(写真提供:Photo AC)

写真拡大 (全2枚)

かつて日本には、城が2万5000〜3万ほどもあったと言われています。「近くの城に関する資料を調べてみると、怪談や思わぬ物語の発見があるかも知れません」と語るのは、『生き屏風』で日本ホラー小説大賞短編賞を受賞し、怪談イベントにも多数出演する小説家・田辺青蛙さんです。そこで今回は、田辺さんが日本全国の名城にまつわる怪談の数々を集めた『名城怪談』から一部を抜粋してお届けします。

この記事のすべての写真を見る

* * * * * * *

松の廊下で突然刀を……

松本藩6代藩主の水野忠恒は、江戸城にて8代将軍徳川吉宗に婚儀の報告の為に拝謁する予定であった。

将軍に報告も済ませ、無事に拝謁を終えた水野忠恒が、松の廊下に差し掛かった時のことだった。

次に拝謁する長府藩の世子・毛利師就(もうりもろなり)とすれ違いざま、突然刀を抜いていきなり相手に斬りかかった。

忠臣蔵のシーンでご存じの方も多いと思うけれど、松の廊下では鯉口を斬ること自体が処罰の対象となりご法度。そんな場所での刃傷事件など、絶対に許されない行為だった。

斬り付けられた毛利師就は、突然の出来事に度肝を抜かれたが、刀を抜かずに、鞘で応戦し、忠恒はその場にいた大垣新田藩主の戸田氏房により取り押さえられた。

松本大変

そんな大それた事件を起こしたのだから、忠恒は、師就によほどの恨みがあったのだろうと思いきや。なんと、二人は初対面で面識すらなかったという。

忠恒は、その日のうちに川越藩に預けられることになり、松本藩の水野家に下った処分は「改易」。非常に重い処分で、大名家としての水野家はお取り潰しになり、領地や城、江戸屋敷が没収された。この一連の出来事は「松本大変」と呼ばれた。


『名城怪談』(著:田辺青蛙、監修:北川央、イラスト:うめだまりこ/エクスナレッジ)

何故このような出来事が起こったかというと、一説によると、戸田家の江戸屋敷では連日、祝宴が開かれており、元より酒に目がない水野忠恒は始終酔っぱらっており、将軍拝謁の前夜から挙動がおかしく、妙な言葉を口走ったりしていたそうだ。

松本藩内では、酒におぼれたのは義民の多田加助の霊に悩まされていたからだという噂や、水野忠恒の不可解な結末に、多田加助の無念の思いが通じたのではないかなどと、話す者がいたそうだ。

加助神社

その影響かどうかは分からないが、享保10年(1725)に水野家が改易となり、翌年、戸田家が再び藩主に返り咲いたのを契機に義民の顕彰が始まった。

そして、加助騒動から50年を迎えた享保20年(1735)、加助や処刑された一族を祀る祠が屋敷神として建てられた。


(写真提供:Photo AC)

騒動二百年祭(1880)には多田家の祠を旧郷倉跡に移して社殿が造営され、「加助神社」と呼ばれる社となった。

明治になって水野家から加助坐像と金一封が加助神社に寄贈されたのだが、この坐像は騒動後、「加助の祟り」を怖れた元藩主水野氏が作らせて邸内に置いてあったものといわれている。

江戸詰の一人の藩士

またこの際、騒動当時の藩主である水野忠直も合祀された。騒動の折、藩主忠直は江戸にいたが、鈴木伊織という江戸詰の一人の藩士が加助らの処刑に反対し、藩主から中止の許しを得、自ら騎馬で松本に向かった。

ところが、松本に入った途端、馬が倒れ、処刑に間に合わなかったと伝えられる。松本市内には、伊織の徳を讃えて名付けられた「伊織霊水」という井戸が復元保存されている。

加助神社は、昭和35年(1960)に、神社本庁から「貞享義民社」として認められ、現在はそれが正式名称となっており、神社の西北裏手には加助の墓がある。

※本稿は、『名城怪談』(エクスナレッジ)の一部を再編集したものです。