太平洋戦争中にドイツへ向かった日本海軍「伊三十潜」…炎熱地獄の航海を経てパリ見物した乗組員が驚愕した衝撃的な「技術水準」の差
太平洋戦争で軍人として最前線で戦ったのは、明治後期から大正、昭和初期までに生まれた人たちだった。戦後81年。当事者のほとんどが鬼籍に入り、「忘れてはならない」の掛け声とはうらはらに、確実に戦争の記憶は遠ざかってゆく。そして終戦後、当事者たちがどのように生きたかということは戦争中の出来事以上に知られていない。だが、戦後、焼け跡からの復興を担ったのもこの世代だ。ここでは、私が30年以上にわたり、直接インタビューした元海軍軍人の「戦後」をシリーズで振り返る。
今回は、戦時中、遣独潜水艦の第一隻めとしてドイツに派遣された竹内釼一大尉を紹介する。
元海軍大尉の商社マン
かつてNHKに、「私の秘密」という人気テレビ番組があった。昭和30(1955)年4月に放送が開始され、はじめは毎週木曜夜、昭和31年6月からは毎週月曜日の夜に放送された。司会は昭和37年3月までは高橋圭三がつとめ、視聴率は昭和35(1960)年時点で40パーセントを超えていたという。
「事実は小説より奇なりと申しまして」という高橋圭三の決まり文句から始まるこの番組は、さまざまなめずらしい、あるいは貴重な体験をした人物をスタジオに呼んで、4人の回答者が質問しながらその人の「秘密」を当てる、というNHKによくあるテレビショーである。
昭和30(1955)年、この番組に30代の商社マンが登場したことがある。彼の名は竹内釼一(けんいち)。伊藤忠商事に勤務していて、戦時中は海軍大尉だった。彼の「秘密」は、太平洋戦争開戦後、日独伊三国同盟に基づく「遣独潜水艦」第一艦であった伊号第三十潜水艦に砲術長として乗り組み、無事にヨーロッパにたどり着き、歓待を受けたものの、帰国を目前にして伊三十潜はシンガポールで機雷に触れ爆沈、からくも生還したというものだ。
舫い綱(もやいづな)が投げられると、突然、ドイツ海軍軍楽隊の演奏する「君が代」の旋律が流れた。思いがけない歓迎に、21歳の竹内釼一少尉は、胸のなかを感激が突き抜け、目頭が熱くなるのを感じた。ビスケー湾を望む、ドイツ占領下のフランス・ロリアン軍港。南太平洋ではガダルカナル島をめぐる日米の攻防戦がまさに始まろうとしていた、昭和17(1942)年8月6日のことである。
竹内の乗った伊号第三十潜水艦は、同盟国である日独の連絡や技術交流の道を開くため、その第一艦として、インド洋から遠く南アフリカ・喜望峰を迂回して、大西洋経由で4ヵ月近く、18000浬(カイリ。約33000キロ)を航破して、ようやく目的地にたどり着いたのだ。
直前に知らされたドイツ渡航
竹内は大正10(1921)年、名古屋に生まれた。明倫中学校を卒業後、海軍兵学校に69期生として入校、昭和16(1941)年3月に卒業し、重巡洋艦羽黒での練習航海を経て、少尉に任官。重巡古鷹乗組の砲術士として開戦を迎え、グアム島、ウェーク島攻略作戦に参加した。ウェーク島作戦では、前進基地のトラック島に主砲弾の備蓄がなかったため、ここで撃てば砲弾がなくなるからと、主砲を島に向け示威行動をするだけで艦砲射撃もせず、双眼鏡で陸上戦闘を見物するだけの妙な戦いだったという。
昭和17(1942)年1月、呉で建造中の伊号第三十潜水艦(伊三十潜)艤装員に発令され、2月25日に同艦が竣工すると、乗組を命じられた。艦内での配置は、砲術長兼通信長である。日本海軍の潜水艦は、基準排水量1000トン以上の「伊号」、500トン以上1000トン未満の「呂号」、500トン未満の「波号」に大別され、伊号潜水艦には、艦長、水雷長(先任将校)、航海長、乗組(艦内配置は砲術長、通信長。兼任する場合もある)の士官4〜5名のほか、100名前後の下士官兵が乗り組んでいた。
伊三十潜は完成早々、3月10日付で第六艦隊第八潜水戦隊第十四戦隊に編入、実戦配備されることになった。竹内は3月25日から1週間、潜水学校で潜水艦講習を受け、他艦の砲術訓練を見学したのち、艦長・遠藤忍中佐のはからいで3日間実家に帰省し、4月10日夜に伊三十潜に帰艦した。
「艦に戻ってみますとね、通路や寝台に、所狭しと大型トランクが山積みになっているんですよ。それで部下に、おい、これはなんだ?と訊いてみると、知らんですか、ドイツに行くんですよと言われ、ええっと驚きました。いまから計算すると、ドイツに着くのは夏になる。ところが夏服なんか、艦には積んでない。でもいまさらどうしようもない。眠れぬ夜が明けた翌4月11日、艦はあわただしく出港準備をととのえ、呉を出港、内地に別れを告げました」
積荷の中身は竹内には知る由もなかったが、伊三十潜には、雲母や生ゴムなど、ドイツで不足している軍需物資や、航空母艦、航空魚雷の設計図など機密度の高い物件が、長期航海の食糧品などとともに満載されていた。狭い潜水艦の艦内、床に缶詰を敷き詰め、その上に板を張って通路にするほどの詰め込みぶりだった。
アラビア海の炎熱地獄
日本海軍の潜水艦の前進基地であるペナンで補修と補給を受けたのち、4月22日に出港。ところがここで、伊三十潜は、行きがけの駄賃に、ドイツ行きとは別の作戦に使われることになる。商船を改装した特設巡洋艦2隻(報国丸、愛国丸)と5隻の潜水艦からなる「甲先遣支隊」に組み入れられ、アフリカ大陸東岸のイギリス軍基地を偵察する任務を与えられたのだ。これは主に、ドイツからの要請に基づいた作戦だった。伊三十潜はまず、アラビア海に進出、搭載している零式小型水上偵察機をもって、アデン、ジプチの敵港湾を偵察。次いでアフリカ東岸を南下しながら、アフリカ中部の要衝・ザンジバル港、ダル・エス・サラーム港を偵察した。
「アラビア海はベタ凪ぎで、日中の炎熱地獄には閉口しました。赤道直下を南下する頃になると、スコールの来襲があったりして、むしろ過ごしやすくなりましたね」
5月19日、荒天のなか、あえて飛行機を発進させたが、虎の子の飛行機が着水時にフロートを折損してしまい、以後の航空偵察は不可能になる。その後、伊三十潜はモンバサ港内に潜入、潜望鏡で敵情を偵察し、続いてマダガスカル島北端東岸のディエゴスワレスの英軍基地の港口を監視、味方潜水艦による特殊潜航艇攻撃を支援した。そして通商破壊戦を命じられ、南アフリカとオーストラリアを結ぶ補給路に向かったが敵艦船と出会わず、6月中旬には作戦が打ち切られる。6月18日、甲先遣支隊はマダガスカル島東方300浬の地点に集合。ここでようやく、伊三十潜は僚艦と別れ、ドイツに向かうこととなった。
「特設巡洋艦報国丸から燃料パイプが送り出されて補給が始まり、続いて糧食の梱包が次々と海に投げ落とされ、爪竿(つめざお)を使って総員がかりでこれを拾い集める作業があわただしく行われました。無事補給が終わって、いよいよ訪独へと向かったのは6月18日の午後のことでした」
呉を出港してすでに70日近くが経過していた。竹内は、航海長・佐々木淳夫中尉を補佐して、一日交替で艦位測定のための天測を行うことを艦長に命じられた。陸地の見えない航海が続くので、艦位測定は重大な任務だ。竹内は、六分儀を使っての天測に懸命に取り組んだ。
イルカの群れが真横をかすめる
艦が大西洋に出るには、喜望峰の沖を通らなければならないが、軍令部からは、敵の哨戒機を避けるため、大陸の沖合い300浬(約556キロ)の外を通過するよう厳命が届いていた。だが、ここは「ローリングフォーティーズ」(Roaring Forties)と呼ばれ、風速40メートルを超える西からの強風が常時吹き荒れる、世界屈指の難所だった。
「艦が南南西に進むにつれ、しだいに荒れ模様の天気になり、ついに暴風圏に突入しました。風はうなりを上げ、怒涛は果てしなく重なり合って押し寄せ、艦は木の葉のように翻弄されて、いまにも押しつぶされそうでした。艦橋の分厚いフロントガラスはいつのまにか流失し、哨戒見張員はロープで艦橋の支柱に体を縛りつけ、ずぶ濡れになって2時間の当直を頑張るという有様でしたが、特に真っ暗闇での当直は、あまりのすさまじさに恐怖さえ覚えたものでした」
傾斜は45度にも達し、艦内では、お茶を飲むのにも、ヤカンを天井から吊り下げなければならなかった。ついにはエンジンの排気口から流入した海水がピストンを破壊、一時は主機械が停止し、漂流して風に押し戻されるという危機にも直面した。
「そのとき、ちょうど艦のそばをイルカの群れが通り過ぎたんですが、お前ら人間は何をやっとるか、という目で見られているような気がしましたよ」
風波と戦うこと2週間。伊三十潜はやっとの思いで大西洋に出ることができた。大西洋上は先ほどまでの時化がうそのような穏やかさで、艦は順調に北上を続けた。途中、トビウオの群れと出会い、甲板上に飛び跳ねるトビウオをバケツ一杯拾い上げるなど、思わぬご馳走もあった。艦内では、ドイツ語に堪能な航海長・佐々木中尉の指導で、ドイツ国家の練習が始められた。また、艦長以下、主要士官のベルリンへの招待や、総員のパリ見学などの行事予定が入電し、艦内の空気が一気に明るくなった。
風呂にすら入れなかった4か月
英空軍基地のあるアゾレス諸島に近づいた8月1日、2日と敵哨戒機の空襲を受けたものの、伊三十潜は8月2日、ビスケー湾に入り、8月6日の朝8時、あらかじめ指定されていたロリアン郊外の指定地点に浮上した。
上空にはすでに4機のドイツ空軍機が待ち受けていた。4ヵ月もの間、陸地を見ない航海だったが、天測航法だけでみごと地球上の一点に到達したのだ。
「ドイツ軍機の信号弾に応えて、マストに軍艦旗を掲げました。感激の一瞬でしたね」
伊三十潜は、鋼鉄に木板を貼りつけた特殊な構造の機雷原突破船に先導され、その船が曳くブイ(浮標)にしたがって、駆潜艇5隻に護られながら、ロリアン港に向かった。港口近くでは一隻の高速船が接舷し、出迎えのドイツ駐在首席補佐官・渓口(たにぐち)泰麿中佐と、水先案内のドイツ海軍士官が移乗してきた。
「艦内では、入港を前にして、『武士の嗜み』とばかりにみんな急いで散髪や髭剃りをしました。長身の佐々木中尉だけは呉からずっと伸ばしてきた髪が整い、見栄えのする長髪姿に一人にんまりしていましたが、私は丸坊主のため、あとでドイツの士官に、『子供の士官が来た』とからかわれて情けない思いをしました。しかし、入浴なしの生活が4ヵ月も続いたんですから、臭いはどうにもなりません。自分たちはわかりませんが、相当な臭気を放っていたでしょうね」
ヒトラーから勲章を
入港用意の作業が終わり、当直以外の全乗組員が紺の第一種軍装に着替えて甲板に整列し、艦はゆっくりと桟橋に向かった。伊三十潜は、長い航海に黒い塗装が剥げ落ち、赤錆びの浮いた、新造艦とは思えないボロボロの姿だった。
「ふと桟橋を見ると、黒山の人だかりになっていて、ドイツ占領下とはいえ、オープンな歓迎に驚きました」
廃船を利用した桟橋に係留すると、駐独武官・横井忠雄大佐を案内役に、ドイツ海軍潜水艦隊司令長官・デーニッツ大将、占領軍司令官・シュルツェ大将が乗艦、全乗組員が見守るなか、遠藤艦長と固い握手を交わした。
そして士官一同は桟橋から上陸し、日本の行進曲「軍艦」(軍艦マーチ)を演奏するドイツ海軍軍楽隊を閲兵、潜水艦基地内に設けられた歓迎宴会場に通された。そこには全乗組員が招待され、日独海軍関係者が集まっての歓迎会が盛大に行われた。
ロリアンは、ブレストと並ぶドイツ海軍の潜水艦・Uボートの基幹根拠地である。しかしここは、英空軍基地から飛行機でわずか1時間の距離にあり、毎日烈しい空襲にさらされている最前線でもあった。
上空には防塞気球を上げ、港口には防潜網を張りめぐらし、港内には巨大なブンカーを多数配置していた。ブンカーはUボートの格納庫と工廠を兼ねたもので、屋根は厚さ7メートルもの鉄筋コンクリートに覆われ、1トン爆弾の直撃にも耐えうる強度と、同時に数隻のUボートを並べて係留できる広さ、試運転可能な水深をもっていた。その完璧な防禦と運用は、日本海軍の関係者を唸らせた。
搭載してきた物資や損傷した偵察機をドイツ側に引き渡し、復路の計画の打ち合わせを終えて、遠藤艦長以下4名の士官はベルリンに招待される。艦長には、ヒトラー総統よりホワイトクロス勲章が授与された。
占領下のパリ市街
残る乗組員は二手に分かれて交替でパリ見物をすることになり、竹内はその第1班を引率して汽車の旅に出た。
「全ての者にとって生まれて初めての外国の旅で、案内役のコッホ少尉を東奔西走させてしまいました」
パリへ向かう急行列車の車内で、窓にぶら下がっている非常停止の紐をめずらしげに引っ張り、麦畑のなかで急停車させて車掌に怒られたり、全員が宿泊したパリのリッツホテルでは、流し湯で部屋の絨毯を水びたしにしたり、ビデで顔を洗ったりの珍道中だった。
「パリ市街は、ドイツ軍の無血進駐で戦火の跡はまったく見られず、平穏そのものでした。治安もまず大丈夫とのことで、軍服の腰の短剣のほかは非武装のまま、のんびりと市内見物を楽しみました。ドイツ士官の案内で、ビルの地下にある総鏡張りの部屋に通されて、そこに裸の女性が出てきたときはびっくりしましたね‥‥‥。パリでは当時、日本の軍艦マーチや愛国行進曲の旋律が流行っていて、行く先々で聞かせてくれました。なかでも、有名なシャンゼリゼ通りのキャバレー『リド』に入ったとき、それまで演奏していた曲を止めて軍艦マーチを演奏してくれたのには驚きました。外交官レートでフランがとても安かったので、いろんな買い物もしました」
パリ見物を堪能した伊三十潜の乗組員たちは、ドイツ潜水艦乗組員の保養所に使われていたシャトーヌフのフランス貴族の城館に2泊し、ドイツ兵と騎馬戦や棒倒しに興じたのち、ロリアンに戻った。竹内は、ドイツ士官に誘われて、海水浴も楽しむことができた。
ロリアン軍港では、伊三十潜がブンカーに係留され、復航のための準備が着々と進められていた。ドイツのUボートと比べ、格段に大きな伊三十潜の艦尾は、ブンカーから大きくはみ出していた。
「Uボートと比べると、こちらの技術水準ははっきりと劣っていました。特にドイツでは、潜水艦が敵に発見されにくいよう、防音対策も念入りに施されていましたが、向こうの士官に言わせると、日本の潜水艦は太鼓を叩きながら歩いているようなもの、ということで、言われてみると確かにそれだけの差があって、がっかりしました。艦体の塗料ひとつとっても、日本では刷毛で塗って、乾くのに時間がかかるのに、ドイツのそれはスプレーの吹き付けで乾燥が格段に早く、強度にもすぐれていました」
後編記事を読む<遣独潜水艦が26000キロの大航海を終えてシンガポールで爆沈…使命達成直前に起きた「まさかの事故」の原因>
【つづきを読む】遣独潜水艦が26000キロの大航海を終えてシンガポールで爆沈…使命達成直前に起きた「まさかの事故」の原因
