『育将・今西和男』 連載第19回
門徒たちが語る師の教え 清水エスパルス監督 小林伸二(1)

 小林伸二。昇格請負人である。そのキャリアにおいて、過去指揮を執ったJ2の大分トリニータ、モンテディオ山形、徳島ヴォルティスをすべてJ1にステップアップさせている。特筆すべきはそれらがみな、初昇格であるということ。すなわちクラブにとって経験のない未踏の頂に導いており、その価値は極めて高い。

 そして今、小林はオレンジ色のジャージ に身を包み、清水にいる。Jリーグ開幕時にオリジナル10として、華やかにスタートを切ったエスパルスはサッカーの町の誇りを掲げ、いくつものタイトルを奪取してきたが、2015年に年間リーグ順位17位に転落し、ついにJ2に降格してしまった。名門が陥ったこの窮地を救うためのオファーが切り札のところに届けられたのである。

 開口一番だった。 小林は「ポイチ(森保 一)、高木(琢也)と続いて、(連載が)久保(竜彦)や李(漢宰)と若い世代に向かったので、もう僕らには取材は来ないだろうなと思ってました」。【育将・今西和男】の連載を読んでくれていた。

「そうしたら、風間(八宏)、マツ(松田浩)と来ているから『年寄りが来たから、来るかな』と思いながら待っていました。ありがたいですよね。やっぱり今西さんから受けた薫陶は自分も大きかったですから」

 島原商業で九州初の全国制覇(高校総体)を成し遂げた後に、大阪商業大学に進んで大学日本一も経験した小林が、1983年にマツダに進路を固めたのはやはり今西の勧誘が大きかった。FWで勢いよく突っ込んでいくスタイルを見て「弾丸みたいな選手」と評価した今西は、東京教育大(現・筑波大)時代の先輩である上田亮三郎(大商大監督)に家庭環境などを聞いたうえで、広島のマツダが長崎の実家に近いという利便性を説いて獲得に成功する。

 小林が配属された職場は課長が今西、主任が高田豊治(後にJヴィレッジ副社長、現東日本国際大学サッカー部監督)とまさにサッカー部の直属であったために、チーム改革の情報が伝わってくるのも早かった。

「今度、オランダからオフトという監督を連れてくるぞ」

 1984年のことである。小林は島原商業時代に高校選抜で、スイスのベリンツォーナで行なわれた大会に出る際に、オランダで1週間キャンプをしたことがあり、その時にオフトにコーチングを受けていた。若かったオフトが左足から繰り出すフリーキックがすごく上手かったという記憶があった。

 そのオフトが来日し、指導を始めた。他のマツダの選手同様に、そこで小林が受けた衝撃は大きかった。

「オフト監督はサッカーにおいて、すべてが具体的なんですよね。言葉もそうなんです。一番初めに言った言葉が、タイミング、アングル、ディスタンス。要するに機会(間)、角度、距離ですよね。タイミングが悪くないか、距離として遠くないか。真後ろだった角度はアングルが変わることで、三角形を作れて1つ前が見えるというような、そういうサッカーの構築。まず個人技術があって、次に個人戦術、それがグループ戦術に変わっていくための言葉をオフト監督は話すわけです。そういうキーがものすごく多くて、サッカー観が変わりました。

 僕は一応高校でも大学でも日本でトップのところではやりましたけど、じゃあ実際、そこまで考えてサッカーをしていたかということになると、そこまでないわけですよね。ただし、出会ったのが24歳ですから、もったいなかった」

 オフトはチーム戦術のみならず、技術指導も新鮮だった。当時のフォーメーションは4-3-3で、小林はトップウィングをやっていた。ここでオフトはウィングの抜き方や持ち方を教えてくれた。

「ステップだけじゃなくて肩を入れろ!」

 自身が左でドリブルして、ターンや方向を意識しながら、ボールを浮かして抜くところを見せてくれた。小林はトップとサイドをやってきたので、今西の言う「弾丸」よろしくスペースに走り込む動きはできていた。一方で、下りてボールを収めたり、ましてやターンをする動作は苦手であったが、この指導で体得していった。

 相手DFを背負った状態でターンができれば、一気に視野が広がってワイドに展開できる。実はここで小林が教わった楔(くさび)としての技量が、連綿と日本のストライカーたちに伝授されていったのである。

 まずは高木琢也。小林が現役を退いた後、コーチ1年目に高木がフジタから移籍してきた。

「あの当時、今西さんがサッカーも全体を動かす練習だけではなく、野球のように個人指導があってもいいんじゃないか、そういうことを言われたんです。お前はFWだったし、高木とは同郷だし、高木をストライカーとして育てるために個人指導してみたらどうなんだ、という提案をいただいたんです」

 そこから小林と高木のまさにマンツーマンのストライカー養成指導が始まった。

 郷原のグラウンドでチームの全体練習を午前中に終えると、ランチを取って午後は鯛尾に移動して、たった2人で楔の練習を繰り返した。DFを背負った状態でのボールの受け方やターンの仕方を延々とやり、それが終わると小林がクロスを入れてヘディング。苦手なボールの受け方と落とした後のコントロールをみっちりとやった後は、必ず高木の得意なメニューで気持ちよくトレーニングを締めるということを心がけた。

 練習だけではなく、当時珍しかったスカウティング活動も行なった。試合をすると高木だけを追いかけてビデオで撮り、終了後に高木と映像を見て、タイミングやアングルを何度も確認した。すると約半年後に大きな結果が出た。強豪日産に3-1で勝利するのであるが、この試合で高木が大活躍した。楔からのターンやヘディングでゴールを量産したのである。

 これを大きな機会として高木は日本代表まで登り詰め、「アジアの大砲」として巣立っていった。小林は結果的に代表監督として舞い戻ったオフトに、自分が受けた指導を通して成長させた高木というFWをプレゼントしたとも言えようか。

「今西さんは高木をうまく(フジタから)獲ってくれて、個人指導の重要性を説かれて、自分は駆け出しのコーチだったのに、同郷であるということもあって担当させてもらいました。それは幸せでしたね。

 ボールのタッチという意味では僕もあまりうまくはなかった。でも、オフトに出会ってそれを意識することが少しずつできるようになった自分があるから、 伝えやすいんですよね。自分が丁寧に出すことによって、相手も集中してトレーニングするし、長くなって集中が切れたら、もう終わる。それで週何回か続けていくだけで、簡単に成果が出たのでビックリしました」

 高木だけではない。小林が指導したのはその後、大分時代の高松大樹、船越勇蔵、山形での豊田陽平、長谷川悠......。

「この指導を15年ほどやっていますけど、ストライカー指導の原点・ソースは広島にあって、それは自分の中ですごく生かさせてもらっています」

【profile】
今西和男(いまにし・かずお)
1941年1月12日、広島県生まれ。舟入高―東京教育大(現筑波大)−東洋工業でプレー。Jリーグ創設時、地元・広島にチームを立ち上げるために尽力。サンフレッチェ広島発足時に、取締役強化部長兼・総監督に就任した。その経験を生かして、大分トリニティ、愛媛FC、FC岐阜などではアドバイザーとして、クラブの立ち上げ、Jリーグ昇格に貢献した。1994年、JFAに新設された強化委員会の副委員長に就任し、W杯初出場という結果を出した。2005年から現在まで、吉備国際大学教授、 同校サッカー部総監督を務める

小林伸二(こばやし・しんじ)
1960年8月24日、長崎県生まれ。島原商高、大阪商業大を経て、1983年マツダに入団。1990年、現役を引退し、そのままマツダのコーチを務める。サンフレッチェ広島ユースが創設され、初代監督に就任。その後、アビスパ福岡と大分トリニータのサテライト監督を務め、2001年6月トップチームの石崎信弘監督が解任されたため、大分トリニータ監督に。翌年、J2優勝し、J1へ昇格を果たす。その後はセレッソ大阪でJ1優勝争いを演じたり、モンテディオ山形、徳島ヴォルティスをJ1昇格に導くなど、手腕を発揮した。2016年、J2清水エスパルス監督に就任した。

木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko