コンプラ時代になぜヤンキー作品が作られ続けるのか 『ヤンドク!』が受け継いだ不良文化
月9(フジテレビ系月曜21時枠)で放送されている『ヤンドク!』は、元ヤンキーの脳外科医が主人公の医療ドラマだ。
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主人公の田上湖音波(橋本環奈)はヤンキーだったが、バイク事故で友達を亡くしたことをきっかけに医者になりたいと思い、猛勉強の末に脳神経外科医となった。口調こそ乱暴だが患者のことを第一に考える湖音波は、時に病院のルールを逸脱してでも患者を助けようとする。外見が派手で口調や振る舞いは一見粗暴に見えるが、根っこの部分は純情で優しい。そして、時に世間の常識に反してでも、信念を貫こうとする。
視聴者がこうであってほしいと考えるヤンキーの理想が彼女には込められており、橋本環奈も水を得た魚のように活き活きと演じている。
『ヤンドク!』を筆頭に、ヤンキーを主人公にした物語は定期的に作られ、高い人気を誇っている。その意味でヤンキーは日本の文化に完全に定着していると言える。だが、いざ「ヤンキーとは何か?」と考えようとすると、単純そうに見えて実はとても複雑な概念だと感じる。
そもそもヤンキーは、教師や学校に反抗する不良少年、不良少女を指す言葉だが、1980年代に、横浜銀蝿のようなロックバンドやきうちかずひろの『ビー・バップ・ハイスクール』(講談社)や紡木たくの『ホットロード』(集英社)といった漫画が若者の間で大ヒットしたことで、リーゼントやパンチパーマ、学ランや特攻服といった独自の美意識が完成した。
その意味で文化としてのヤンキーとは80年代の不良文化が生み出したものであり、その後のヤンキー文化は80年代カルチャーに対するノスタルジーを、コスプレ的に纏った存在だと言える。
それは『クローズZERO』や『HiGH&LOW』シリーズといったヤンキー/不良たちの闘争を描いた映画にも言えることで、劇中の時代が80年代から離れるにつれて、どんどん虚構性が高まっている。
若手俳優たちが演じるヤンキーたちが荒れ果てた高校を舞台に喧嘩による権力闘争を繰り広げる姿は80年代に生まれたヤンキーカルチャーを神話化したような世界観となっており、もはや現実の社会とは切り離された様式美の世界となっている。
そのため、どの作品もどこかノスタルジックなのだが、ヤンキーコンテンツの多くは、あの頃の私を懐かしむ懐古的な切り口のものが多い。その意味で『東京卍リベンジャーズ』(講談社)が26歳のフリーターの青年が人生をやり直すために何度も過去に戻ってヤンキーとして輝いていた時代をやり直すという構造は、ヤンキー漫画による見事なヤンキー批評となっていた。
つまり、良くも悪くも学生時代という過去を舞台にすることでしか成立しないのがヤンキーカルチャーなのだ。
では、現代におけるリアルな不良的概念とは何かと考えると、トー横キッズと呼ばれる若者たちのコミュニティや、その背後で蠢いている闇バイト等の犯罪を取り仕切る反社、半グレと呼ばれる人々の世界だろう。
『闇金ウシジマくん』(小学館)や4月からNetflixで実写版が配信開始となる『九条の大罪』(小学館)といった真鍋昌平の漫画には、闇バイトのような裏社会の仕事に関わってしまう若者が登場するが、彼らは、ビジュアルこそヤンキーファッションの延長線上にある派手で凄みのあるものだが、80年代から続くヤンキーの伝統から大きく隔てた存在に見える。そのため彼らがフィクションの中で理想的なヤンキーとして描かれることはほとんどなく、登場するとしても不気味な悪役という形になる。
その意味でヤンキーにも光と闇が存在すると言えるが、その境界はやはり犯罪性の有無なのだろう。つまりヤンキーを主人公にしたフィクションが伝統芸能のように延々と作られている状況の裏側には、物語として消費するには洒落にならない危険な領域が存在しているということになる。
その意味でも、ヒーローとしてのヤンキーは学校という閉ざされた空間と80年代という懐かしい過去においてしか存在できない存在だと言える。
だが、その洒落にならない現実の領域に挑んだうえで、露悪的なピカレスクで終わらないヒーローとしてのヤンキー(不良)の物語を紡ごうという作り手もいる。
それは2000年代ならば、宮藤官九郎が脚本を書いた『池袋ウエストゲートパーク』(TBS系)や『木更津キャッツアイ』(TBS系)といった作品がそうであり、近年であれば、阪元裕吾が監督した女殺し屋二人の活躍を映画やドラマで描いた『ベイビーわるきゅーれ』シリーズや、現在放送されている深夜ドラマ『俺たちバッドバーバーズ』(テレ東系)などがそうだ。
そして、現実と拮抗する不良のヒーローを成立させるためには、ヤンキー文化が継承してきた独自の美意識のようなものが改めて必要となる。
それは「間違ったことは許せない」とか「困っている人がいたら助ける」といった理屈よりも先に生まれる衝動的な善意の発露だが、そこで正義や倫理という言葉をためらうことなく使える人間であれば、そもそも不良になんかならない。
社会的な正しさからすらも外れてしまった人間にすら仲間として手を差し伸べるような素朴な優しさ、それは愚かな人間だけが持つことができる「義侠心」と言い変えることもできる。
そんな義侠心を持った存在が、今はヤンキーという形をとってフィクションの中で求められている。
その意味で『ヤンドク!』がユニークなのは、病院を舞台にヤンキーの義侠心と組織の持つ利益優先の合理主義の衝突を描いていることだ。
会社の労働環境やハラスメントに対する意識は年々高まっており、全体としては良いことだと思う。だが、そこからこぼれ落ちてしまうことも多く、それをすくいあげる存在としてヤンキーの義侠心が今は求められているのではないかと、『ヤンドク!』を観ていると強く感じる。(文=成馬零一)
