NHKスタジオパーク入口(より)


「ガラスの天井」という言葉が使われるようになったのは、1980年代から。女性が、組織や社会のなかで立場や地位を求めようとしてもなかなか叶わない、能力や経験があっても道を阻まれてしまう、そういった見えない障壁を指す言葉だ。石井妙子氏の新刊『日本の天井 時代を変えた「第一号」の女たち』には、そんな苦難の時代を経て、各分野のトップランナーとなった女性たちの言葉が並ぶ。そのなかから、アナウンサー・山根基世氏のNHK入局後のエピソードを2回に分けてお伝えしよう。(JBpress)

(※)本稿は『日本の天井 時代を変えた「第一号」の女たち』(石井妙子著、角川書店)の一部を抜粋・再編集したものです。

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女性が一生できる仕事を求めて

山根基世(やまねもとよ) 1948(昭和23)年生まれ。山口県出身。早稲田大学文学部卒業後、1971(昭和46)年、NHKにアナウンサーとして入局。報道、教養番組ほかを経て、「ラジオ深夜便」「NHKスペシャル・人体」「映像の世紀」等、大型シリーズのナレーションを多数担当。2005(平成17)年、女性初のアナウンス室長に就任。同年、紅白歌合戦の総合司会を担当。2007(平成19)年の退職後はフリーアナウンサーとして多方面で活躍する。

(文中敬称略)

 山根は、大学進学のために上京すると新宿区に安いアパートを借りて暮らし始めた。家からの仕送りは1万円、家賃は5千円。山根はアルバイトをして、両親にできるだけ負担をかけまいとした。「甘えてはいけないと思ったので、東京に行ってからは、いろいろなアルバイトをしました。靴の行商のおじさんの助手もしたんですよ。そんな中で一番長く続いたのが、住み込みの家庭教師でした。大学2年、3年と、世田谷にあったそのお宅で暮らしました」

「ちょうど学園紛争の時代でしたから、大学に行っても授業なんてやっていません。そんな中で私は学生演劇に出会い、夢中になった。たとえばチェーホフを上演するとなったら、皆で集まって原作の解釈を語り合う。皆でポスターを作って貼りに行く。徹夜で衣装を縫う。皆で舞台を創りあげていく過程が、なんていうか本当に青春だなって、そう思ったんですね」

「演劇界そのものにも活気がありました。ですから、卒業後、演劇の仕事をしたいと考えたこともあります。でも、演劇で食べていくのは大変なことだ、ということもわかっていた。それでは目標である、『自立』が果たせなくなってしまう。後ろ髪を引かれましたが、演劇を仕事にする道は諦めました」

 とにかく、長く働ける仕事に就きたかった。だが、「女性が一生続けられる職業」は、戦後、20年が経とうとも、まだ極めて限定されていた。

「女性が一生できる仕事といったら『教師』だろうと思いました。教育には、もともと興味があったので教職は取っていました。でも、そんな中で、NHKだけは受けてみようかと思ったんです。公共放送のNHKなら民間企業ではないわけですから、女性でも長く働けるはずだと思って」

「女が定年まで働くわけがない」という嘲笑

 NHKは職種によって入局試験が分かれている。記者か、ディレクターか、アナウンサーか、技術スタッフか。山根はアナウンサー枠で入局試験を受けた。

「女性は、まだディレクターではあまり活躍できないから、アナウンサー枠で受けたほうがいい、と助言されてのことでした。筆記試験や面接を終えて、3次試験まで進むことになり、カメラテストを受けたのですが、その時のことは今でも忘れられません」

「テレビスタジオで試験を受けるのですが、部屋にはカメラが据えてあり、私はあくまでもカメラに向かって話をする。5、6人の面接官は階上にある副調整室に待機していて、そこからマイクを通じて質問してくるのです。ですから、姿は見えません。面接官はもちろん全員が男性です」

「マイク越しに、『あなた、結婚はどうするんですか?』と質問されたので、私はカメラに向か って、『できればしたいと思います』と答えました。すると次に、『では、仕事はどうするんですか?』と聞かれました。『続けます』、『いつまで?』、そこで私は『定年まで』と答えました」

「そうしたら、その瞬間に、ドッと笑い声が起こったんです。私は、なぜ皆が大笑いをしているのか、まったく理由がわかりませんでした。別に面白いことを言ったわけでもないのに。しばらくして、ようやく理由がわかりました。つまり、面接官の男性たちは、私が冗談を言ったんだと思ったんですね。女が定年まで働きたいと言うなんて、冗談にしか聞こえない、そういう時代だったんです」

辞めようか真剣に悩んだ

 100倍の競争率を制して、1971(昭和46)年、山根はアナウンサーとしてNHKに入局した。東京での研修後、8月には大阪局に赴任。上司や先輩に「モトヨ」と呼び捨てにされてかわいがられた。毎晩のように、同僚と飲んで帰った。仕事は楽しく充実していた。だが、その頃から、山根は「自分はアナウンサーに向いていないのではないか」とひそかに悩んでいたと振り返る。

「原稿をよく、トチっていたんです、緊張して」。テレビニュースを読むようになるのは東京に異動後だが、その頃でもテレビカメラが怖くて、しょうがなかったという。

「当時はプロンプターがありませんでしたから、最初の3行ぐらいはニュース原稿を暗記して、テレビカメラに向かって話さなければならなかったんです。でも、それができなかった。カメラを見ながら同時に、あと何秒だと頭の片隅で考えながら話す。すると時間が気になって、何を話しているのかわからなくなってしまう。カメラに向かうと恐怖で顔が引きつるのが、自分でもわかりました」

 衣装も悩みの種だった。当時はスタイリストもいない。皆、自前だった。男性たちのようにスーツを着て出ればいい、というわけにはいかない。少ない給料の中から、テレビ映えするものを買わなくてはならなかった。一度、スーパーで化繊の黄色いワンピースを買い、それを着てテレビに出たことがあった。

 すると、男性の先輩職員に笑いながら注意された。

「そんな火をつけたら燃えるような服を着るんじゃないよ」

 それがこたえた。

「もちろん、冗談だとはわかっているんですが、その時は心が弱っていたせいもあって、とても落ち込んでしまって。出演者が男性ばかりだから、色のある服を着たほうがいいだろうと思って着たんですけれど。テレビの仕事に、とくにアナウンサーという仕事に、自分が向いていないように思えてならなかった。気持ちがどんどん落ち込んでしまい、早く辞めて転職したほうがいいんじゃないかと真剣に悩んでいました」

お茶汲みは「女」の仕事

 山根は、それまで家庭でも、学校においても、露骨な男女差別を感じたことはなかった。ところが、NHKにアナウンサーとして就職してから、まざまざと思い知らされることが、局内でも局外でも数多くあった。

「私は男女差別をNHKに入局して、というか入局試験を皮切りに、体験するようになったわけです。一番、強烈な思い出は、入局して間もない頃に男性ディレクター、男性アナウンサーと一緒に京都の造り酒屋に取材に行った時のことでした」

「造り酒屋の主人に取材をしていて、私も一緒にメモを取っていたんですが、そこへお手伝いさんのような方がお茶の道具をお盆に載せて入ってきた。そうしたら、その主人が『そこに置いてってや』とお手伝いさんに告げ、私のほうを向いて顎(あご)をしゃくると、こう言い放ったんです『あとはあんたやってや。あんた、そのために来てはるんやろっ』」

「私は、何も言えませんでした。女というだけで、そうやって見下される。当時は、そういうことが、当たり前のように横行していました。その時、男性ディレクターも、男性アナウンサーも、ひと言も庇ってくれなかった。だから、私は黙ってお茶を入れるしかありませんでした。だいたいNHKの局内でも、朝一番に出社してお茶を全員に配るのが、女性職員の仕事とされていた」

 組織の外だけではない。NHK自体が、圧倒的な男性社会だった。上層部には、もちろん男性しかいない。女性はアナウンサー職として、わずかにいるばかりだった。

今日は「女用のニュース」がない

「アナウンサーという仕事は外からは華やかに見えるだろうし、局の顔のように思われています。もちろん、チヤホヤされる側面もなくはないのですが、NHKという組織の局内意識としては、地位はそう高くはないんです。むしろアナウンサーやカメラマンっていうのは、組織内地位が不当に低かった。一種の専門職というか、技術職であって、記者やディレクターからは、少し見下されていました」

「ディレクターの中には、私たちアナウンサーに対して『俺たちが使ってやってる』という意識をあからさまに見せる人もいる。その上、女性となるとアナウンサーの中でも、また一段、地位が低くなる。つまり二重に差別されるわけです」

「ニュースはだいたい、年配の男性アナウンサーと若い女性アナウンサーという組み合わせで担当するのですが、まず、重要なニュースを読むのは男性で女性には読ませない。私もニュースを担当し始めた頃、男性のニュースデスクに、『今日はモトヨが読む、女用のニュースがないな』と、よく言われました」

「『女用のニュース』というのは、『どこそこで祭りがありました』とか、『桜が咲きました』とか、そういったもの。それは女用、つまり女性アナウンサーが読んでもいいニュースなんです。逆に政治経済、社会情勢といったニュースを読めるのは男性だけで、女性は読ませてもらえなかった」

「優遇」という差別

 同期のアナウンサーは30人。女性は山根を入れて2人だけだった。男性は入局と同時に全員が地方支局に赴任する。だが、女性は最初から東京、もしくは山根がそうであったように大阪、名古屋などの中央局がある大都市部に配属され、しかも、すぐに東京本局に戻される。

 その後は、ほとんど転勤がない。「同期の男性アナウンサーたちは、定年までに多い人で10回ぐらい、転勤を経験します。ですから、男性の同僚の中には、『女性アナウンサーは優遇されている』と不満を言う人もいました。私自身、長く男性たちに対して申し訳ない、という思いで過ごしてきました」

「けれど、後年、自分が組織を動かさなきゃならない立場になってから、この認識を改めた。『地方局に赴任しなくては学べないことがあったのに、私たち女性はその機会を奪われていたんだ。優遇じゃなくて、差別されていたんだ』と思うようになった」

「地方局というのは人数が少ないから、アナウンサーであっても、取材をしたり、番組制作に携わります。技術の人たちとも密に付き合う。つまり、地方局に赴任すれば、放送に必要なすべての知識を得ることができるんです」

「これが東京や大阪だと人数が多いので、役割分担がはっきりとしている。当時のアナウンサーには番組に対する提案権もなく、与えられた原稿を読むだけ、ディレクターが作り上げた台本に乗っかっていくだけでした。これでは放送の全体像は掴めない」

「組織を動かしていくキーポイントも、わからないで育つことになる。とても世間知らず、というか『組織知らず』になってしまうんです。だから東京、大阪、名古屋といった中央局勤務だけ、というのは優遇じゃなくて、実は女性に対する差別だったんだと思い至った。でも、そういったことに気づけたのは自分が管理職になってからのこと。入局して20年も経ってからです」(後編につづく)


筆者:石井 妙子