大正天皇の陵墓「多摩御陵」を目指した鉄道計画が3路線もあった 唯一実現した「京王電気軌道・御陵線」消えゆく記憶の軌跡
皇室の陵墓「武蔵陵墓地」(東京都八王子市長房町)の最寄り駅といえば、JR中央線と京王高尾線の「高尾駅」が知られるところだが、昭和初期の時代、大正天皇の陵墓「多摩御陵」を目指して計画された鉄道が3路線もあった。そのなかで唯一実現したのが「京王帝都電鉄(現・京王電鉄)御陵線」で、1931(昭和6)年3月から1945(昭和20)年1月まで、「御陵前(→多摩御陵前)」という駅が実在した。その御陵線は、先の大戦が激しさを増すなか、戦時物資として鉄材を供出させるため、政府の命により電車の運行をやむなく休止した。その後、約20年が経過し、1964(昭和39)年に復活することなく廃線を迎えた。路線の一部は、1967(昭和42)年10月に開通した京王高尾線へと生まれ変わったが、それ以外の区間は“都市計画道路”や高尾線建設用地の“換地”などとして処分された。計画から113年、廃止になってから62年が経過した今。御陵線の面影とともに、その歴史を振り返ることにしたい。
※トップ画像は、京王電鉄・高尾線の山田駅〜めじろ台駅間の車窓風景だが、このあたりから「御陵線」は右に逸れるように終点の御陵前駅を目指していた。2駅手前の北野駅からこの地点までは、御陵線の路盤(軌道敷)をそのままに転用した区間だ=2026年5月25日、八王子市山田町
多摩御陵を目指した鉄道3社3路線
大正天皇が1926(大正15)年12月25日に亡くなると、関東圏に陵墓が造られることになり、東京近郊にある御料地(皇室が所有する土地)のうち、皇居からもそう遠くない現在の八王子市にあった御料地の一部が、「陵墓地」として選定された。
今でこそ、“武蔵陵墓地(むさしりょうぼち)”の名で知られる皇室の陵墓だが、当時は「多摩御陵(たまごりょう)」と呼ばれていた。最寄り駅は、省線(鉄道省の路線)の浅川駅で、この駅は現在のJR中央線・高尾駅のことだ。当時、駅から多摩御陵までは、最短を行く道もなく、2km弱の道のりを歩かなければならなかった。そこで、大勢の参拝客を当て込んだ鉄道会社は、競って「多摩御陵」へと続く新規路線を計画した。
最初に名乗りを挙げたのは「京王電気軌道(現・京王電鉄)」で、出願は1927(昭和2)年1月8日のことだった。次いで、1月11日に「相模鉄道(現JR相模線の前身)」が、2月1日には「八王子電気鉄道(1929〔昭和4〕年に会社解散→武蔵中央電気鉄道へ譲渡)」の計3社3路線が、新線建設を願い出た。これでは、互いの路線が競合することになるため、許可を出す鉄道省が調整役となり、最初に出願した京王電気軌道に敷設免許(特許)を下付した。

JR高尾駅と武蔵陵墓地との位置関係を示した地図。高尾駅前に設置された周辺案内図より=2026年5月25日、八王子市長房町

武蔵陵墓地内にある大正天皇の多摩陵〔たまのみささぎ〕(左)と、貞明皇后の多摩東陵〔たまのひがしのみささぎ〕(右奥の鳥居)=2026年5月25日、八王子市長房町

京王電気軌道が計画した御陵線の当初計画線路図。開通時のルートとは異なっており、之には紆余曲折があった=資料/国立公文書館蔵

八王子電気鉄道が計画していた多摩御陵へと続く「下長房支線」の計画線路図。同鉄道浅川線の途中にある原宿停留所から分岐させる計画だった=資料/国立公文書館蔵

当時の相模鉄道(現JR相模線)が計画していた橋本駅〜八王子駅間の計画ルート図。この計画路線とは別に、橋本駅から八王子駅へと向かう現・横浜線の線形も見てとれる。多摩御陵へは、新線の途中から分岐する支線が描かれている=資料/国立公文書館蔵
紆余曲折あった御陵線のルート決定
京王電鉄の前身である京王電気軌道は、1926(昭和元)年12月に府中駅〜東八王子(現・京王八王子)駅とを結ぶ玉南電気鉄道と合併して、新宿駅〜東八王子駅と調布支線の営業運転を行っていた。その延長線として1927(昭和2)年1月に御陵線の軌道敷設免許を出願した。3社3路線が多摩御陵を目指していたことは前述のとおりだが、無事に免許が下付されたのもつかの間、路線のルートを巡って八王子市会の陳情という名の反対を受けてしまう。
東京府会議員らは計画ルートに賛成はしたものの、八王子市会議員らからは都市計画道路上に線路を敷設するのは問題ないが、専用線として新たに用地を占有すれば環境破壊や市民生活に及ぼす影響が大きいとして、反対を唱えた。結果、実地測量や設計もままならず、工事認可申請は1929(昭和4)年6月まで延期という事態となった。1928(昭和3)年5月以降、京王電気軌道と八王子市会との協議は幾度にも及び、同市会からは現在線の一部を廃止して、途中の長沼駅よりルート変更する案や、1929(昭和4)年3月には八王子市会で決議された線路変更案(八王子市最東端を通過)が提示されたが、京王側は工事費増大を理由にこれを受け入れなかった。
京王側は、1928(昭和3)年8月に最終的な開業ルートとなる「東廻り案」を市会に提示するも、市会側はさらなる希望条件(中央線とは計画よりも東で交叉し、さらに西側約150軒を通過し、萩原橋を立体交差するなど)を突き付けた。これには甚だ過大すぎるとして、京王側は受け入れを拒否した。そうしたなか、京王側では水面下で東廻り案(北野駅〜御陵前間)を推し進め、工事施工認可申請の準備に着手していた。
1929(昭和4)年5月、京王側は起点を東京府八王子市明神町から同府南多摩郡由井村に変更し、東廻り案を固持。府県道及び国道とは立体交差にするなど市側の反発を避ける策を講じて、ようやく翌1930(昭和5)年3月に「工事施工認可」を受けるに至った。軌道敷設免許の出願から計画決定まで、実に3年もの時間を費やした。

八王子市会から提案のあった現在線の一部を廃止して、途中の長沼駅よりルート変更する案と、同市会で決議された線路変更案(八王子市最東端を通過)が示された路線計画図=資料/国立公文書館蔵

旧案と東廻り案とで路線ルートが検討されたことがわかる計画図=資料/国立公文書館蔵
わずか14年で終わった電車の運行
京王御陵線が開通したのは、1931(昭和6)年3月20日。京王線北野駅を起点として西方へ伸びる線路は、御陵前駅までの全長6.477kmの単線路線として開業を迎えた。設けられた駅は、北野駅、山田駅、横山駅、御陵前駅の4駅であり、比企丘陵のなかを走るため「高原鉄道」と呼ばれたこともあったそうだ。沿線は畑地であり、名勝旧跡は片倉城址と御殿峠(ごてんとうげ)、終点の御陵前駅から西方500mの地点には多摩御陵(武蔵領墓地)の正門があると紹介されていたようだ。戦時中は、相当多数の疎開者が沿線に移住し、人口は増加したという。
御陵前駅は、1937(昭和12)年5月1日から「多摩御陵前駅」に改称、同じく横山駅も「武蔵横山駅」に改称された。1944(昭和19)年5月には、戦時下の合併施策により京王電気軌道は東京急行電鉄と合併し、御陵線は「東急御陵線」となった。
開通当初は、皇室陵墓へのアクセス線として皇室の方々の利用も見込んでいた。そのため、御陵前駅には貴賓室が備えられ、電車もトイレ付きの貴賓電車(500形)を準備していた。しかし、多摩御陵の参道に直結するように省線(鉄道省)の皇室専用駅である東浅川宮廷駅(仮停車場)があり、天皇・皇后・皇太后の三陛下は、鉄道省の御召列車のほか御料自動車を利用したため、京王御陵線に御召電車が走ったことはない。とはいえ、貴賓電車への皇族方の乗車は少なからずあったようだが、御陵線に乗車した記録は残されていない。

京王電気軌道の貴賓電車500形。皇族方の利用が見込めず、1938(昭和13)年に一般車へと格下げされた=資料所蔵/JLNA

開業当時の御陵前駅を写した絵葉書より。貴賓室は駅舎正面向かって右側にあった=資料所蔵/JLNA

御陵前駅停留場の平面図。図に見る駅舎の右側には駅前広場があり、その先に多摩御陵へとつづく参道が描かれている=資料/国立公文書館蔵

御陵前駅の平面図より。図中に見る「本屋」とは鉄道用語で駅舎の中心となる建物を意味する。図中の上側の居室名に「貴賓室」の文字が見てとれる=資料/国立公文書館蔵
政府の命を受け運輸営業休止
戦時中は、企業整備という名の政府要請(線路などの鉄材を戦時物資として供出)によって「不要不急路線」に指定された鉄道路線がいくつもあった。御陵線もその一つで、止むなく1945(昭和20)年1月20日から電車の運行を取りやめ、レールなどを取り外し供出した。休止後の8月2日未明には、八王子空襲によって多摩御陵前駅は被災し、消失した。この時、大正天皇の多摩御陵も一部被害を受けていた。
1948(昭和23)年6月には、大東急の解体により休止中の御陵線も京王帝都電鉄の所属となった。時を同じくして武蔵横山停留場(駅)付近の地元民からは「復活要望」の声があがったが、他の駅の地元民はあまり積極的に要望しなかったという。当時の東京陸運局の調査報告書には、御陵線の現状が記され、線路と駅舎はなく、橋梁その他復活する場合には取り替える必要があるので、新線敷設とほぼ同様の状況と書かれていた。
その後も“休止措置”は復活への望みをかけて延命措置がとられ、1951(昭和26)年9月、1953(昭和28)年9月、1955(昭和30)年9月と多年にわたり延期された。京王帝都電鉄は、「沿線の要望、御陵参拝客、高尾相模湖方面の行楽客の便を図るため、近い将来復活したいが、現営業線の整備未完成のため、これらの完成後に復活したい。」と休止延期の理由を述べている。
度重なる休止延期は、1957(昭和32)年9月、1960(昭和35)年9月にも許可され、1957(昭和32)年7月には京王帝都電鉄が復活計画を策定し、運輸省へ報告している。そこには、第1期=北野〜片倉間1.8km昭和35年着工、第2期=片倉〜多摩御陵前間4.6km昭和38年着工とあり、用地は全線にわたり確保、橋梁・橋脚は既存、橋桁は横山架道橋ほか1か所の橋桁を除く全部確保、築堤は若干の補修を要す、停車場は全部新築と書かれていた。しかし、思うように事は進まず、さらに1964(昭和39)年9月まで休止措置は延期された。復活着工も、第1期が1963(昭和38)年、第2期が1964(昭和39)年と繰り延べになっていた。
この当時の資料には、「復活計画路線図」なるものが存在し、北野0k000m、西北野0k800m、南八王子(片倉)1k840m、緑町2K500、小比企(山田)3K240m、散田4k050m 多摩横山5K020m、多摩御陵(東浅川駅至近)6k100m、浅川(高尾)7K140m、小名路8k100m、高尾口9k200mと、御陵線の一部区間を上書きするようにその後の高尾線の構想が記されていた。しかし、休止となっている御陵線の他の区間(武蔵横山〜御陵前間)が点線で描かれ、廃止を予見していたかのような書きぶりだった。
1963(昭和38)年3月になると、山田町〜高尾山口間4.91kmの地方鉄道免許申請が行われ、御陵線の復活が一歩前進したかのように思われた。残念ながらその申請内容には、「現在休止中の御陵線(北野〜多摩御陵前間)の再開をかねてより検討してきたが、八王子市の将来計画にあわせて旧路線を一部変更したい」とあり、新路線の駅名は北野停車場、京王片倉、(御陵線)旧山田駅、八王子台停車場(現・めじろ台駅)0k590m、狭間停留場2K140m、高尾停車場3k140m、高尾山口停車場4k910mと書かれていた。山田町〜高尾山口間の新線計画は、1964(昭和39)年6月17日付で敷設免許が下付された。
この高尾線計画を強く後押ししたのは、高尾線乗り入れに関する陳情を行っていた八王子市長らで組織する“京王帝都電鉄高尾線乗入貫徹期成同盟”であり、過去、御陵線の建設計画では嫌悪関係にあった相手方でもあった。御陵線の休止延期はその後、1966(昭和41)年9月まで行われたものの、御陵線の一部である北野〜山田町間3.8kmは、高尾線に振り替える区間として存置し、山田町〜多摩御陵前間の2.6kmは1964(昭和39)年8月に廃止することを申請し、同年11月26日付で正式に廃止することが決定した。
その廃止理由には、休止後20年が経過し、沿線住民はバス路線利用が定着しており、多摩御陵参拝客も年間30万人程度とバス輸送で充足できる状況にある。結果、廃止しても特に不便をおよぼすことはない、と結論づけられていた。廃線区間の残存物件(線路用地)は、都市計画道路への転用、高尾線建設用地の換地等として処理する方針が示された。

京王高尾線が計画当初のころの路線計画図。現在の線形よりも中央線寄りに計画されていることがわかる。そして御陵線の代替路線を意識した駅が記載されている=資料/国立公文書館蔵

新設される高尾線(申請線)が当初段階であった当時の路線略図。御陵線は休止中のままとなっていた=資料/国立公文書館蔵

御陵線の廃止が決定的となった高尾線の路線計画図=資料/国立公文書館蔵

御陵線の廃止申請書「地方鉄道運輸営業一部廃止許可申請書」。“一部廃止”としているのは、高尾線として生まれ変わる区間として御陵線が部分的に残るための措置だった=資料/国立公文書館蔵
廃線跡をたどる
御陵線(北野駅〜御陵前駅間)6.4kmのうち、北野駅起点から3.76kmまでの路盤(線路跡)は、京王高尾線へと転用されているため、御陵線時代の面影を感じ取ることはできない。御陵線の廃線跡として残される区間は2.64kmあり、そのうちの約1km弱は市道“山田町並木線”へと転用されており、鉄道遺構は何も遺されていない。まずは、京王高尾線と御陵線が別れる分岐点へと向かってみた。
その場所は、めじろ台駅と山田駅のほぼ中間に位置し、御陵線の路盤(線路)跡は山田駅を背にして高尾線の線路から右に逸れるようにカーブしていた。その一部は、宅地造成により取り崩されていたものの、部分的に雑木林と化していた。この場所には、京王帝都電鉄(現・京王電鉄の旧社名)の社紋が入った敷地境界杭がいくつも遺されていたというが、確認することはできなかった。

京王高尾線から分岐してカーブを描きながら廃線跡は手前に向かっていた=2026年5月25日、八王子市山田町

市道へ接近するあたりの廃線跡は雑木林と化していた。画像は分岐点側を見ているが、その反対側は住宅地と化しており、以前は敷地境界杭を見ることができたというが発見できなかった=2026年5月25日、八王子市山田町
その先は、住宅地と化しており、そこにも社紋入りの敷地境界杭が遺されていたらしいのだが、発見することはできなかった。住宅地の中を抜けていたであろう廃線跡は、200mほどで市道「山田町並木線」へと合流する。ここから甲州街道(国道20号線)との交差点に近い武蔵横山駅跡地までの間の廃線跡は市道と化しており、鉄道遺構は何も遺されていない。その途中にあるJR中央線とは、高架橋(中央線跨線橋)で超えていたのだが、廃線跡を転用した市道はアンダーパスする道へと生まれ変わっていた。

戦後撮影された御陵線の廃止区間(休止中)を示した空中写真(合成)=米軍撮影空中写真〔USA-R1779-80ほか合成〕国土地理院データに筆者加筆

このあたりから廃線跡(軌道敷)は、市道山田町並木線へと転用されており、鉄道遺構はなにも遺されていない=2026年5月25日、八王子市山田町

市道山田町並木線からJR中央線のアンダーパスを見る。ここも廃線跡なのだが、当時をしのぶものは何も遺されていなかった=2026年5月25日、八王子市散田町
甲州街道(国道20号線)と市道が交わる交差点は、以前は「散田」という地名であったが、現在は「並木町」と名を変えていた。その交差点の角地には高尾警察署並木交番があり、この場所の周辺こそが御陵線の「武蔵横山駅」(北野駅より5.457kmの地点)があった跡地だ。駅は相対式の2面2線で、盛土と高架橋が連なってできた構造となっていた。電車はそのまま、目の前にある甲州街道を高架橋(横山架道橋)で越えていた。

戦後に撮影された休止中の武蔵横山駅をとらえた報道写真。サン写真新聞1951年6月20日版5面より=資料個人蔵

写真中央の樹木の後ろあたりに「武蔵横山駅」があった。手前の道路は甲州街道(国道20号線)で、線路は高架橋(横山架道橋)で渡っていた=2026年5月25日、八王子市並木町
甲州街道を渡った先は、盛り土構造だったが、その跡地は平地になっており、駐車場や戸建て・集合住宅などが建ち並び、当時の跡形は何もなかった。その先にある南浅川の手前(北野駅から5.527kmの地点)から高架橋〔浅川橋梁/上路桁7連〕で南浅川を越えていた。その先の住宅地には、以前“ブラタモリ”でも紹介されたコンクリート製の橋脚が2基現存している。一時は解体の話もあったようだが、土地の所有者の方が街の歴史的建造物として残しておきたいと残置を決め、令和の今もその姿を後世に伝えている。
当時の資料によれば、御陵線の高架橋(鉄桁)は全線で31桁あり、横浜線跨線橋・起点から0.624kmの地点〔9.754m×下路桁1連〕、学校前架道橋1.6km〔4.572m×1連〕、片倉架道橋1.731km〔15.545m×下路桁1連〕、山田架道橋3.675km〔4.572m×1連〕、散田架道橋5.16km〔3.658m×1連〕、中央線跨線橋5.18km〔10.973m×下路桁1連〕、新地架道橋5.216km〔4.267m×2連〕、横山架道橋5.327km〔5.468m×8連、6,121m×1連、4.845m×1連、15.850m×2連、4.318m×4連〕、浅川橋梁5.527km〔16.459m×7連〕と記録されている。

戦後に撮影された空中写真より、南浅川〜武蔵横山駅周辺をとらえたもの=米軍撮影空中写真〔USA-R1779-80〕国土地理院データに筆者加筆

武蔵横山駅から甲州街道を高架橋で越えていた廃線跡は、正面に見える駐車場(元はガソリンスタンドがあった)を通って多摩御陵駅方向へと向かっていた=2026年5月25日、八王子市並木町

南浅川越しに武蔵横山駅跡(甲州街道)方向を見たところ=2026年5月25日、八王子市並木町

横山橋の上(横山311号線)から南浅川の上流方向を見たところ。御陵線はこんな感じで川を渡っていたのだろうか=2026年5月25日、南浅川に架かる横山橋

住宅街の中に遺された御陵線の2つの橋脚。ここには径間16.5mの鉄桁が架けられていた=2026年5月25日、八王子市長房町

浅川橋梁を支えたコンクリート製の橋脚=2026年5月25日、八王子市長房町

この橋脚は、もうひとつの橋脚と形状が異なっていた=2026年5月25日、八王子市長房町
橋脚遺構を過ぎて先へと進んだ住宅地には、軌道敷跡(路盤)に沿って建つ家屋が見られた。ここから先は都営長房アパートへと廃線跡はつづくが、造成によって鉄道遺構(軌道敷)は跡形もなくなっていた。そのまま歩を進めると終点駅「多摩御陵前駅」のあった場所へと出た。このあたりは、駅のホームが3線あったことから鉄道用地が広かったこともあり、道路は駅跡を示すかのような線形を保っていた。
当時の御陵前停留場平面図と現況配置を見比べると、だいたいの駅の位置が想像できた。駅のそばにあるお寺さんとの位置関係から、確信を得た。駅前広場側の交差点の角にある内科医院のある場所が、駅の入口だったところだ。駅跡周辺に碑石でも建っているのではないかと思い探してみたが、見当たらなかった。

いかにも鉄道らしい曲線を描く住宅の敷地。左奥の高層建物が都営長房アパート。廃線跡は、その方角へと進んでいた=2026年5月25日、八王子市長房町

朱書き線に沿うように軌道敷は存在していたのだろう。多摩御陵前駅のホーム端あたりから武蔵横山駅方向を見る=2026年5月25日、八王子市長房町

「御陵前停留場平面図」。ホームが3線あるため軌道敷が拡がっているのがわかる。駅跡地周辺の住宅地や道路も、同じような線形を描いていた=資料/国立公文書館蔵

多摩御陵前駅の駅舎が建っていたあたりを見る。面影はなにもなく言われないとここに駅があったことなど想像すらできないだろう=2026年5月25日、八王子市長房町

駅前広場の跡地に建つ内科医院。右側の道路に沿うように住宅地の中に軌道敷(線路)は存在していた=2026年5月25日、八王子市長房町

武蔵陵墓地から東浅川宮廷駅へとつづく参道と駅前広場跡地に建つ内科医院(右側)=2026年5月25日、八王子市長房町

多摩御陵前駅から参道を500mほど進むと武蔵陵墓地の正門に突き当たる。画像は正門から見た墓地総門=2026年5月25日、八王子市長房町
廃止から62年も経過していることを考えれば、そのことすら知らない人がいてもおかしくない時代である。散歩中と思しき年配の方に声をかけ、1964(昭和39)年ごろまで駅跡が空き地になっていた覚えはありませんか、と尋ねてみたが、50年前に越してきたのでわからないとのことだった。時代とともに忘れ去られし電車の面影はいずこへ。

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文・写真/工藤直通
くどう・なおみち。日本地方新聞協会特派写真記者。1970年、東京都生まれ。高校在学中から出版業に携わり、以降、乗り物に関連した取材を重ねる。交通史、鉄道技術、歴史的建造物に造詣が深い。元・日本鉄道電気技術協会技術主幹、芝浦工業大学公開講座外部講師、日本写真家協会正会員、NPS会員、鉄道友の会会員。
