『ポーラX』徹底考察 劇中の台詞が射抜く、レオス・カラックス自身の葛藤と新生
レオス・カラックスが過去に監督した作品群の4Kレストア版上映企画も、ついにそのラストを飾る『ポーラX』(1999年)へと到達した。『ボーイ・ミーツ・ガール』(1983年)、『汚れた血』(1986年)、『ポンヌフの恋人』(1991年)と、私もこの機会に改めて彼の作品を味わい直し、評論してきたが、やはりこの「アレックス三部作」から8年の沈黙の時を経て提出された一作は、これまでのアイコニックな要素が少ない、かなりの難物であると言わざるを得ない。しかし、だからこそ本作『ポーラX』は、その内容が読みやすくもある。
参考:『ボーイ・ミーツ・ガール』はレオス・カラックスの心象風景そのもの 引用の連続を紐解く
ここでは、そんな本作『ポーラX』が何を描き、レオス・カラックスに何をもたらした一作だったのかを、じっくりと考えていきたい。
本作の原作は、『白鯨』で知られるアメリカの文学者ハーマン・メルヴィルの小説『ピエール』だ。『白鯨』と同じく1850年代に発表された一作で、その内容は不道徳だとされ、当時物議を醸した。主人公は、ニューヨーク州の北部で領地を相続する19歳のピエール。彼は、異母姉を名乗る女性イザベルと結婚して、家を捨てて駆け落ちをする。教会を改装したアパートで暮らし始めたピエールとイザベルだったが、そこにピエールの婚約者だった女性が合流して、3人での奇妙な共同生活がスタートする。だがそんな3人の運命は、想像もできないような悲劇に向かってゆく。
映画版である本作はそんな物語を翻案し、舞台をフランスに移し替え、イザベルを東欧から移動してきた難民という設定に置き換えている。これは、当時起こっていた「ユーゴスラビア紛争」と、フランスにそれが原因となった難民が流入してきたという社会の動きが影響を及ぼしているとされる。これは、『ポンヌフの恋人』でホームレスの現状をドキュメンタリー的に映し出し、社会性をとり入れた試みの延長だといえよう。
明るく優しい陽光の当たる、郊外の領地を舞台にした前半部では、淡い色調で構成される優雅で穏やかなシーンが持続していく。ギョーム・ドパルデューが演じるピエールと、カトリーヌ・ドヌーヴの演じる彼の母親、デルフィーヌ・シュイヨー演じる婚約者リュシーの生活は、あまりに完璧で満ち足りている。だがその輝きがあまりにまばゆいがゆえに、どこか現実味を欠いた不穏な気配が漂っている。そこに現れ、後半部に向けて作品の色調を大きく変えていくのが、対極的に闇のムードを纏った女性・イザベル(カテリーナ・ゴルベワ)なのだ。
カテリーナ・ゴルベワはレオス・カラックスのパートナーであった俳優で、2011年に亡くなっている。『ポンヌフの恋人』の製作費の超過によって金銭的に厳しい状況にあったカラックスだったが、恋人だったジュリエット・ビノシュと破局を迎えたことも、本作を撮るまでに長い期間を要した理由でもあったと考えられる。その存在がカラックスを駆動させたという意味において、本作にとって彼女は最重要だったといえるだろう。また、彼女がロシア出身であったことも、本作に社会性が介入する要因になったと考えられる。
劇中、イザベルは東欧訛りの声で、衝撃的な告白をする。自分はピエールの姉であり、外交官だった父が東欧で残した娘なのだと。この瞬間、ピエールは自己の存在を大きく揺るがされる。自分を育んできた満ち足りた生活が、他者を犠牲にした欺瞞の上に成り立っていたと確信するのだ。彼は母も、婚約者も、家も土地も捨てて、イザベルと、彼女が連れている子とともにパリへと向かう。
困窮したピエールたちは、パリの巨大な廃工場に身を寄せる。そこには難民や、前衛的な音楽を奏でるテロリストのような芸術集団が存在する、まさに“異界”のような場所であった。そんな闇のなかで、ピエールとイザベルは性的な関係を結ぶことになる。イザベルが本当に血縁関係者なのかは最後まで曖昧にされているのだが、そうであれば近親相姦だといえる状況だ。
だが、本作が映画祭や公開当時“問題作”だと言われたのには、また別の理由がある。ちなみに、ここでの撮影の詳細についてはさまざまな噂があるものの、その性質上デリケートな点もあるため、誤解や加害になり得る指摘をしないように、事実とされる部分への明言を避けたい。しかしながら、通常の劇映画で見られるような演技を超えて、直接的な“実演”があったことは、映像を見れば明白で、こうした表現が必ずしも必要なのかという点は、議論の的にならざるを得ない部分だといえよう。
こうした過激な表現は、当時「ニュー・フレンチ・エクストレミティー」などと呼ばれ、カトリーヌ・ブレイヤ監督やブリュノ・デュモン監督らとともに、賞賛あるいは物議を醸していたところだ。とはいえ、いまこうしたシーンでは、俳優の心身の安全を守る役割の「インティマシー・コーディネーター」が介入することが、社会通念上の義務とされている。表現の自由や芸術上の問題ともかかわるという見方もあったものの、『アデル、ブルーは熱い色』(2013年)での撮影でセクシャル・ハラスメントが問題となったことで、現場で権力勾配のある関係性だといえる環境下において、俳優が極限まで追い込まれることで生まれる美学というのは、もはや芸術ではなく暴力であるという合意形成が、業界では一般的に取られている。現在の水準でいえば、本作の撮影は問題となる可能性があることを留意したい。
また、店で食事をするシーンにおいて、中国系と見られる男性の素人カラオケを、ピエールやイザベル一行が爆笑を堪えるシーンも、引っかかる点ではある。東洋人の異文化性を笑いの文脈で利用するのは、例えば同世代のリュック・ベッソン監督も『グラン・ブルー』(1988年)でおこなっていたが、これは悪習だと言っていいだろう。ましてや、西欧と東欧の共感を、アジアの異物化によって繋ぐという構図は、アジア人の筆者としては看過しかねる点ではある。それを意識してあえて演出していたとしても、ノイズにしかなっていない箇所だといえる。
さて、なぜカラックスが、本作でポルノに近いとすらいえる直接的な描写をしたのか。ここが、この記事が深掘りしたいポイントである。それを解き明かすことで、本作の本質が何だったのかを探り当てたい。
カラックスは、22歳のときの初長編作品である『ボーイ・ミーツ・ガール』の冒頭で、子ども部屋を映し出し、子どものような声を使用している。これは、シネフィルとしてさまざまな映画に親しんでいたカラックスが、愛する映画群の表現をパッチワークして作り上げた端正な模倣品を自分の肖像とした、初期の作家性を示している。
つまり、まだ若かった自分が、人生の経験が不足している状況において、それらを過去の映画に補わせるといった手法である。だからこそ『ボーイ・ミーツ・ガール』は端正であるとともに、やや硬直した面もあった作品だった。デヴィッド・ボウイの「When I Live My Dream」を聴き、目を閉じて歩くドニ・ラヴァンは、夢想のなかこそが自分の現実であるという、子ども時代の価値観の拡張である。
『汚れた血』や『ポンヌフの恋人』は、そこからの脱却を試みた作品だとはいえるが、あくまで段階的であり、カラックスの異名であった「恐るべき子ども」に、依然としてとどまる世界観だったと思える。しかし本作では、ハーマン・メルヴィルという骨格を基に、社会的な文脈と文法を持ち出し、自身のこれまでの作風に根本的な変化を加えているのだ。つまり、人生の実感や現実を、一次的に捉える試みを目指したのだといえる。そこでカラックスが必要としたのが、映画的な“魔法”の外にある、痛みをともなうポルノ的な直接的表現だったということなのだろう。それが断罪されるかという問題とは別に、ロジックとしてはこういうことだったと考えられる。
実際、そうした試みが作品を素晴らしいものにしたのかといえば、否定する観客は少なくないだろう。実際、「恐るべき子ども」だった時代の圧倒的な希少性や特別感は、希薄になっているのは間違いない。なぜなら、大人の映画というステージは、カラックスが憧れてきた巨匠などと同じフィールドだからである。まさにスポーツでいうジュニアチームのトップ選手が、プロの世界に進出したようなものである。そこでのカラックスは、部分的に凡庸ですらある。とくに社会問題を要素にしながら、そこへの解決への道を示すことはおろか、それ以上の見解すら示さず放っておくという点は、拙い部分だといえる。
とはいえ、一種の凡庸さを受け入れてまで“大人になる”ことを選んだ選択自体は、ポジティブなことだと強調したい。これは、同じようなキャリアを経験しながら、視野狭窄的な感覚を維持する天才的な若手という立場から、なかなか脱皮しないグザヴィエ・ドラン監督とは、対照的な姿勢といえるのではないか。それだけでなく、ここでカラックスが選んだのは、すでに破滅的で一般的とはとても言えない『ピエール』を原作に選んでいるということである。
興味深いのは、カラックス自身が、その不利を完全に把握していたということだ。劇中では、若い小説家でもある主人公ピエールが、出版社の責任ある人物マルグリット(パタシュー)に会って金の無心をするシーンがある。そこでの編集者のアドバイスは、まさに明らかにメルヴィルの『ピエール』の作風と本作の筋そのもの、そしてカラックスの作風を客観的に捉えている。
「あなたの話を聞いていると、ずいぶん混乱している小説ね。あなたが心配だわ。振る舞いも、言葉もまるで別人。この世の陰鬱な真実を暴きたがっているけど、感覚が古すぎる」
「気をつけなさい。成熟した小説を書こうとしてるけど、あなたの魅力は“未熟なところ”にある。何かに火をつけたいのね。逆巻く雲のように時代を超越し、皆から尊敬されたいと。でもあなたの本質は違う。自分でも分かってるはず」
ここでの発言は、まさに筆者が指摘してきたことそのものである。しかし、メルヴィルが作中で石や巨人などという超越的な存在を描こうとする主人公の姿勢を通して、『白鯨』より大きな獲物を目指したように、カラックスはさらなる反発や破滅を予感しながらも、一段上のステージでなければ手に入らないものを探し、新しい風景に到達しようとしたのだ。
本作のラストカットは、フォーカスが定まらず視界がぼやけた状態で森のなかを映し出した、ピエールの心象風景である。その被写体を失った“混乱と迷い”こそ、レオス・カラックス監督が欲した試練であり、同時に報酬でもあったように思えるのである。「恐るべき子ども」から“凡庸さを受け入れた大人の映画監督”へ。勇気ある成長を示した『ポーラX』とカラックスのここでの新生を、その文脈において大いに祝福したい。
(文=小野寺系(k.onodera))
