自己啓発書の「法則」-3-

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■TOPIC-3 世界を単純に圧縮する本たち

これまでの連載で幾度も述べてきたように、自己啓発書ではしばしば世の中の人々を「二分法」で切り分けます。充実した現実世界と虚構に満ちあふれたメディアの世界、精神的な「本当の」幸福と物質的な「偽りの」快楽、目の前の出来事を自分の問題や責任として受け取るか他人や社会のせいにするのか、あなたは成功者になりたいのかそれともこのまま失敗者としての人生を歩むのか、等々。

私たちの日々の生活のなかでは、これらは混在して経験されているはずです。メディア上のやりとりが現実の人間関係をより豊かにすること、メディア上の関係性に現実以上の充足感を感じる人々がいること(そのような人の場合、現実世界こそが「偽りの」世界と映るはずです)、必ずしも自分自身の問題とばかりはいいきれない種々の問題があること、メディアに登場する、輝かしい経歴や莫大な資産をもつ人々を少しもうらやましいと思わないこと(むしろしんどそうだなと思ってしまうこと)、逆に経済的に裕福とはいえなくても楽しそうに生きている人々がいること。

しかし自己啓発書はこうした現実世界の複雑さを、二つの要素に圧縮して私たちの前に示すのです。こうした二分法的世界観を受け入れることができなければあなたは失敗者になるという、一種の脅迫めいた文言もしばしば啓発書には登場します。

こうした自己啓発書の世界観から何を考えるべきでしょうか。その単純さを批判することはたやすいのですが、そのような批判を行うことは、二分法的世界観を受け入れていないことの表われ(敗者であることの証明)にしかなりません。つまり批判という行為は意味をなさないだろうと私は考えます。

■「単一の世界観」への抗い方

そのような世界観にくみさない人々に何か考える種を提供するとすれば、それは拙著『自己啓発の時代』でも述べた、そのような単純な世界観こそが現代社会において欲されているのだという解釈です。拙著では、社会学者・鈴木謙介さんが示した「断定系消費」(鈴木謙介・電通消費者研究センター『わたしたち消費』107-108p)という概念を参照して、こうすれば間違いないという価値基準がかつてよりも揺らいでいる現代社会において、日々の生活から人生における決断までを一方的に決めつけてくれるような権威が欲されているのではないかと論じました。

鈴木さんはこの断定系消費の例として、占い師の細木数子さんが当時(2007年)人気を博したことを挙げていました(109p)。自己啓発書のブームも、細木さん、あるいは「スピリチュアリスト」江原啓之さんの人気が高まったのも、2000年代の出来事でした。これらをまったく同一の観点から捉えることはもちろんできませんが、何事かを決めつけてくれる権威が支持を集めたという点においては、共通する社会的背景があるように思えます。

ただ、自己啓発書が示す二分法的世界は、二つの世界が横並びになっているというよりは、望ましい側と望ましくない側とで明らかに区分されています。繰り返しになりますが、すべてを「心」の問題と位置づけて就職活動や仕事や人生に向き合っていけるか否か、成功者の習慣を取り入れていくか否か、ドラッカーを真に理解しているか否か、「自分らしく」生きているか否か、自分の身の回りのモノは自らがときめくという基準で集められたか否か、等々。

つまり、自己啓発書が望ましいとするライフスタイルと「それ以外」という区分になっているのです。その意味で、より正確には、自己啓発書とは「単純明快な一つの答え」を示してくれるメディアなのだというべきかもしれません。連載第11テーマ「就職活動論」の最後に示した、就職活動論にはさまざまな議論のパターンがあるため、各論者の主張をそれぞれみていくことで「単純明快な一つの答えを得ようとするのでなく、またこれこそが正しいものの見方だとして一つの観点に固執するのでもなく、視点を変えるたびに現象が違って見えるという世の中の複雑さをそのまま受け止められるようになること」に挑戦してみようと述べたのは、自己啓発書の単一の世界観に対抗する意図があってのことでした。連載全体を通してのメッセージを示すとすれば、今述べたような点です。

■脱出口なき時代の自己啓発書

ここで、近年の現代社会論を援用して、自己啓発書が多く並び、また総体としてよく売れている現代社会について広く考えてみることにしましょう。

社会学者の大澤真幸さんは『不可能性の時代』のなかで、現代はタイトルにもあるような「不可能性の時代」であり、「『現実』への回帰」が起こっているのだと述べています(156p)。

説明が必要だと思うので、大澤さんの主張を順にみていくことにします。この議論は、社会学者の見田宗介さんが「夢の時代と虚構の時代」という論考(『定本 見田宗介著作集 VI 生と死と愛と孤独の社会学』所収)において、「現実」の反対語が時代によって変わるもので、それは「理想」(1945年-1960年)、「夢」(1960年-1975年)、「虚構」(1975年-)と変化してきたとする分析を発展的に継承したものです。

大澤さんは「理想」「虚構」「不可能性」という三つの区分から、戦後日本の精神史を通観しようとします。つまり、アメリカがもたらした「理想」への追随によって戦後の日本は復興・高度成長を成し遂げ、高度成長以後は商品やサービスの付加価値(イメージ)といった「虚構」が私たちの現実を覆うようになり、その果てに「不可能性の時代」がやってくるのだというのです。

ここでいう「不可能性の時代」とは、皆が憧れる「理想」などもはやない時代において、また私たちの現実世界が、メディアが張り巡らせたイメージ=「虚構」に覆われつくしてしまった時代において、より現実感が得られるような「どんな現実よりも現実らしく、現実を現実たらしめているエッセンスを純化させたもの」(4p)を欲しようとする心性の台頭を示しています。つまり、現実対理想、現実対虚構といった反対語がもはや成立しない状況を「不可能性の時代」と呼んでいるわけです。

大澤さんが「現実を現実たらしめているエッセンスを純化させたもの」として挙げる例は自傷行為、テロ行為、「特定の男女の実際の生活そのものを『ドラマ』として放映するテレビ番組」としての「リアリティ・ソープ」といったものでした(4-5p)。

自己啓発書は、前回述べたように、目の前にある現実自体を変えようとするのではなく、その現実に適応し、生き抜いていくために自らを変えようと主に訴えるメディアだといえます。もちろん、その主張は自己啓発書に独特な二分法的世界観というイメージ(虚構)のなかでなされるわけですが、そうしたイメージを通して促されるのは、今ある仕事への、今ある男らしさや女らしさへの、つまり現実への適応だといえます。

大澤さんの議論は非常に包括的なものですが、現実を理想に向けて変えるのでも、現実をイメージで覆ってそれに魅惑されてよしとするのでもなく、今目の前にある現実に、何も疑いを抱くことなくひたすら没入する心性が今日台頭しているとする解釈枠組は、自己啓発書の好調という現象にかなりよく当てはまるように思います。いってみれば、現実から「ここではない、どこかへ」と逃れる脱出口(かつては理想や虚構だった)が世の中のどこにも見当たらない状況において、最後に見いだされたフロンティアが「心」「自己」だったのかもしれません。

さて、連載で扱った共通傾向についてのまとめと考察はここで終わりです。つまり自己啓発書について具体的な評論を行うことは今回が最終回となります。最終回となる次回は、1年間12テーマの連載では扱いきれなかったテーマをいくつかとりあげ、自己啓発書論に残された「鉱脈」について考えたいと思います。

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『「自己啓発」の時代』
 牧野 智和/勁草書房

『わたしたち消費』
 鈴木 謙介、電通消費者研究センター/幻冬舎

『不可能性の時代』
 大澤 真幸/岩波書店

『定本 見田宗介著作集VI 生と死と愛と孤独の社会学』
 見田 宗介/岩波書店

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(牧野 智和=文)