米大学野球選手権大会の代表に選出され、78年は同大会で3勝を挙げて日本の優勝に貢献。リーグ戦通算39勝を挙げ、防御率1.84、376奪三振を記録し、最高殊勲選手2回、最優秀投手3回、ベストナインにも3回選ばれた。ドラフトにかかれば1位指名は確実だった。兄もその実力を認めていた。
「たしかにオトマツは大学4年の時、プロに行けるレベルになってたね。でも東京ガスで、ふたりでやると決まっていたんです、本当に。親父も『プロには行くんじゃない。社会人で堅く行くのが一番いい』って言ってたから。西武が『東京ガスに決まった』と言わせていた、なんていうことはないです(笑)。ただ、オトマツはね、プリンスホテルにも声をかけられているんです。それでも東京ガスだと」
日本選手権と神宮大会が行なわれていた最中の11月2日。西武グループのプリンスホテルは記者会見を開き、同社社長にして西武球団オーナーだった堤義明が自ら第一次入社内定メンバーを発表。慶應義塾大の捕手・堀場秀孝をはじめ、ドラフト上位指名候補選手が揃っていた。発表は第二次、第三次と続き、駒沢大の遊撃手・石毛宏典、専修大の捕手・中尾孝義と1位指名確実の選手も内定。すると、同14日に行なわれた第三次内定メンバー発表の会見で堤が言った。
「プロに行きたがっている優秀な選手を、ひとりでもふたりでも多くアマ野球界に引き留めたいという狙いで、今回、3回にわたる試験で計30人を獲った。狙って獲れなかったのは松沼くんだけ」
まさに博久の言うとおりだったのだが、雅之にとって石毛、中尾、堀場は全日本で一緒だった選手。みんなが行くプリンスに魅力を感じていたという。そもそも、プリンスが有望選手を次々に獲れた背景には、最高2500万円とも言われた破格の支度金もあった。なにしろプロのベテラン選手の年俸が4000万円ほどだった時代。普通ならアマチュア規定に触れる金額だが、チームはまだ日本社会人野球協会(現・日本野球連盟)加盟前。協会がクレームをつけることもできなかったのだ。
大半のプロ球団は、ドラフト前に有望選手を獲られる形となって困惑。内定なので指名は可能だったが、拒否を考えれば手を出しにくい。その上で同じ西武グループのライオンズへのトンネル入団も危惧され、マスコミの論調も批判的だった。
ある球団代表は「これではドラフトをやる意味がなくなる」と発言したが、11月22日のドラフト前日、プロ側でも「意味がなくなる」事件が起きる。巨人が”空白の一日”を主張し、江川卓との契約を発表して大騒動となった。博久がその時を振り返る。
「江川問題で巨人がドラフトをボイコットしたでしょ。それがなければ、99%、僕らはプロに行く可能性はなかったわけです。でも、ボイコットしたから巨人が(ドラフト外で自分たちとの交渉に)来たわけだけど、じつは東京ガスでもね、僕らの気持ちが揺れ動く変化があって。慕っていた江口監督が辞めるって聞いて……一緒にやろうと思っていたのが違っちゃった。じゃあ、プロの話も聞いてみようか、という流れだったんです」
つづく
(=敬称略)