勝負強い監督、接戦に弱い監督……、監督の発想は、すべて現役時代のポジションから湧き出ている。歴代監督をポジション別に徹底分析する。

■なぜ8回パーフェクト投手を代えたのか

一塁手出身監督は、現役時代、自らのバットでチームを数多く勝利に導いただけに、監督になると、攻撃型チームをめざす。例外は2人しかいない。川上哲治(巨人)と落合博満(中日)である。

過去、落合ほど守りに徹し、1点を守り抜いた指揮官もめずらしい。現役時代、三冠王を3回も取りながら、そういうところを微塵も感じさせないのが、落合の落合たるゆえんかもしれない。

誰もが印象深いのは、2007年、トレイ・ヒルマン率いる日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)。先発した山井大介が8回まで完全試合をしていたにもかかわらず、9回に岩瀬仁紀に代えたシーンである。

落合は著書『采配』で、こう言い切っている。

<結論から言えば、私は今でもこの自分の采配を「正しかったか」それとも「間違っていたか」という物差しで考えたことがない。ただあるのは、あの場面で最善と思える決断をしたということだけである>

中日が日ハムに3勝1敗と王手をかけて迎えた第5戦は、2回裏、7番・平田良介(中堅手)がダルビッシュ有から犠牲フライを打ち上げ、1点を先行。先発した山井は、その虎の子の得点を守り切ろうと、渾身の投球をつづけたのである。

落合は、山井が4回に右手中指のマメが破れ、血を噴き出しながら投げていたと明かしている。

<8回も3者凡退で切り抜け、いよいよ「日本シリーズ史上初の完全試合まであと3人」という状況になった時、私はダグアウトの裏で最後の守りをどうするか思案していた。そこに、森(繁和)コーチがやって来てこう言った。
「山井がもう投げられないと言っています」
山井にしてみれば、マメが潰れたからといって先発投手が5回や6回で降板を申し出てしまっては、リリーフ投手にも過度の負担がかかってしまう。自分の責任として8回まで投げ切れば、9回は岩瀬に託するという気持ちがあったのではないか。私は即座に「岩瀬で行こう」と森コーチに告げた>(『采配』)

落合によると、3、4点差あれば、山井の記録にかける気持ちはあったという。だが、試合は1点差であった。

<最優先しなければならないのは、「53年ぶりの日本一」という重い扉を開くための最善の策だった>(『采配』)

■第5戦を落とし、流れが変わることを恐れた

中日が日本シリーズを制したのは、1954年。“魔術師”と呼ばれた三原脩監督と豪打を誇る西鉄に対し、シーズンで32勝も挙げた杉下茂が、伝家の宝刀・フォークボールを駆使し、3試合で完投し、日本一になったのが最後であった。

以来、74年には与那嶺要、82年には近藤貞雄、88年と99年には星野仙一、04年と06年には落合が監督として日本一に挑んだが、いずれもはたせず、53年の歳月が流れたのである。

落合は過去の経験則に基づき、第5戦を落とし、流れが変わることを恐れた。移動日を挟み、第6戦、第7戦は敵地だった。

「札幌に戻った2試合も落としてしまう可能性が大きい」

危険を感じた落合は、石橋を叩いて渡ったのである。

中日のバッテリーチーフコーチである森繁和も、著書『参謀』で山井降板のいきさつにふれている。

<……5回裏に、ちょっとしたことに気づいていた。山井が手袋をして、打席に入る準備をしている姿をパッと見たら、ちょうどユニホームのモモのあたりに、血がついているのがチラッと見えたのだ>

森は7回表が終了すると、落合に耳打ちした。

「山井はもしかしたら、終わるかもしれませんよ」
「え?」
「ちょっとマメがね、たぶん潰れていて、ユニホームにかなり血が付きだしているから」
「あ、そうか。じゃあ大丈夫か、リリーフは」
「いや、もう岩瀬は8回からでも行ける準備はさせていますから」

森は8回表に山井がランナーを1人でも出したら岩瀬に代えるつもりだったが、3人で片付け、ベンチに戻ってきた。

<私は本人に聞いた。
「どうするんだ?」
「岩瀬さんでお願いします」
その一言を聞いたときに、私は安心した……>(『参謀』)

■「本人がそう言うんだったら、仕方ないな」

試合後、記者に囲まれた山井は、こう語っている。

「個人の記録とかは、この試合に限ってはどうでもいいと思っていた。4回にマメがつぶれたのもあったし、握力的にも落ちていた。それに最後は岩瀬さんに投げてほしいという気持ちがあったので、代わりますといいました」

森は落合にはっきり告げた。

「代えますよ、岩瀬に」
「え、いいのか?」
「いや、指がダメなんです」
「あ、そうか。本人がそうやって言うんだったら、仕方ないな」

こうして、9回表のマウンドに岩瀬がのぼった。完全試合の山井をリリーフしただけに、大きなプレッシャーがあったが、7番・金子誠(遊撃手)を三振、8番・鶴岡慎也(捕手)の代打、高橋信二をレフトフライ、9番・小谷野栄一(三塁手)をセカンドゴロに仕留め、中日に53年ぶりの日本一をもたらした。

それから4年後の2011年6月16日。岩瀬が通算287セーブの日本記録を樹立したとき、「もっとも印象に残るセーブは?」と質問され、短く答えた。

日本シリーズです」

一切具体的に語らなかったところに、彼の思いの深さを感じた。

そして、こう付け加えた。

「あれほど足が震えたことはありません」

落合は『采配』でひとしきり強調している。

<すべては、あの場面で私が監督として決断し、その結果として「ドラゴンズは日本一になった」という事実だけが歴史に残るのだ>

■「敗軍の将」ヒルマン監督の息子との時間

蛇足だが、敗軍の将、トレイ・ヒルマンについてもふれておきたい。

「子どもが多感な時期で、父親の責任をはたしたい」

ヒルマンが監督退任を表明したのは、シーズン中の9月8日。その後、ロイヤルズの監督に就任することが明らかになり、日本シリーズ直前に入団会見を行ったことで、日ハムの選手から批判が相次いだ。

中日に1勝4敗で敗れた原因は、和の乱れと指摘されたが、わたしは彼に同情を禁じ得ない。前回に詳述したように、12年間もマイナーの指導者を務め、さんざん苦労を重ねてきただけに、日本で実績を残し、メジャーから白羽の矢が立ったことが、うれしくてしかたなかったのである。

2008年春、松井秀喜の取材でヤンキースタジアムを訪れると、キャッチボールをしている父子がいた。目を凝らすと、父親はヒルマン、子供は痩せっぽちの中学生ぐらいの男の子。2人は汗だくになりながら、楽しそうにキャッチボールをつづけていた。

ベンチに戻った際、ヒルマンに、「あなたの息子ですか」と尋ねると、「そうだ」と、満面笑みで答えた。

メジャー監督と、息子との時間。ヒルマンは長年望んでいた2つのものを手に入れたのである。この年、ロイヤルズは、アメリカンリーグ中地区の4位になり、5年ぶりに最下位を脱出した。

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落合博満監督 レギュラーシーズン通算成績】
 1150試合 629勝491敗30引き分け 勝率5割6分2厘

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(文中敬称略)※毎週日曜更新。次回、藤田元司監督

(ノンフィクションライター 松下茂典=文)