柏原竜二に学ぶ「絶対あきらめない心」【2】
3年生は多難な1年だった。
まずは右膝の故障に苦しめられる。10月の出雲駅伝(全日本大学選抜駅伝競走)は欠場、11月の全日本大学駅伝対抗選手権でも区間4位と振るわなかった。
故障に加え、気持ち的なものもあった。柏原は経済学部の学生であるが、学部は都内の白山キャンパスにある。鶴ヶ島から電車通学していたが、授業はきちんと出る学生だった。競技者である前にまず一学生でありたいと思ってきたからだ。
部活動は早朝と夕方の2度。通学の時間帯は朝練後の貴重な睡眠時間でもあるのだが、車中で、柏原さん、と声をかけられる。揺り動かされて起こされるときもあった。街中を歩いていても常に人の視線がある。3年生となると随分と顔が知られるようになっていた。知り合いに声をかけられるのは一向にかまわないのであるが、見知らぬ人に踏み込まれるのは苦手であった。
さらに、チームメートとの関係がしっくりいかない。エースランナーとは、頼られる存在である。過剰に頼られるとつい、「おまえさんたちも頑張れよ、人に頼んなよ」と思ってしまう。
それやこれや、いろいろとあったが、箱根駅伝の前には立ち直っていた。チームメートは自分の復活を待っていてくれた。「5区はおまえしかいない」と言われると、ここで踏ん張らないと男じゃないとも思った。
11年1月2日。3位でタスキを受け取る。1区から4区まで、必死につないで手渡されたタスキだ。前を行く東海大のランナーをとらえ、さらに先頭を行く早大のランナーを抜く。トップに立ち、ガッツポーズでゴールを駆け抜けたが、直後に倒れ込んだ。余力ゼロ、すべてを出し切った走りで、救護室へと運ばれる一幕もあった。
「一番きつかった箱根でした。途中で心が折れそうになって、もういいかな、と思ったりもした。でもここで諦めたらチームのためにも自分のためにもならない。逃げたら一生このままになってしまうと思って、ぎりぎり踏ん張って走っていました」
翌日の復路、東洋大は早大に僅差で逆転され、2位に終わる。3連覇はならなかった。個人的には満足できる走りではあったが、5区でもっと離しておけば……という思いが残る。チームが勝たないと充足感がない。駅伝は団体スポーツ。そのことをあらためて噛み締めた年だった。
柏原が4年生になる前、日本列島は「3.11」の激震に見舞われた。
この日、千葉県富津市で行われていた春の合宿が終了し、帰り道の車中、首都高速で猛烈な揺れを味わった。車は高速から一般道路に降りて鶴ヶ島へと向かったが、寮に辿り着いたころには夜になっていた。
福島地方は地震・津波にプラス、原発事故の災禍に見舞われた。メール・電話も途絶えがちで、家族の無事が確認できたのは4日後であった。いわき市は福島第一原発から離れてはいるが、かけがえのない故郷・福島が被った惨事。以降、募金活動、地元の物産PR展などに積極的に参加してきた。
夏、帰郷した際、被災地を歩いた。沈んだ空気のなか、被災者は苦しんでいた。この地で18歳になるまで育った。ランナー活動のなかでも故郷から随分と励ましをもらってきた。今度はこちらの番だと思う。
ネバリが福島の県民性ともいわれる。事実、自身にも負けず嫌いと諦めの悪さは人一倍ある。復興への道筋はいまだ不透明だが、ネバリがいまほど求められているときはない。自分なりにできることを果たしていきたいと思う。
※すべて雑誌掲載当時
