実写版『ダンボ』今夜地上波初放送 ティム・バートン監督の挑戦心とほろ苦い評価
ウォルト・ディズニー・ピクチャーズ製作の『ダンボ』(2019年)は、ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオの名作アニメ映画『ダンボ』(1941年)の実写リメイク作品である。しかしその公開には、ほろ苦い印象がつきまとっている。
参考:ティム・バートン監督の実写映画『ダンボ』、『金曜ロードショー』で5月15日に地上波初放送
ディズニーの名作アニメの実写リメイク映画は、まるでラッシュのように、次々に企画が組まれることになり、そこからも優れた作品が生まれている。そんなラッシュの直接的な原因となったのが、『アリス・イン・ワンダーランド』(2010年)の大ヒットだった。それを監督として手掛けたのが、かつてディズニー社のアーティストであった、鬼才ティム・バートンだった。
だからこそ、人気作品『ダンボ』の実写リメイクで、ヒットメイカーだとされていたバートン監督が再登板するかたちとなったのである。しかし『アリス・イン・ワンダーランド』とは対照的に、興行面でも批評面でも、支持を得られないという結果になってしまった。なぜ本作・実写版『ダンボ』は、このようなことになってしまったのだろうか。
アニメ版『ダンボ』は、『白雪姫』(1937年)、『ピノキオ』(1940年)、『ファンタジア』(1940年)と、アニメーション業界で比類ない芸術を生み出してきたウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオからすると、比較的低予算かつシンプルに作られた一作だった。とはいえ、それでも圧倒的なクオリティであったことは言うまでもない。
大きい耳という特徴を持って生まれ、みんなから笑われる存在として、サーカスで芸を仕込まれてきた、ダンボ。まだ子どもなのにもかかわらず、最愛の母親から引き離され、寂しい思いをしながら、ネズミのティモシーに励まされて日々を生きていた。だがそんな大きい耳が、誰も予想をしなかった奇跡を呼ぶといった物語だ。
ダンボと、その母ジャンボや、ティモシーとの絆。意外な大逆転とカタルシス、そして『ファンタジア』と同じくサイケデリックな感覚を先取りしていた「ピンクの象」の幻想シーンなど、シンプルとはいえ、いや、それだからこそこれらの印象的な要素は、鮮やかに人々の心に残ったといえるかもしれない。
実写版は、そんなシンプルなストーリーに肉付けをし、背景を豊かにしているところが特徴である。第一次世界大戦や感染症の影響、巨大娯楽施設での興行などなど、そこには多くの社会的、歴史的事象が織り込まれることになった。それ自体は決して悪いことではない。
しかし、コリン・ファレル、エヴァ・グリーン、マイケル・キートン、ダニー・デヴィートなどの有名俳優が出演し、人間ドラマの部分が大きくなったことは、結果的に逆風となったように思えてならない。アニメ版は、愛らしいダンボと、おしゃべりなティモシーという名コンビが観客の共感を呼んでいたが、そんなティモシーの役割までが人間のキャストに代替されたことで、比較的感情移入がしにくい内容になってしまったのだ。
そもそも、まだ小さなダンボは、アニメ版でも喋らないキャラクターだった。だからこそ、側でダンボの気持ちをマシンガントークによって代弁してくれるティモシーが必要だったのだ。しかし、人間がこの演技を真似するのは、さすがに不自然だといえよう。これは、作品にリアリティを与えようとした試みが裏目に出てしまったと言わざるを得ない。
前述したように、アニメ版が支持されたのは、ビジュアル面というよりは、そこに深い共感を与えるキャラクターの力が存在していたからだ。もともと児童書を基にしたストーリーだけあって、単純で分かりやすい内容であっただけに、そこには強い引力が求められたはずだ。だが、本作における人間側の豊かな背景は、そんなシンプルな枠組みを飛び出し、全体を散漫にさせる結果になったといえる。
また、ティム・バートンらしい、陰影の濃いダークな雰囲気は、児童書のような明るい世界観とは食い合わせが悪かった。ここは、はじめから狂気が漂う内容であった『アリス・イン・ワンダーランド』とは異なる部分だった。だからこそ、『ダンボ』の世界観を拡張する必要があったのかもしれない。しかし、あの明快さを愛していた多くのファンに、本作のようなダークで陰影の濃い印象の映像や、CGによるリアルな質感のダンボの姿を提供するのもまた、大きなリスクであったと考えられる。
グリーンバックを利用した巨大セットを駆使した撮影は、作品に独特の閉塞感と非現実感を生じさせてもいる。だが、そうしたセットが、『アリス・イン・ワンダーランド』のようなファンタジックな方面で表現されるのでなく、どちらかといえばリアリティ寄りになってしまったことで、セットに巨費を投じた意味が薄れている印象がある。
残念なのは、あのピンクの象のシーンが、ストーリーから独立したかたちで登場した点だろう。これはおそらく、アニメ版での“子どもの飲酒”シーンを除外せざるを得なかった結果であることは想像がつく。だが、名シーンであるがゆえに本編で違ったかたちで登場させてしまったことで、何のための描写か不明瞭で、違和感が生まれてしまっているのは否めない。ここは、上手く脚色ができなかった部分だろう。
とはいえ、新しい魅力と奥行きを『ダンボ』に与えようとした挑戦心自体は評価すべきだろう。とくに、ティム・バートン作品に共通する“異形の哀しみ”といった要素は、キャラクターへの根本的な理解を増しているのは、確かではある。アニメ版では、ハリウッドと契約してスターになるといった展開が、ダンボの幸福として描かれているが、本作ではそれを“お仕着せのハッピーエンド”だと思わせるほどに、より妥当な結末を用意した。
この点は、他の実写リメイク同様に、ディズニーが時代とともに新たな社会的視点を手に入れてきた伝統を継ぐものであり、いま新たな作品を送り出す意義を生み出している部分だといえるのではないか。しかし、本作の総合的な出来自体について、ティム・バートン監督は大きく失望したと伝えられている。これにより、バートン監督はディズニーから距離を置き、次作の『ビートルジュース ビートルジュース』(2024年)まで、ブランクが生まれる要因になったのである。
一方で、同年に公開された実写版『アラジン』(2019年)は大ヒットし、ディズニーの実写映画化企画は持ち直した。そして、いまに至るまで、この種の企画が存続しているというのが現状だ。しかし、成功すれば失敗することもあるのが、映画の世界である。
そもそも、実写化企画が安定して生まれる原動力となったのは、ティム・バートン本人なのである。その才能が発揮できる場所にありさえすれば、間違いなく輝くことだろう。事実バートン監督は、その後ドラマ『ウェンズデー』シリーズを大ヒットへと導いている。その事実は、逆を言えば、適材を適所に置くこと、企画とのマッチングが、いかに重要であるかという結論にたどり着くのだ。
(文=小野寺系(k.onodera))
