※この記事は2022年01月04日にBLOGOSで公開されたものです

なぜ宇宙にいってもカネ配りをするのか

とうとう本当に宇宙旅行に行ってしまった、ZOZO創業者の前澤友作氏。先日宇宙ステーション滞在を終え、無事地球への帰還を果たしたが、氏の宇宙旅行でとくに大きな話題になったのが、もはや氏のライフワークあるいは代名詞ともなりつつある「お金配り」だった。

ZOZO創業者で宇宙旅行中の前澤友作氏(46)が19日、宣言していた「宇宙からのお金贈り」を開始した。ネット上では瞬く間に「#宇宙から全員お金贈り」がトレンド入り。異例の宇宙からのぶん投げで、ネット上はマネー狂騒曲となっている。

2年前からネット上で約30億円ものお金配りを実践してきた前澤氏は、宇宙旅行でも壮大な仕掛けを用意していた。「ハズレなしで全員に当たる」と銘打ち、この日18時から、お金配りをスタートした。
(東スポWeb『前澤友作氏「宇宙からのお金贈り」開始 500円から100万円ばらまきにネット上は狂喜乱舞』(2021年12月19日)より引用

宇宙に行ってもなおやることが「お金配り」であること、そしてすでにこの「お金配り」企画が累計で30億円に達していることには驚いてしまった。

しかしながら「お金配り」は、あくまでひとりの富裕層が行う社会的営為としては、それほど合理的でもなければ「コスパ」がよくないようにも思える。というのも、「お金配り」を敢行すれば、案の定お金目当ての人間ばかりが群がってしまう状況をつくってしまうからだ。

「お金をくれるから」という不純な動機で集まった人は、お金を与えているうちには気前よく尊崇や敬愛の念を示してくれるが、ひとたびお金を与えなくなってしまえば、すぐに手のひらを返して、愛想をつかして去っていく。その手のひら返しの速度はすさまじい。「金の切れ目が縁の切れ目」とは実によくいったものである。

さらに問題なのは、「お金目当ての人」が群がっている光景をほとんどの人が好ましく思わないことだ。その人と同じくらいの所得水準の富裕層だけでなく、一般的で常識的な人もそうした光景を「あさましい」といって嫌がり、その人のもとを離れていく。

「お金を配る金持ち」と親しくしていると、自分も周囲から「お金目当てに群がる卑しい人間のひとり」と見なされてしまいかねないし、なにより相手から自分自身をそのようなまなざしで見下されているような気がしてあまり快くない。人はだれだって生きていくためにはお金が欲しい。だからといって守銭奴になりたくはないし、ましてや物乞いになりたくないというプライドを捨ててまで生きたいとは思わないのだ。

ゆえに「お金配り」は、富裕層がする営為のなかで、自身のカネも、交友関係も、名声も、なにもかもを棄損するもっとも「コスパ」の悪い社会的営為であることは間違いないだろう。にもかかわらず、この営みを何度も繰り返してはSNSの泡沫のネタを提供する前澤氏の行動は、一般的な富裕層の価値基準や行動様式とは相当に乖離している。

--そんなことは、私がここでいちいち書かなくても、当の前澤氏が百も承知のはずだ。それなのになぜ彼は、あえて「お金配りおじさん」であり続けるのだろうか?

合理的で道徳的な金持ちたち

しかしながら「お金配り」が富裕層にとって経済的にも心理的にも社会的にも、あらゆる側面から「コスパ」の悪い社会的営為であることは、現代社会の別の問題を浮かび上がらせている。

というのも、かれらにとっては貧乏人にお金を与える営みが合理的でないことから、富裕層はこぞって、より合理的な使途を探し出して、これに用いようとするからだ。

富裕層は自分にとって経済的にも心理的にも社会的にもメリットの大きな方向で自分のお金を使おうとする(だからこそ富裕層なのであるが)。「貧困層への配分」がそのいずれにおいても有効でないどころか、デメリットばかりが目立つからこそ、かれらは明日の支払いにも困るような貧困層をその窮状から救うためではなく、たとえば貴重な動植物の保護や歴史的遺産や建造物の修繕などに気前よく私財を投じようとする。

パリで暴れまわるイエロージャケットに同情的な富裕層はいなかったが、焼け落ちるノートルダム大聖堂にかれらは心を痛め、こぞって寄付を申し出た。かりにSNS経由で前者に大金を配っても「名誉」や「道徳性」は少しも得られない。しかし「私はノートルダム大聖堂に~万ユーロを寄付します!」とSNSで高らかに宣言すれば、あの人はなんとすばらしい慈善家であるかと人びとに褒めてもらえる。どちらを選ぶか想像に難くない。

「貧者へのお金配り」が経済的にも社会的にも道徳的にも心理的にも非合理的であることは、富裕層の「貧困層への所得再分配」に対する潜在的な忌避意識に通底している。

国内で格差問題が紛糾し、富裕層課税の強化の議論が盛り上がるたび、かれらは激しく嫌がり「海外脱出」をちらつかせる。かれらにとって課税が自分の手持ちのお金の使われ方のなかで、あらゆる意味でもっとも「非合理的」だからである。

「課税」ほど非合理なものはない

富裕層は当たり前のことだが多額の納税をしている。

それなのに、たとえば役所に行ってもなんの特別待遇もなく、1円も納税していない他の人びとと「平等」な品質の公共サービスを受けさせられることが、かれらの主観では我慢ならないほど不条理なものに思える。これが通常の企業社会ならたしかにありえない。役所や病院ほど、高額納税者たちを「平等」な扱いによって不愉快にさせる場所はないだろう。

現代社会では、富裕層にとってもっと「魅力的」で「合理的」なお金の使い方のオプションが豊富に提案されているからこそ、伝統的なやり方--国や自治体からの課税--に、かれらはますます難色を示すようになっている。特段の感謝もされないし、自分が享受できるサービスもよくならない。自分にとって甚だしく意味のないことにお金を使われている気持ちになってしまうのだ。

自治体のサービスに口出ししようとしても、できることは地方議会への「平等な」1票くらいだ。現代社会の富裕層が押しなべてグローバリズムに惹かれていくのは、かれらにとって国や地域社会が「悪しき平等」を自分たちに課しているように思えるからだ。

稼げば稼ぐほど、不公平なシステムに苦しめられているとかれらは感じるようになる。稼いだ人がもっとも優遇されるシステムのほうが、より公正であると考えるのだ。

倫理的で上質な地球市民への道

現代社会には、たくさんのお金を投じても「成金趣味」だと馬鹿にされないどころか、公共精神あふれる人だと感謝もされるし、社会から特別待遇も受けられるし、人びとからの名声も道徳性も高められる――そんな富裕層(とくに西欧にいるかれら)のわがままを満たすために考案された夢のような選択肢がある。

それこそが、21世紀の先進国によって発案された、新しい道徳律である「SDGs」あるいは「エシカル消費」だ。

地球環境の持続可能性に配慮した素材や製造工程によって提供される「エコ」な商品やサービスは、往々にして通常のそれらよりも値が張る。金銭的に余裕のない庶民にはそうたやすく手を出すことはできない。富裕層だけが「エコな消費者」「エコな社会市民」としての名誉を得るための負担に耐えることができる。(注1)

「~年後にはすべての自動車を電気自動車にする」と国のリーダーたちから理想論をいわれても、電気自動車は通常のガソリン車よりも値段が高いことは明白だ。市民社会に今以上の経済的負担を求める「脱炭素社会」では、結果的に富裕層だけが「環境に配慮した地球市民」であることによるレピュテーションをかき集めることができる。

貧乏人に金をくれてやるくらいなら、倫理的で上質な消費者として、社会適応度を高めることにこそ自分の金を使いたい――そうした願望を本当にかなえてくれたのがSDGsやエシカル消費だった。とりわけ実業界や芸能界のセレブリティたちが、このタームに飛びついて自分たちのお金を道徳性と交換することに躍起になっているのは偶然ではない。

富裕層は「自分にとってもっともコスパのよいお金の社会的な使い方」を見出し、いまそれに湯水のように私財を投じている。貧困層の明日よりも、地球環境の保全と、それに協力することで得られる自分や自分の身内の道徳的優位性のほうが、はるかに大切だし合理的だからだ。強調しておくが、かれらが悪人だからではなく、そうすることがごく自然に「合理的」だからそうしているまでだ。

「賢明である道」に背を向けた男

ここでようやく、冒頭で私が述べた疑問--なぜ彼は、あえて「お金配りおじさん」であり続けるのだろうか?--に立ち返ってくる。

まったくもって「コスパ」がよくないどころか、社会的にも道徳的にも人間関係的にも丸損をするリスクがあるにもかかわらず、それでも「お金配り」をやめない前澤氏は、現代社会の道徳律をうまく利用しながら「ただしく」「賢明な」人としての地位を確固たるものにする他の大勢の「合理的」なお金持ちよりも、結果的にははるかに慈悲的であるということだ。

現代はお金持ちのだれもが、ますますスマートになり、じつに様々な意味で「自分のために」お金を使う時代である。自分のためにならないお金の使い方はなんとしてでも避けたいと考える。自分が倫理的で道徳的な人間になれる、もっとも合理的な選択肢にこそ、大切なお金を使いたい。そうでないならずっと隠してしまっておきたい――SDGsの盛り上がりと、カリブの島々にある無数のタックスヘイブンは、そんなかれらの願いをかなえるために誕生した。

ところが、たったひとり、彼だけがまったくそうした打算を抜きにして「お金」をばらまいている。たとえ宇宙に行ってもやることは変わらなかった。スマートではないし、倫理的でもないし、道徳的でもない。まるで社会的には尊敬されないかもしれない。だがそれでも、彼は宇宙からお金をばらまいた。

彼は他の富豪たちとは違い、賢明である道を選ばなかった。

彼は自分の意思で、他の富豪たちが愛してやまない「合理的で賢明な道」と訣別し、これにはっきりと背を向けた。

ただしいか、すばらしいかは別としても、それだけはたしかだ。

(注1)「サステナブル」な商品、高くても買う?日本人のサステナビリティ意識と行動 https://gallery.intage.co.jp/ethical-consumption/