イスラームを批判すれば”即処刑”のはずが…敵国カリフに喧嘩を売ったオットー1世の使者が、生還できたワケ
ヨーロッパ随一の強国は、ひとりの男によって作り上げられた。その名は神聖ローマ帝国初代皇帝・オットー1世。欧州を席巻した苛烈な王の生涯は、戦いの軌跡だった。身内からの反乱にイタリア遠征、そして強敵ハンガリーとの戦争。彼はいかにして数多の勢力を下し、その地位を固めていったのか。
オットー1世の生涯を辿れば、中世ヨーロッパが見えてくる。ドイツの源流・神聖ローマ帝国の歴史を綴った『ドイツ誕生 神聖ローマ帝国初代皇帝オットー1世』から一部抜粋・再編集してお届けする。
『ドイツ誕生 神聖ローマ帝国初代皇帝オットー1世』連載第47回
『実の息子の“猛反発”により「スラブ宣教計画」は頓挫…その隙にイタリアでうごめく、「18歳教皇」と「オットー1世の宿敵」の陰謀』より続く。
オットーとカリフの和解
956年2月、オットーはフランクフルトで宮廷会議を招集した。この時、後ウマイヤ朝のカリフ、アブド・アッラフマーン3世の使節が首都コルドバからやってきた。使節が運んできた親書にキリスト教を誹謗する箇所があったことにオットーは怒り、その過ちをただす書簡を弟ブルーノに書かせ、ゴルツェの修道士ヨハンネスに持たせ、彼をコルドバに送った。普通、少しでもイスラームを批判する書簡の持参者は直ちに処刑される。だがヨハンネスは数ヵ月コルドバに監禁された後、ゴルツェに帰還を許され、957年には修道院長となっている(矢内義顕「ゴルツェのヨハンネスとイスラーム」文化論集29号)。これはオットーとカリフの和解が成立したあかしでもある。なぜ、和解が成立したのか?
アブド・アッラフマーン3世の後ウマイヤ朝は750年、ダマスクスのウマイヤ朝がアッバース家(アッバース朝)により壊滅させられた時、王家の生き残りがスペインのアンダルシアに流れて樹てた王朝である。以降、八代続くが、むろん当初は国内は安定せず、地方の統制もままならなかった。ところが当代のアブド・アッラフマーン3世の卓抜な統治能力により国力は安定してきた。アブド・アッラフマーン3世は余勢を駆って929年にイスラーム教の首長であるカリフを名乗った。これはバクダッドのアッバース朝のカリフと、これに対抗し北アフリカに興ったファーティマ朝のカリフに対抗するための権威付けであった。ともあれ、こうしてイスラーム教世界は3人のカリフが並立することになったのである。
並立とは言うが要は3すくみ状態だったのだ。そのなかで北アフリカのファーティマ朝は国力盛んとなり、バクダッドのアッバース朝を圧倒し、さらには後ウマイヤ朝のアンダルシアに侵攻を繰り返していた。そしてアブド・アッラフマーン3世にとって厄介だったのは、イベリア半島の北・中部を占めるカスティリャ王国を中心としたキリスト教徒によるレコンキスタ(国土回復運動)が攻勢を強めているということであった。つまり当時の後ウマイヤ朝は国内は安定してきたが、対外との緊張関係を絶えず強いられていたのである。そこでこれ以上、宗教上の行き違いで対外との軋轢を増やすのは得策ではない、とアブド・アッラフマーン3世は考えたのであろう。一方でオットーもカリフとの対立を避けようとしたのは、イタリアで自立の道を歩み始めたベレンガーリオがカリフと同盟することを恐れたためでもある。かくしてオットーとカリフの和解が成立した。
リウドルフに敗者復活のチャンス
そして春になると東フランクに疫病がはやる。トリーア大司教ロートベルト、フルダ修道院長ハダマーが急死する。トリーア大司教の後任にはリウドルフィング家のハインリヒが就く。他にもカンブレー、ヴュルツブルク、メッツ、ヴェルダン、オスナブリュック各司教が王家の親族で固められた。王に服従する人材を司教や修道院長に任命し、もって利己的で安心ならない世俗領主たちに対する楔とする。そのため司教たちに世俗任務を託し、教会と王権の連携を図る。これがオットーの教会政策である。彼は息子ヴィルヘルムの批判に耳を傾けることなく、しゃにむに王権と教会の一体化を進めた。
そして国内を固めたオットーは956年秋、息子リウドルフをイタリアに派遣する。
これは、イタリア遠征を父に弓引いたリウドルフの禊の機会にすべきだ、というブルーノの助言によるものである。リウドルフは敗者復活のチャンスを与えられたのだ。うまくいけば彼にはイタリア支配が待っているというわけだ。一説によるとオットーの妃アーデルハイトはこの人選に難色を示したという。義理の息子のかつての反乱は、自分と息子のオットー2世に向けられたものだ。その彼がイタリア遠征を成功させることで、再び宮廷で重きをなすのは許せない、と。アーデルハイトの夫オットーに対する影響力を考えると、これも大いに考えられるが、オットーは今回ばかりはアーデルハイトの進言を退けリウドルフをイタリアに派遣したのではないだろうか。
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