本当の「鬼」は家康ではなく秀忠だった…千姫による「秀頼の助命嘆願」を父・秀忠がはねつけたワケ
■家康の孫で秀頼の妻だった千姫の苦しみ
NHK大河ドラマ「どうする家康」では、徳川家康(松本潤)の孫、すなわち嫡男の秀忠(森崎ウィン)の長女で、豊臣秀頼(作間龍斗)に嫁いだ千姫(原菜乃華)の境遇に同情が集まっている。とくに第46回「大坂の陣」(12月3日放送)は、彼女が気の毒な場面が目白押しだった。

ずっと不安な面持ちの千に、夫の秀頼は「余は徳川から天下を取り戻さねばならぬ」と意志を伝える。千は「あなた様は本当に戦をしたいのですか? 本当のお気持ちですか?」と問いかけるが、「余は、豊臣秀頼なのじゃ」というのが夫の回答だった。そのことを理解しながらも、同時に実家の徳川を案じる千。
大坂城に集まった、関ヶ原合戦における西軍の敗将ら歴戦のつわものを前にしては、義母(血縁上の叔母でもある)の茶々(北川景子)から、「お千や、そなたも豊臣の家妻としてみなを鼓舞せよ」とうながされ、複雑な気持ちのまま「豊臣のために、励んでおくれ!」と声を張り上げたが、一同が気勢を上げるなか、千だけは苦しみは悲しみを押し殺した表情をしている。
視聴者の同情を買うのも当然という場面の連続だった。実際、史実の千もきわめて気の毒な立場におり、凄惨(せいさん)な場面も経験した。それを具体的に記したいが、その前に、千をめぐる状況に関する「どうする家康」の描写について、史実と異なる点を指摘しておきたい。
■大坂城攻めで最も効果的だった武器
大坂冬の陣において、大坂城の周囲で繰り広げられた攻防戦では、徳川方に甚大な被害が出た。広壮かつ堅固で、さらには城下町を囲む壮大な総構(外郭)を備えた大坂城がいかに難攻不落であるか、実地で見せつけられる格好になったのだ。
そこで家康がもちいたのが大筒だった。家康は大坂城を攻めるのが困難であることを予想して、多数の大筒を用意していた。
当時の大筒は鉄の弾丸を飛ばすだけだったので、野戦ではあまり効果が発揮されなかったが、大きくて動かない標的をねらう攻城戦では効果が期待できた。大坂城は広大だが、北西方向は外堀(淀川が外堀に見立てられていた)から本丸までの距離が短かったため、家康は淀川の中州の備前島に大筒を配備させた。この合戦のために300挺が準備されたというが、射程距離が長くて威力があるいわゆる「石火矢」は5門だったという。
そして昼夜問わず、連日砲撃を加えて威嚇することで和議に持ち込んだ。このとき砲弾が天守の柱に命中して天守が傾き、茶々の居間も破壊され、茶々の侍女数人が即死したとされる。
■史実と異なる「お涙ちょうだい」
ドラマでは家康が大筒で本丸の砲撃を命じると、城内にいる千の身を案じる秀忠は、泣きながら家康に「やめてくだされ、父上!」と懇願。ついには「やめろーっ! こんなのは戦ではない! 父上‼」と叫び、嗚咽しながら家康にすがりついた。家康は「これが戦じゃ。この世でもっとも愚かで醜い……、人の所業じゃ」と答えたが、いかがなものか。
後述するが、千姫の身を案じていたのは、むしろ家康であって、秀忠は意外にも冷酷だったと伝えられる。史実を無視して父娘愛を強調し、お涙をちょうだいするドラマづくりには違和感を覚える。

また家康の言葉にも、太平洋戦争の惨禍を経験した戦後の日本で醸成された、戦争とは問答無用で否定されるべき「愚かな所業」であるという感情論が反映されている。戦争が「愚かな所業」だという価値観を今日もつのはいいが、当時の人がもっていたように描けば、歴史の歪曲につながってしまう。
■2歳で婚約が取り決められた
さて、秀忠と6歳年長の妻、浅井江(茶々の妹)とのあいだに長女の千が、伏見において生を受けたのは慶長2年(1597)5月10日のことだった。豊臣秀吉は翌年8月17日に死去する前に遺言で、まだ数え6歳の秀頼と数え2歳の千との婚約を取り決めている。秀吉は臨終間際に「秀頼のこと頼みまいらせ候」と哀願し、その一環であるこの婚約を、家康は受け入れた。千の運命は生後わずか1年にして、すでに決められたのである。
そして秀吉の遺言にしたがい、慶長8年(1603)7月、11歳の秀頼と7歳の千の婚礼が執り行われた。家康はこの年の2月、征夷大将軍に任ぜられていたが、この時点では徳川と豊臣の併存を考えていたのだ(それしか方途がなかった)。この婚礼の際、秀忠は江戸に残ったままだったが、母の江は身重なのを押して千に同行し、5月半ばには伏見に着いて家康と対面している(江は7月に伏見で初を生んでいる)。
ところで、江は嫉妬心が強く、秀忠の子女は長男で早世した長丸を除き、二男五女が江とのあいだに生まれた、と一般に考えられてきた。しかし、福田千鶴氏は「江から出生したのは千・初・国松の二女一男のみであり、子々・勝・和・長丸・家光は庶出子と考えられるので、秀忠には長丸の生母以外にも侍妾が置かれていたとみなされる」と述べる(『徳川秀忠 江が支えた二代目将軍』新人物往来社)。
いずれにせよ、千は秀忠と江の子であることがまちがいなく、長女であり、二人のあいだのはじめての子女だった。それだけに二人が愛情を注いだことは想像に難くない。
■大坂城から命懸けの脱出
時計を慶長15年(1610)5月7日、大坂夏の陣による大坂城落城まで進めよう。城外戦で豊臣方は奮戦したが、何分にも多勢に無勢。大野治長は負傷して戻り、天王寺や岡山での敗戦も告げられた。それを受けて秀頼らが本丸に引き上げると、徳川への内通者が城に火をかけた。それを機に徳川方の軍勢が進撃し、二の丸が陥落する。

ここまできて豊臣系の将兵らは自害する者が続出し、一方、城から落ち延びる者もいた。そんな光景を千はつぶさに見ていたに違いない。秀頼も千を連れて天守に登り、そこで自害しようとしたが、家臣の速水守久に止められ、本丸北側の山里曲輪に移動して櫓に身を隠した。二十数名がしたがっていたとされる。
そのとき、午後5時ごろだったと伝わるが、大野治長は千と侍女たちを、護衛をつけたうえで城外に脱出させた。それは千を家康らの陣所に送り届け、治長が一切の責任を負うという前提で、秀頼と茶々の助命を嘆願するためだった。
しかし、すでに城内には火の手が回っており、千らの一行は本丸を出たところで立ち往生したが、徳川方の坂崎直盛に遭遇。修羅場をくぐり抜けた末になんとか無事に脱出に成功した千らは、本多正信に引きとられた。
■鬼は家康ではなく、秀忠
千による秀頼と茶々の助命嘆願を受け、徳川方の陣営ではどうすべきか話し合われた。このとき、家康は千の無事をよろこび、秀頼親子の命を奪うことに躊躇する姿勢も見せたという。これに対し、助命を厳しく謝絶したのは秀忠だった。
「どうする家康」の最終回(12月17日放送)では、「秀頼さまと義母上の命だけはお助けください」と必死に哀願する千を、家康は「それはできぬ。戦いの種を残しておくことはできぬのだ」といってはねつける。千は家康に「おじいさまは鬼じゃ!」という言葉を吐くようだが、それは史実と異なる。
秀忠は、秀頼とともに自害しなかった千に対する怒りをあらわにし、「女なれども、秀頼とともに焼死すべきところに、(城を)出てきたのは見苦しい」とまでいい放ち、しばらく千と対面すらしなかったという(『大坂記』など)。
「戦いの種を残しておくことはできぬ」との強い思いを抱いていた「鬼」は、むしろ秀忠であって、それがパフォーマンスでないことは、しばらく千と会わなかったことからもわかる。大河ドラマで描かれるような感情論、すなわち父娘の涙の物語は、この冷徹な判断が求められた戦の場面では、けっして成立しない。
■事件と不幸が連続した壮絶人生
その後も、千姫の周囲は穏やかとはいえなかった。大坂夏の陣の翌年、徳川四天王の本多忠勝の嫡男で桑名城主、忠政の嫡男の忠刻に再嫁したが、その年、「千姫事件」が起きている。千が大坂城から脱出する際、救出の手助けをした津和野藩主の坂崎直盛が、千を奪おうとしたのである。
救出した者に千を再嫁させるという約束を反故にされたため、といわれるが諸説あって定かではない。ともあれ計画は事前に露見し、屋敷を幕府に包囲された直盛は家臣に殺されたという。結果、坂崎家は断絶している。
翌元和3年(1617)、本多家は姫路(兵庫県姫路市)へ移封となり、翌年に忠刻の長女の勝、元和5年(1619)には長男の幸千代を生んだ。これでやっと幸せが訪れるかと思いきや、元和7年(1621)、幸千代は数え3歳で没し、寛永3年(1626)には夫の忠刻も、そして母の江も死没。勝とともに本多家を離れて江戸城に入り、出家して天樹院と名乗った。そのときまだ、数え30歳にすぎなかった。
その後、40年を生きて寛文6年(1666)2月に江戸で死去したが、30年の前半生の不幸は、たしかにドラマの千の悲しげな表情が象徴している。
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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
