(※写真はイメージです/PIXTA)

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住宅金融支援機構の「住宅ローン利用者の実態調査(2024年4月調査結果)」によれば、今後1年間の金利見通しについて「上昇する」と回答した人は60.2%に達し、前回調査(2023年10月)の32.1%からほぼ倍増しています。同調査では、実際に融資を受けた人の76.9%が「変動金利型」を選択しており、金利上昇への不安はかつてないほど高まっています。65歳のミチアキさん(仮名)が退職金をすべて繰上げ返済に投じた背景にも、この「金利ある世界」への強い焦燥感がありました。みていきましょう。

老後に借金を持ち越さない

「これからは借金のない身で、心機一転頑張ろう」

中小企業を定年退職したミチアキさん(仮名/65歳)は、再就職先の初出勤を前に、清々しい気持ちでした。43年間勤め上げた証である退職金1,200万円。先日、彼はその全額を、残り1,300万円あった住宅ローンの繰上げ返済に投じたのです。

しかし、そのわずか数日後。かつての同期との再会が、ミチアキさんを後悔へと突き落とすことになります。

利上げによる焦燥

ミチアキさんが急いで返済を進めた背景には、2024年以降、日本の金融環境が劇的に変化したことへの強い焦燥感がありました。

日本銀行がマイナス金利解除を決定したのは2024年3月のこと。それから2年が経過した2026年現在、政策金利の上昇はすでに4回行われ、合計で0.85%もの引き上げとなりました。国土交通省の「住宅ローン利用者の実態調査(令和6年度)」によれば、利用者の70%以上が「変動金利型」を選択しており、ミチアキさんもその一人でした。

「変動金利の目安となる政策金利がこれだけ上がれば、毎月の返済額が跳ね上がるのは時間の問題だと思いました。『5年ルール(5年間は返済額を据え置く)』がありますが、私が68歳になるころにはいよいよ猶予期間が終わり、返済額が実際にアップする時期を迎えます。再就職後の給料ではとても耐えられないと考えたんです」

晩婚で、家を買ったのも遅かったミチアキさん。65歳時点で1,300万円という残債を前に、「退職金でリセットする」という選択は、彼にとって唯一の正解に思えました。

元同期が突きつけた「逆ザヤ」の残酷な現実

退職から1週間後、ミチアキさんは元同僚のタナカさんと居酒屋で酒を飲みました。タナカさんはミチアキさんより一足先に退職後、かねてより取得していたFP(ファイナンシャル・プランナー)の資格を活かして独立しています。

ローンの完済を報告し、「これで一安心だよ」と笑うミチアキさんに対し、タナカさんは驚きの声を上げました。

「えー、全額繰上げしちゃったの? もったいない……。冷静に計算すれば、いますぐ返す必要なんてなかったのに」

水を差されたミチアキさんは、田中さんに理由を問います。

「いまの変動金利は0.85%上がったといっても、ミチアキの適用金利はせいぜい1.3%程度だろ? 一方で、いまその1,200万円を新NISAの成長投資枠や高配当株に回せば、年3〜4%程度の利回りを狙うのは難しくない。『借りる金利』より『増える利回り』のほうが高い状況なら、あえて返さずに運用し続けたほうが、トータルの資産は数百万円単位で増えていたはずだよ」

「それに」とタナカさんは続けます。「あと3年後に返済額が上がるといっても、増額幅を前回の1.25倍に抑える『125%ルール』がある。手元に1,200万円のキャッシュを残しておけば、増えた分の返済なんて運用の配当金だけでお釣りがきたのに」

タナカさんの助言に、ミチアキさんは「住宅ローンの繰上げ返済なんてしなきゃよかったのかも……」と一気に後悔が押し寄せてきました。

「安心」を買ったのか、「機会」を捨てたのか

タナカさんの指摘は、「損得勘定」におけるミチアキさんの不安要素を直撃するものでした。

もし、1,200万円を手元に残して運用していれば。もし、金利上昇分だけをその都度、運用益で相殺していれば。手元にはいつでも動かせる1,200万円以上の現金があり、なおかつ資産も増えていたかもしれない――。

「再就職先での月給は現役時代より下がりますし、いつまで働けるかもわからない。急な病気や家の修繕が必要になったとき、もう私には頼れる『まとまった現金』がありません。金利上昇の恐怖に負けて、キャッシュを捨ててしまった……」

ミチアキさんは、夜な夜な住宅ローンのシミュレーションサイトを見返しては、溜息をつく日々を送ることになったのです。

退職金を住宅ローン返済に充てるのは、アリかナシか

ミチアキさんの後悔とタナカさんの指摘。この両者の意見には、どちらが絶対的に正しいという答えはありません。特に、以下の2つの論点が浮かび上がります。

経済的合理性は「タナカさん」に軍配

低金利時代が長く続いた日本では、住宅ローンという「低コストな借り入れ」を最大限利用し、浮いた現金をより高い利回りの資産で運用する「レバレッジ」の考え方が、資産形成の定石とされてきました。特にインフレ局面では、現金の価値が目減りし、借金の価値も相対的に下がるため、急いで返すことは経済的な機会損失となる可能性が高いでしょう。

精神的安定性は「ミチアキさん」の防衛策

一方で、タナカさんの理論は「運用が右肩上がりであること」が前提です。65歳を超えてから1,200万円もの大金を投資に回し、もし暴落に直面した場合、ミチアキさんのメンタルは耐えられたでしょうか。「借金がない」という精神的解放感は、定年後の健康寿命に好影響を与えるという説もあります。再雇用の不安定な立場で、毎月の固定費を最小限に抑えたことは、リスク回避としては決して間違いではないでしょう。

繰上げ返済の是非は、通帳の数字だけで決まるものではありません。大切なのは、「キャッシュの希少性」を知ること。住宅ローンは、個人が銀行から借りられる「最も金利の低い資金」です。一度返済してしまったら、同じ条件で借り直すことは二度とできません。

ミチアキさんが取るべきだったのは、全額返済でも維持でもなく、「半分だけ返す、あるいは数年分の返済増額分を想定して一部だけ手元に残す」というような、リスクとリターンの折衷案だったのかもしれません。

5年後の返済額アップを前に、多くの人が選択を迫られます。私たちは「利息を減らすこと」に執着するあまり、「現金を失うリスク」を軽視していないか。ミチアキさんの事例は、流動性の高い資産の今後の価値を問いかけています。