戦前にもいた、浅田真央並みの天才少女。なんと、当時12歳…日本フィギュア草創期。五輪に史上初参加した日本チームを巡る真実

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好評の前編に続く、「驚きのフィギュア創世記」後編です。

*前編はこちら

驚きのフィギュア創世記・6            来日フィギュア女子スターの恋

来日したブルガー嬢(当時24歳)は、日本各地で大変な人気を巻き起こした。その滞日中の世話係をまかされたのが、西川眞吉(当時30歳)だった。

*憧れのフィギュア女子スター・フリーツィ・ブルガーの来日については、こちら

西川は真珠の養殖に成功し「真珠王」として世界に名が知られていた御木本幸吉の孫で、御木本真珠店の欧州出張員だった。慶應大学在学中にフィギュアスケートとテニスの選手だったが、外国語に堪能だったはずで、「世話係」に起用されたのだろう。

その西川眞吉が、世話係の一線を越えて滞日中のブルガー嬢と恋に落ちてしまったのだ。

ブルガー嬢は4月に神戸港発の香取丸(日本郵船)で欧州へ帰国したが、西川眞吉はその1ヶ月後、ブルガー嬢を追うようにシベリア鉄道経由で欧州入りし、ウィーンのブルガー嬢宅を訪ね、嬢の母に結婚の承諾を申し出た(嬢の父もフィギュアスケーターだったが4年前に他界)。母は即座に承諾、同年8月末に結婚したのである。出会って半年で結婚というスピードぶりだった。

フィギュアスケート競技のメッカ、諏訪湖。その諏訪湖に出現する御神渡りは、建御名方命という男神が八坂刀売命という女神のもとへ通った氷の道筋だが、西川眞吉という男神は銀盤を介してブルガー嬢という女神に繋がったのだ。

二人はロンドンに移り住んだが、翌年、1937(昭和12)年に西川二世が誕生したことを写真入りで伝える『伊勢新聞』(8月5日)の切り抜きが見つかった。

銀盤の女王と真珠王の孫の恋と結婚、そして出産。今ならワイドショーが熱く騒ぎまくるだろうが、そんな甘いフィギュアの大事件が90年前にあったのである。

驚きのフィギュア創世記・7            五輪監督は新婚ほやほやカップル

日本のフィギュアスケートでは参加2度目になる第4回冬季五輪は、1936年(昭和11年)2月9日〜19日、ドイツ南部、オーストリア国境に接するアルプス山麓の町、ガルミッシュ・パルテンキルヘンで開催された。

それに先立つ1935年(昭和10年)11月16日、東京の山王リンクでフィギュアスケートの代表決定競技会が行われ、男子は渡邊善次郎(慶應義塾大學)、片山敏一(關西學院)、老松一吉(大阪スケート俱樂部)、長谷川次男(慶應義塾大學)が、女子は稲田悦子(大阪市立菅南尋常小学校、現・大阪市立西天満小学校)が選ばれた。

この男子4名、女子1名の代表決定とともに、フィギュアスケートの監督として在英中の2人が発表された。

男子監督:西川眞吉

女子監督:西川ブルガー夫人

まだ結婚して3ヶ月目の新婚ほやほやの2人が、日本のフィギュアスケート五輪初参加を支えることになったのだ。2人が東京で恋に落ちたのは、フィギュアの日本選手初五輪を支える神の采配だったのか、と思わせる夫婦監督起用だった。五代正友は初五輪でのスケート競技の見通しを新聞で語っていることをふまえると、西川眞吉とブルガー夫人の監督起用という粋な采配は五代正友によるものだったのかもしれない。

驚きのフィギュア創世記・8 五輪初参加旅の空気布団

海外への移動に飛行機が使えなかった時代ゆえ、選手たちの欧州行きの苦労は並々ならぬものがあったはずだが、その行程を赤茶けた『スケート年鑑 紀元二六〇〇年―二六〇一年』(大日本スケート競技聯盟、1940年)で読むことができた。

ちなみに「紀元二六〇〇年」は、1940(昭和15)年が、神武天皇即位から2600年目に当たるという「皇紀」で、天皇制のもとで国民団結をはかるためその祝典が行われたことに由来する。

フィギュアスケート選手団のガルミッシュ・パルテンキルヘン入りまでの経緯は以下だ。

1935年(昭和10年)

12月20日:ホッケー選手と東京駅出発(見送りの大群衆)、大阪着。

12月21日〜23日:大阪、京都、神戸でフィギュアのエキビジョン(大喝采)。

12月24日:京都、明治天皇を葬る桃山御陵と京都・八幡市の石清水八幡宮に参拝し武運を祈願。ここは「りくりゅう」が必勝祈願をしたことで「パワースポットだ」と話題になったが、「りくりゅう」の祈願は、90年前の日本初、フィギュアスケート選手団の五輪祈願に由来するのかもしれない。

12月26日:朝鮮半島の安東(あんどん)着。フィギュアのエキビジョンを行う。

12月27日:奉天(現・瀋陽)着。

12月28日〜29日:スピード、ホッケー、フィギュアのエキビジョンと試合。

12月30日:夜、満州国首都、新京(現・長春)着。正月を車中で過ごす予定なので、ここで雑煮を食し、再び汽車に乗車。

12月31日:早朝、哈爾浜(ハルビン)着、さらに中ソ国境の町、満州里へ向かうが、薪を燃料とする蒸気機関車はしばしば故障し立ち往生。車中で新年を迎え、一同は食堂車に集まり東方を拝し君が代斉唱、万歳三唱をした。

1936年(昭和11年)

1月1日:16時間遅れの深夜0時前に満州里着。日本ホテル泊、気温-39℃の極寒。

1月2日:パン、鍋、食料を購入し午後3時半、満州里発、列車でソ連領へ。

車中では持ち込みの缶詰とパンで食事したのは、車内でチキンを注文すると7円50銭という法外値段だったからだ(現・約7000円か)。駅々では熱湯が得られたので、固形味噌汁や塩漬けキャベツを食すことができた。

車室は4人用でベッドは板張りなので、日本で購入した「空気ブトン」と奉天で買ったロシア製毛布で就寝した。「空気ブトン」は、風船式に空気で膨らませるマットレスか。ミラノ五輪に選手たちはエアウィーヴ というマットレス(公式オリンピックライセンス商品)を持参したが、布団を携えての現地入りはすでに90年前にも行っていたのだ。

長い列車旅で体がなまらないよう、選手たちは筋肉弛緩を防ぐため日に2回ラジオ体操を、駅では四肢を練った。

1月9日深夜0時:東京駅を発って16日目にやっとモスクワ着。

歓迎宴などあり市内デイナモ競技場で10日ぶりにスケートをする。400mのスピード・トラック内でホッケー競技、フィギュアが行える施設で、観客数万人収容の規模に一同驚く。

選手たちは後、ベルリン、さらにフィギュアスケート王国、ウィーンに入る。ウィーンでは往年のフィギュア覇者らの指導を受け、あのフィギュアの女王、ブルガー嬢が所属していたエンゲルマン・スケートリンクを訪問、名手たちの滑りを見学し、練習で腕を磨いている。

驚きのフィギュア創世記・9       史上最年少12歳少女の奮闘

ウィーンでもエキシビションを行なっているが、4000人もの観客が集まった。

それは、わずか12歳の女子選手、稲田悦子(1924〜2003、五輪女性シングル代表)の人気ゆえだった。

オリンピックに先立つ1月24〜26日、ベルリンでフィギュアの欧州選手権大会が開催され、日本選手団も出場している。成績は、男子フリーは7位と9位、女性フリー(稲田悦子)は9位だった。

その稲田悦子の、12歳でのオリンピック出場日本人選手の最年少記録は今も破られていないが、昭和10年代によくぞそんな子供を欧州に送ったなと思う。欧州選手権大会でも幼い稲田悦子は人気を集め、稲田はナチス・ドイツのヒトラー総統と握手したという。選手団は後、ミュンヘン、ニュールンベルグでもエキシビションを行っている。

1月30日:五輪開催地、ガルミッシュ着。

いよいよオリンピック本番を迎えたが、成績は、男子は25人中15位、20位、21位、23位。女子(稲田悦子)は23人中10位。『スケート年鑑』は、「予期以上に悪い成績であった」と書いている。

女子シングル、1位のノールウェーのソニア・へニー(24歳)は2971.4点、最下位、ラトビアのアリス・セギウス(23歳)は1966.2点だったので、2576.7点の稲田悦子はかなりの善戦だった。

稲田悦子は12歳という幼さにもかかわらず五輪という舞台で堂々と滑ってみせたが、それは浅田真央を彷彿とさせる。浅田真央は天才少女として12歳でデビューしたが、私は14歳の時にこんな話を交わした記憶がある。

山根 たくさんのお客さんがいるリンクに出てドキドキしないの?

浅田真央 どんなにお客さんがたくさんいても、私、全然ドキドキしたりしないんです。

稲田悦子もそういう度胸の持ち主だったのかなと思うが、女子監督、西川ブルガー夫人の支えが大きかったに違いない。

ペアは12カ国18組が競い、ドイツのエルンスト・バイアーとマキシ・ヘルバーが金メダルを得た。国際オリンピック委員会の記録は、「2人のペアは、パラレルジャンプを取り入れフィギュアスケート・ペアに革命を起こした」と記している。

*エルンスト・バイアーとマキシ・ヘルバーの金メダルの演技の動画はこちら

だがペアでは、日本選手の参加はなかった。

日本選手たちは指をくわえて悔しい思いで見学していたに違いない。

その雪辱を「りくりゅう」が、実に90年後に果たした

ちなみに、フィギュアスケートによって衰退されたと書かれたスピードスケートだが、このドイツ大会に出場したスピードスケートの石原省三選手(満州生まれ、早稲田大學)は、500mで44秒1の日本記録で4位という好成績をおさめている。

2月20日:パリ入り。世界フィギュアスケート選手権大会に出場。成績は男子が17人中13、15、16、17位、女子が17人中10位とふるわなかった。

3月1日:一行はロンドンでコーチを受ける。

3月6日:スイスのチューリッヒとベルンでエキシビション。

以上で全予定を終えた。

かった。

3月10日:フランスのマルセーユで日本郵船の欧州航路の貨客船、榛名丸に乗船し帰国の途に(航海は38日)。

4月17日:神戸港着。列車で東京に移動し、明治神宮に奉告詣での後、明治神宮スケート場でエキシビションを行って解散した。

選手団の欧州ツアーの記録を読むと、数多くの各地でのエキシビション、選手権大会の参加などが続いておりオリンピックに集中したものではなかったことを知る。それは、スケート連盟が、選手たちに世界のフィギュアスケートの現状を体験させ、技術と度胸を磨かせ、世界に通用する一流選手に育てることが狙いだったのではないかと思う。

今では、オリンピック選手がこれほど多忙なスケジュールで各地を転々とすることなどあり得ないが。

彼らが帰国した1936年(昭和11年)には「2・26事件」があり、1937年(昭和12年)に日中全面戦争に突入、そして1938年(昭和13年)、第二次世界大戦が勃発している。平和の象徴であるスポーツは暗い時代のるつぼに吸い込まれ、五代正友の時代に日本のフィギュアスケートが世界に伍していく機会も失われてしまった。一方、昭和初期の10年間のフィギュアスケートの世界はNHKの朝ドラになりそうな物語がぎっしりだった。

21世紀に入って最高の視聴率を記録したNHKの朝ドラは、2015(平成27)年度後期の『あさが来た』だった。主人公、白岡あさのモデルは実業家で教育者の広岡浅子だが、彼女を支えた人物をディーン・フジオカが演じた。そのモデルは「近代大阪経済の父」と言われる実業家、五代友厚だ。この放送を通じて五代友厚への関心が大きくなったと言われている。

「フィギュアスケートの父」五代正友はその「近代大阪経済の父」の孫、「大型ロケットの父」五代富文はその曾孫なのである。五代ファミリーの新たな朝ドラ、ロケット&フィギュア編が実現したら面白いのだが……。

(了)

【前編はこちら】じつは、ウィキにも出ていない事実…驚愕。フィギュアスケートと、国産ロケットH-IIの、意外すぎる関係