人の言うことを素直に聞いてみるもんだ 意地やプライドを捨てて田尾監督に従い実感した【山武司 これが俺の生きる道】#82
【山粼武司 これが俺の生きる道】#82
【前回を読む】レベルの低い“寄せ集め集団”を見渡し、失った自信を取り戻した感覚があった
2005年2月、楽天の初代メンバーとして春季キャンプを迎えた。プロ野球再編による分配ドラフトの影響で、当時の楽天は寄せ集め集団。キャンプ初日、選手たちのレベルの低さに驚いたのと同時に、「俺の生きる場所があるかもしれない」と活路を見いだすことができた。
ダメならクビになるだけと開き直ってキャンプに臨むと、田尾安志監督からは「武司、そんなんじゃ絶対に打てないぞ〜」と爽やかにキツイひと言。打撃フォーム改造を命じられ、これまでの前さばきからボールをギリギリまで引き付けて打つ真逆のスタイルに変えた。
しかし、長年染みついた打ち方はなかなか変えられない。そんな中、田尾監督から「テスト」が課せられた。
「3月にナゴヤドームで中日とのオープン戦が2試合ある。ここで結果を出してくれ。出なかったらダメだから」
そう言われて気合が入った。しかも、場所は古巣の本拠地・ナゴヤドーム。余計な力が入ったのか、1戦目の3月4日は、ハーフスイングをことごとく取られた三振も含めて無安打。翌5日もチャンスで併殺打に倒れるなど、散々な結果だった。
「終わったな……」
そう覚悟を決めていたけれど、その後も一軍に同行することができた。迎えた3月26日の開幕戦(千葉マリンスタジアム)。張り出されたメンバー表を見ると、上から5番目に自分の名前が書かれていた。
「5番DH 山粼」
拍子抜けした。あれだけ結果を出せなかったのに、スタメンだなんて……。開幕戦は4打数2安打1打点。記念すべき球団の初勝利に貢献できた。
しかし、プロの世界はそんなに甘くない。翌27日には0対26という歴史的大敗を喫した。以降もしばらくスタメンで使ってもらっていたものの、バットの調子は上がってこない。スタメン落ちをしながら、試行錯誤を繰り返した。コツのようなものを掴んだのは6月に入ってからだった。
この頃から、緩い変化球を待ちながら、速い真っすぐも捉えられるように。何となく「こういうことか……」と感じ始めた。この年からスタートしたセ・パ交流戦期間中は「4番・DH」のレギュラーとして、4試合連続本塁打を打った。人の言うことを素直に聞いてみるもんだと思った。これまでは「自分はこれでやってきたんだ」と我を通し続けていたが、オリックスを戦力外になり、拾ってもらった身。意地やプライドを捨てることで、ここまで結果が変わることもあるんだと、気づかされた。
この年、チーム最多の25本塁打をマークした。楽天は当時、いわゆる“飛ばないボール”を使っていた。多くのチームが使っていたボールと比べて打者は不利だった。実際、フルキャストスタジアム宮城(05〜07年の名称)は「12球団で一番本塁打が出にくい球場」というデータがあったほど。“飛ぶボール”だったら30本もあったな……と、いつの間にかプラス思考になっていた。
(山粼武司/元プロ野球選手)
