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 「美人喫茶ローザ」は和服姿の若い女性がコーヒーを運んでくれる、今でいうメイド喫茶みたいな店でした。給料は3万7000円と聞いて跳び上がりました。しかし、3日で辞めました。3日目に出社すると、先輩の店員から店前に置かれたコーラ3箱を運んで来いと指示されました。運んでいると「ケースの持ち方が悪い」といちゃもんをつけられました。言い方にぶち切れて、思わず手が出てしまい、あっさりクビでした。

 再び求人募集の張り紙や新聞求人欄で職探しです。この後、職もすみかも転々としました。下北沢から下高井戸、荻窪、中野…。信濃町の「ナポレオン」という喫茶店で働いていた時、高校時代からの悪友、勝昭が自分を追って上京してきました。彼の紹介でデザインの勉強をしていた友人の家に転がり込み、3人の共同生活が始まりました。

 早鞆高校野球部の石井英昭監督の紹介で赤坂のキャバレー「ゴールデンゲート」のボーイとして働くことになりました。全国チェーン「月世界」のグループ店で、店の専属バンドにチャーリー石黒さんもいました。たちの悪い客がいて、タバコの吸い殻入りのビールを強制的に飲まされたことがありました。猛烈なじんましんが出て、下関に戻って療養を余儀なくされました。パチンコ店員時代は床に落ちた玉を拾い、下を輪ゴムで縛ったステテコに入れ、ひそかに換金するという悪さもしました。入れ過ぎて玉の重みでズボンがずり下がってバレるという、漫画みたいな経験もあります。

 「あさま山荘事件」で騒がしい頃、六本木の「コーリャンハウス」というクラブのボーイとして勤め始めました。開店前、遊びで弾き語りの人のギターを借りて「圭子の夢は夜ひらく」を弾き語りしました。「上手じゃない」と褒められ、仕事として弾き語りできるようになりました。一緒に働いていた弾き語り仲間から「3軒掛け持ちしていて大変だから1軒手伝ってくれ」と、西麻布の「どら猫」という店を紹介されました。同居していた勝昭はギターが得意で「ギターは3つのコードだけ覚えればいい」と豪語。彼からよく使うコード進行を教わっただけの腕前でしたが…。

 「どら猫」で弾き語りをしていたある時、「こっちで一緒に飲まないか」と誘ってきた客がいました。作曲家の浜圭介さんでした。「君は歌手になる気はないの?」といきなり言われました。「なりたいです。でも、どうしたらなれるのですか?」と聞くと「じゃあ、いつでもいいから、ここに来なさい」と自宅の住所と電話番号を書いて渡してくれました。翌日、すぐに飛んで行きました。マンションの部屋の呼び鈴を押すと「はーい」と返事。出て来たのは、テレビで見ていた歌手の奥村チヨさんでした。「主人は中にいます」と招き入れてくれました。部屋にいた浜先生から「できたよ」と言われました。「伊達春樹」の芸名で74年7月25日にデビューすることになる「夜霧のあなた」という作品でした。

 ◇山本 譲二(やまもと・じょうじ)本名同じ。1950年(昭25)2月1日生まれ、山口県下関市出身の76歳。早鞆高3年の67年、夏の甲子園出場。74年に「伊達春樹」として「夜霧のあなた」で歌手デビュー。北島三郎に師事し、78年「山本譲二」として再デビュー。80年発売の「みちのくひとり旅」が81年にかけてロングヒット、ミリオンセラーに。NHK「紅白歌合戦」に計14回出場。