織田信長は日本の「城」に何をもたらしたのか【新・戦国史】
織田信長の「城郭革命」とは何だったのか。「近世城郭の原点」と評価されることが多い、織田信長の安土城と、それ以前に信長が築いた三つの城から、革命の秘密に迫っていく。
科学×歴史で日本史上のターニングポイントを鮮やかに描き、大きな反響を呼んだNHKスペシャル「戦国サムライの城」の書籍化作品『新・戦国史 城から迫る乱世の終焉、泰平のはじまり』の第1章「信長の城郭革命」より、その一部を特別公開。
書影
日本における城の歴史は古く、戦国時代よりもはるか昔までさかのぼる。
ところが、このように「土の城」として誕生した日本の城は、江戸時代を目前にした戦国時代の数十年間を経てまったく異なる姿、「近世城郭」へと一変する。石垣、瓦ぶき、天守という大きく三つの要素を備えた城の誕生である。
近年の研究では、天下人・織田信長が築いた滋賀県近江八幡(おうみはちまん)市に位置する安土城こそが「近世城郭の原点」と評価されることが多い。じつは、この安土城がどのように誕生したか、つまりそこに至るまでの具体的な成立の過程はよくわからない部分が多かった。
なぜ日本の城は劇的な変化を遂げることになったのか。この章では、安土城が誕生する以前に信長が築いた小牧山(こまきやま)城、岐阜城、旧二条城という三つの城を中心に、最新研究を通して明らかになってきた近世城郭誕生の秘密に迫っていく。
水城跡と大野城跡の空撮写真(写真提供:太宰府市)
水城跡の土塁
大野城跡の土塁
信長は日本の城に何をもたらしたのか
近世城郭はいつ、どのように誕生したのか。この謎を解き明かす上で欠かすことのできない人物が、天下人の一人として知られる織田信長だ。一五三四年(天文三)、現在の愛知県に位置する尾張国(おわりのくに)に生まれ、一五六〇年(永禄三)の桶狭間(おけはざま)の戦いで「海道一の弓取り」(東海道一の猛者)と呼ばれた戦国大名、今川義元を打ち破ったのを機に、一代にして急速に勢力を拡大した、言わずと知れた風雲児である。
桶狭間の戦いで自らをはるかに上回る軍勢に勝利を収めたのみならず、その後も破竹の勢いで、姉川の戦い、比叡山延暦寺の焼き討ち、長篠の戦いといった数々の戦において敵を打ち破ったことから、軍事の才に長けた人物として評価されることが多い。
しかし、この信長には城づくりにおいても特異な一面があった。それが、生涯を通じて複数の城を築き、居城を移し変えていったという点である。この時代、守護大名や戦国大名と呼ばれる者たちは、基本的に一つの拠点を構えれば、そこから動くことはほとんどなく、信長のように次々と居城を移すのは非常に珍しい行為だった。
ここで、信長がどのような城を居城としたか確認しておこう。まず信長が誕生した城は、近年の有力な説によれば、愛知県稲沢(いなざわ)市から愛西(あいさい)市にまたがる地域に存在した勝幡城(しょばたじょう)とされている。これは信長の祖父、織田信定によって築かれた。続いては、愛知県名古屋市に存在した那古野(なごや)城。のちに徳川家康によって築かれる名古屋城と同じ場所にあったとされ、信長の父、織田信秀が敵から奪ったものである。
そして、信長が家督を継いだ後に移ったのが、愛知県清須(きよす)市に存在した清須城。これも守護代である織田信友から奪ったもので、大きく手を加えて居城としたが、信長が自ら築いた城ではない。
信長の居城があった場所
以上のことを念頭に、本書では、考古学・文献史学・建築史学など、分野の垣根を越えた最新研究をもとに導き出されつつある「近世城郭誕生の秘密」に新たな光を当てることを試みたい。
様々な城跡で現在進められている調査のドキュメントに加え、取材班が専門家の協力を得て独自に行った再現考古学的アプローチによる実験や科学調査、さらには海外の研究者による成果もふんだんに盛り込み、できる限り多角的な視点から実像を浮き彫りにしようと努めた。
一方で、「近世城郭」をどのように定義するかは、専門家によって意見が分かれているところでもある。本書は専門家への取材をもとに、石垣、瓦ぶき、天守という大きく三つの要素を備える城を「近世城郭」と定義しているが、江戸時代以降、様々な理由で天守が築かれなかった城は多く、それらも近世城郭に含むべきといった指摘も存在する。
本書の定義は、あくまで近世城郭が確立された一つの到達点を示すものであり、その後、天守を持たなくなった城を近世城郭ではないと除外する意図はないことをあらかじめご理解いただきたい。
なぜ私たちが暮らす日本という国は、今のような平和な社会を築けたのか。日本独自の都市景観はいかに生まれ、発展してきたのか。遠い戦乱の時代を駆け抜けた人々の足跡と、先人たちが切り開こうとした新たな時代の姿──それらに迫ろうと奮闘する研究者たちの挑戦を通じて、近世城郭の誕生という日本史上のターニングポイントに、少しでも思いを馳せるきっかけとなれば幸いである。
姿を現した「石の要塞」小牧山城
では、信長が居城として初めて築いた城はどこか。それは、愛知県小牧市に位置した小牧山城とされている。桶狭間の戦いで今川義元を打ち破り、勢力拡大を図っていた時期に、現在の岐阜県に位置する美濃国(みののくに)を治めていた戦国大名、斎藤氏を攻略するための拠点として、一五六三年(永禄六)、標高八五・九メートルの小高い山の上に築いた。
小牧山は標高二〇メートルほどの洪積台地(こうせきだいち)の上に、古生代に堆積した地層が浸食されずに独立した丘として残ったもので、周囲に広大な濃尾平野が広がっているため視界が開けており、現在も山頂からは美濃方面を一望することができる。
濃尾平野が一望できる小牧山。山頂部分に立つのは、天守を模した小牧山歴史館
この小牧山城では、小牧市教育委員会を主体として、二〇〇四年(平成一六)度から約二〇年間にわたり継続して発掘調査が行われ、その結果、相次ぐ新たな発見によってそれまでの通説を覆してきた。数ある発見の中でも、研究者たちの大きな注目を集めたのが、大量に出土した「石垣石材」。要は石垣を築くために用いられた石である。
そもそも織田信長によって城が築かれる以前の小牧山が、どのような姿をしていたのかについては、史料に記録が残されていないためよくわかっていない。昭和から平成にかけて行われた発掘調査で石器や陶器片などの出土物が発見され、旧石器時代から室町時代までを通じて、細々と人々の営みがあったことは確認されたが、この時点では、その後の時代に関する出土物は見つかっていなかった。
そのため、信長が築いた小牧山城は、平成以降の発掘調査が行われるまで、斎藤氏が治めていた美濃方面を攻めていくための一時的な拠点と考えられていた。ところが、大量に出土した石垣石材によって、それまでの簡易的な城という認識は大きく改められることとなる。
信長に仕えた家臣、太田牛一(おおたぎゅういち)が記した信長の一代記である「信長公記(しんちょうこうき)」には、小牧山城に関する記述が残されている。次の文章は、原文から小牧山城への居城移転にかかわる部分を抜粋し、現代語訳にしたものだ(以下、「信長公記」の現代語訳はすべて、『現代語訳 信長公記』中川太古訳、新人物文庫、二〇一三年より引用する)。
信長は今度は「小牧山(こまきやま)に移ろう」と言い出した。小牧山へは麓まで川が続いており、家財道具を運ぶのに便利な土地である。皆わっと喜んで、移転をした。
この記録を見る限り、信長が家臣団とともに清須から小牧へと移転する以前に城が存在した様子はなく、発掘調査の成果を踏まえれば、信長が初めてこの地に石垣を張り巡らせた城を築いたことは、ほぼ間違いないと考えられる。
発掘調査で出土した石垣石材で復元された小牧山城の石垣
小牧山城の発掘調査を担当する小牧市教育委員会考古学専門員の田中芳樹さんは、出土した石垣石材が小牧山城の先進性を表す重要な遺物だと分析する。
「発掘調査が行われる以前から、小牧山では石垣が露出していたのですが、いつの時代の石垣なのか、わかっていませんでした。それが、試掘調査をしていく中で信長の時代につくられたことがはっきりとしてきました。近世城郭になると、石垣が使われるようになりますが、小牧山城はその初めの段階の城と考えられます」
「土の城」から「石の城」へ
近世城郭が誕生する以前、日本の城は自然の山を削ったり土を盛ったりして、堀や土塁を築き上げる「土の山城」が一般的だった。代表的なものとして、新潟県上越市の春日山(かすがやま)城や静岡県三島市の山中(やまなか)城などが挙げられるが、いずれも城の土台は山の地形を利用してつくられている。建物も簡素で手間のかからない板ぶきの櫓(やぐら)や城門などで構成されていた。これは、戦うために最低限必要な労力で築き上げることを目指した、日本の城の一つの到達点だった。
山中城跡の障子堀。堀の底に土を残して、部屋を区切る「障子」のように区画を設け、敵の侵入を制限する構造になっている
そのため、小牧山城が築かれた一六世紀半ば、石垣は畿内の一部の寺院や城で採用される程度に過ぎず、極めて珍しかった。ちなみに、最も早い時期に石垣を使い始めた城として知られているのは、大阪府四條畷(しじょうなわて)市と大東(だいとう)市にまたがって存在する飯盛(いいもり)城。畿内に勢力を誇った戦国武将、三好長慶(ながよし)が一五六〇年(永禄三)一一月、大阪府高槻(たかつき)市にあった芥川山(あくたがわさん)城から拠点を移した城である。
飯盛城跡の石垣
この飯盛城は、二〇一五年(平成二七)度から、大東市と四條畷市が本格的な調査を開始。航空レーザー測量や発掘調査が実施され、全国的に見て早い段階で石垣を用いた山城として、規模や構造の詳細が明らかになっている。こうした最先端の城と比較してみても、小牧山城に石垣が採り入れられたのは、わずか数年の違いしかなく、かなり早かったことがわかる。
一方、小牧山城跡で出土した石垣を調べてみると、高いところでも最大三・八メートルほどしかない。時の経過とともに一部が崩れるなど、実際はもう少し高かった可能性はあるが、のちの時代に築かれた近世城郭の石垣と比較してみると、小牧山城の石垣ははるかに低いものだったことがわかる。例えば、築城の名手として名高い戦国武将、加藤清正が築いた熊本城では約二五メートル、信長の後を継いで天下統一を果たした豊臣秀吉が築き、江戸幕府二代将軍、徳川秀忠が築き直した大坂城では約三二メートルである。
また、小牧山城の石垣は「野面積(のづらづ)み」と言われる積み方で、自然のままの石をほとんど加工せず積み上げており、形状の異なる石が使われているため隙間も多い。一方、のちの時代の城では、「打ち込み接(は)ぎ」や「切り込み接ぎ」と言われる積み方が行われるようになる。
後者の積み方では、石を加工して形状を揃えることで隙間をなくすため、足がかりとなる部分が少なく、城を攻めようにも石垣を登ることが容易ではない。つまり、「野面積み」の小牧山城は、石垣によって防御面の大きな恩恵を受けていたわけではないと考えられる。
戦わずして勝つ「見せる城」
では、それにもかかわらず信長が石垣を小牧山城に採り入れたのはなぜだろうか。石垣の役割として一般的に知られているのは、石の隙間を利用した排水機能だ。土の中に溜まる雨水などの水分を効果的に排出することで、強固な地盤をつくり出す。実際、小牧山城の山頂部では、石を組んでつくった排水用の枡が確認されており、信長が水による地盤の弱体化を気にかけていた形跡がうかがえる。
一方で、小牧山城の山頂部分には、現在、天守を模した小牧山歴史館という建物が立っているが、築城当初はまだこうした天守のような重量のある建築物は存在していなかったとみられる。つまり、石垣は強固な地盤をつくり出すことだけが目的だったとは考えにくい。
二〇二五年(令和七)二月、取材班は小牧山城の石垣の実態を明らかにすべく、発掘調査を行う小牧市教育委員会の協力を得て、最新の3Dスキャン技術を用いた小牧山全体の三次元計測に挑んだ。
小牧山の広さは東西約六〇〇メートル、南北約四〇〇メートル、面積は約二一ヘクタールに及ぶ。無人航空機ドローンと歩行による地道なデータ収集を行った後、小牧山に生い茂っている木々や建築物をデータから取り除き、発掘調査によって明らかになった石垣を専門家の監修のもと復元。信長が居城としていた当時の小牧山城の姿を3DCGでつくり上げた。
ここでポイントとなったのが、石垣の「見え方」である。小牧山城の石垣は一段一段が決して高くはないが、山の下から見上げると、石垣が一つにつながって、まるで高い石垣がそそり立っているように見えるのだ。
小牧山城では、高い石垣がそそり立っているように見せたことがわかる
日本の城郭研究の第一人者で、史跡小牧山整備計画専門委員会の委員を務めてきた滋賀県立大学名誉教授の中井均さんは、ここから信長の込めた真意が読み取れると言う。
「四メートルほどの石垣を積むとセットバックして、また四メートルぐらい積んでセットバックしてと、このように二段、三段と積んでいます。これは技術的な限界を示すものでもありますが、一方で、高い石垣を築いたのと同様の視覚効果を生み出しています。要するに、『見せる』ということを信長は意識していたのでしょう」
この続きは『新・戦国史』でお楽しみください。本書は以下の構成で、信長から家康へと続く城郭革命の実像を描き、「近世城郭誕生の秘密」に迫ります。
第1章 信長の城郭革命
第2章 令和の大調査で迫る安土城
第3章 消えた安土山図屛風と大航海時代
第4章 秀吉が残した慶長の築城ラッシュ
第5章 家康の国づくりと名古屋城
第6章 巨大城郭がもたらした技術・社会変化
第7章 「泰平の世」はいかに到来したか
NHKスペシャル取材班
最新の発掘調査と科学的分析から近世城郭の誕生に迫った、NHKスペシャル「戦国サムライの城」の制作チーム。同番組は、信長から家康へと続く城郭革命の実像を描き、大きな反響を呼んだ。
※刊行時の情報です
