2つ年下の大好きな彼から“結婚”を前提とした同棲の提案。有頂天になった女に忍び寄る、黒い影
「親を大事にしろ」
人はそう、口を酸っぱくして言うけれど。
生まれてくる親を、子は選べない。
名誉や金にすがった親の“自己愛”の犠牲となった、上流階級の子どもたち。
代々続く地方開業医の娘として生まれた七海(31)も、そのうちの一人であった。
父の死をきっかけに、母は本性をあらわした。そんな母との関係に苦悩する女の、“幸せをかけた闘い”が幕をあけるー。
父の死後、少しずつ様子がおかしくなっていく七海の母・真由美。

土曜日の朝。ベッドの中で目を開けると、コーヒーの香りが、少し開いたドアから漂ってきた。
スマホを見ると、時刻はAM9:30。今日のように実家に泊まる朝は、いつもだったら母のかけるダイソンの大音量で、もっと早い時間に目が覚める。この時間まで眠れるのは、いつぶりだろうか。
私がベッドから出てリビングまで行くと、母はキッチンに立ちながら、珍しく鼻歌を歌っていた。
「ママ、おはよう」
「あら、七海。おはよう。ママ、今日は出かけてくるわ」
そう言って振り返った母は、ばっちり化粧をしている。母が週末ひとりで外出するのは、珍しい。どこへ行くのかと尋ねると、同窓会へ出かけるのだという。
母が同窓会へ行くことは、これまでは一度だってなかった。長野にいた頃は、父や私たち娘にかかりっきりで、家をあけるチャンスがなかったのだと思う。
家族には何も言わずに、今まで何十年も欠席ハガキを出し続けてきたのだろう。そんな母の姿を思い浮かべると、申し訳ない気持ちになるのと同時に、少しホッとした。
東京では、母には今まで味わうことのできなかった自由を謳歌してほしいと、私は心から望んでいるのだ。
「七海、今夜も泊まるわよね…?」
すがるような目でそう尋ねる母に、私は首を横に降る。
「…ごめんね。今日は私も午後から予定があるから、そのままマンションに帰るよ」
あからさまにがっかりとした顔をする母を見て、胸がチクリと痛む。
「七海、誰と出かけるの?」
「誰って、友達だよ」
嘘をついて、また少し胸が痛んだ。本当は、今日は諒太と会う予定だ。
諒太と付き合い始めてから3ヶ月が経とうとしている。姉には報告済みだが、母には彼のことは話しておらず、姉にも堅く口止めをしていた。
私は母に対して、自分の恋人の存在を明らかにするタイミングをいつにするか、かなり慎重になろうと決めていたのだ。
母が私に言った「七海の結婚に全てを賭けているの」という発言が、耳にこびりついて離れずにいる。
それに母には、これまでもさんざん恋愛に口出しされ掻き回された過去だってあるから。
そんな諒太との関係に、進展が…。
私を安心させる、この世で唯一の存在
「諒太、お待たせ」
麻布十番駅で諒太の姿を見つけ、私は笑顔で駆け寄る。諒太の曇りない笑顔と、澄み切った茶色い瞳は、相変わらず私を安心させた。
起業した会社が今まさに軌道に乗り始めたという彼は、仕事がかなり忙しい。土日も自宅で仕事をすることがほとんどだが、私と付き合うようになってからは、必ずこうして週末に時間を作ってくれる。
二人でランチの予約を入れた店に向かう途中、私はふと足を止めた。視線の先にあるのは、不動産屋の店先にびっしりと貼り出された物件情報だ。
「…七海。もしかして、引越し考えてるの?」
諒太に尋ねられ、こくりと頷く。そして、今住んでいる恵比寿のマンションを出ることになったのだと説明した。
父の死後、母名義となったマンション。母は売却することは思いとどまったが、代わりに賃貸に出すことを決めたのだった。

「そんなわけで、一刻も早く引越し先を見つけて、出ようと思うんだ」
「そっか。急なことで、七海もお母さんも大変だよね」
『ピッツァ ストラーダ』のテラス席で、諒太は私の手にそっと触れてそう言った。
「七海がまだ辛いのに、自分の話なんかするの間違ってるかもしれないけど…俺の父親も、俺が小さいときに亡くなってて、母さんが女手ひとつで育ててくれたんだ。母さんが今でも時々話してくれるんだけど、父さんがいなくなったときは本当に辛くて、正気を保つのに必死だったって言ってた」
そして諒太は、小さい子供に言い聞かせるかのように、私に優しく語りかける。
「もしかしたら今は、 お母さんの行動に驚くこともあるかもしれないけど … 後になったらきっとわかるよ。お母さんがどれほど寂しくて辛かったのか、って。お母さんはお父さんを失って孤独だけど、七海には俺がいるんだから、七海は俺に頼って。それでお母さんのことを助けてあげて」
諒太には、引越しすることになったと言っただけで、これまでの母の発言や行動を話したわけじゃない。重たい話をして困らせたくなかったから、父の死についても軽く触れただけだった。
だけど、彼は何もかもを見透かしているみたいだ。
それに、私はすごく嬉しかった。諒太が、私のことだけじゃなくて、母のことまでを気にかけて心配してくれることが。
◆
それから、物件探しする私の隣で、諒太は自分のことみたいに一緒に悩んでくれて、親身になってアドバイスもしてくれた。
「芝公園の辺りがすごく気に入ったんだけど、私の予算だとけっこう狭くなっちゃう。広くするなら、エリアを変えるべきだよねぇ」
ある日そんなことをブツブツ言っていると、突然諒太が言った。
「俺も、引越ししたいなあ…。そうだ、こうしよう」
そして目を輝かせて、こう続けたのだ。
「七海、一緒に家探し、しよっか?」
「えっ…?」
「一緒に家を探そう」と言った諒太の真意とは?
戸惑う私に、諒太は爽やかな笑顔を向ける。
「一緒に暮らそう、七海」
「でも…」
諒太とはまだ付き合って、3ヶ月だ。だけどその時私が迷ったのは、彼と付き合って日が浅いからじゃない。私の頭によぎったのは、母の顔だ。
「なんか、ついでみたいになっちゃうから、ちゃんとしたプロポーズは改めてさせてほしい。だけど俺は、七海との結婚を考えてるんだ」
そう言って諒太は大きな体で私を包み込み、腕にぎゅっと力を入れる。
諒太の服や体に鼻を近づけると、嫌なことも全て忘れられて、心がゆっくり溶けていくようだ。その愛しい匂いを思いっきり吸い込んで、私も彼を強く抱きしめた。
◆

一瞬の油断は、命取りになる
その夜、私は自宅でスマホを握りしめ、震える指で発信ボタンを押した。相手は、母だ。
善は急げ、だ。諒太と本格的に家探しを始める前に、母には報告しなくてはならない。諒太も近日中に挨拶に行きたいと言ってくれていた。
「もしもし」
母は数秒で電話に出たが、その声はひどく疲れているようだ。
「ママ、どうしたの?疲れてる?」
「クタクタよ。今日、この間の同窓会で再会したメンバーに誘われてお食事に行ってきたの」
東京ではほとんど友人のいなかった母に、食事に行ける仲間が出来たという知らせに、私は思わず笑顔になる。しかし、母はなぜか苛立っているようだった。
「ママ、お食事で何かあった…?」
「まあ、いろいろね。それで、何か用?」
世間話でもしてから頃合いを見て切り出そうと思っていたが、冷たい声でいきなりそう尋ねられ、すぐに本題に入ることを余儀なくされた。
「あのね、恵比寿のマンション、できるだけ早く出られるように今家探ししてるんだけどね…。実は私、付き合ってる人がいて…」
そこまで言うと、母は声のトーンを変えることなく「そう、それで?」とだけ答える。もっと驚くかと思っていたが、母は冷静だった。
「それでね、彼と同棲しようかな、と思ってるの。もちろん将来のことも真剣に…」
「そう、好きにしたらいいじゃない」
私が全てを言い終わる前に、母は一言だけそう言った。
「…え??いいの??」
「もう大人なんだからあなたの好きにしなさい。自分たちで家賃払うんだから、別にママに許可とることじゃないでしょう?」
「それはそうなんだけど…」
詰められることを想定していただけに、拍子抜けだった。私は慌てて付け加える。
「一緒に住み始める前に、ママに彼を紹介したいと思ってて…」
「あら、ママに気を遣う必要ないわよ。気にしないで、とっとと進めたら?」
「そんなこと言わないで。彼も、ママに会いたがってるの」
すると母は「わかったわ、そのうちね。でも引越しの話はさっさと進めてね」とだけ言って、あっさりと電話を切ったのだった。
…母親というのはこんなに簡単に娘の同棲を許可するものなのだろうか?
私は少し拍子抜けしたが、でも何はともあれ、これで無事に諒太と暮らせる。とにかくそれが、嬉しくて嬉しくてたまらなかった。
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恐るべき存在は、母親だけじゃなかった…。

