グループ売上約8000億!被災地から復興支援を続ける“アイリスオーヤマ” :読んで分かる「カンブリア宮殿」
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累計8億食の大ヒット!〜コメビジネスの舞台裏
東京・狛江市のホームセンター「ユニディ」狛江店に並ぶ国産米「和の輝き」。値段は5キロで税込3980円。今、5キロで4000円以下はお買い得と、次々に売れていく。試食販売も実施しており、「甘みがあっておいしい」と好評だ。

このコメを仕掛けたのがアイリスオーヤマ。アイリスオーヤマといえば、他にはないアイデアを取り入れた「なるほど家電」が有名だ。
他にもマスクから家具まで約3万点の商品を扱う生活用品メーカー。グループ売り上げは8000億円に迫る。
アイリスオーヤマが農家などから玄米を仕入れ、精米している宮城・亘理町の亘理精米工場を訪ねた。中は15℃以下に保たれ巨大な冷蔵庫のような状態になっている。
「一般的には45℃で精米するのですが、熱で劣化する。これだけの低温管理はなかなかできない。難しいです」(「アイリスアグリイノベーション」佐久間佑一)
低温保存で劣化を防ぎ、さらに低温での精米技術を開発。甘みを通常の精米より多く残せるようになった。
おいしいコメを使ってアイリスオーヤマではさまざまな商品を作っている。その一つがパックごはん「低温製法米のおいしいごはん」(1880円/10食パック)。2分で炊き立ての香りになり、累計8億食が売れた大ヒット商品だ。

これまで手を出してこなかった食品事業に乗り出したアイリスオーヤマ会長・大山健太郎(80)は、そのきっかけをこう語る。
「あの東日本大震災で『東北復興を目指そう』と。東北の主力はコメだから、全国、海外にまで普及させたい」(大山)
2011年3月11日の東日本大震災。観測史上最大となるマグニチュード9.0を記録し、死者・行方不明者は2万人を超えた。
仙台に本社を構える東北の企業アイリスオーヤマも被災。工場などで被害は大きかったが、それでも大山は復興支援に乗り出した。
農家の危機を救う〜新ビジネスで復興支援
〇未来を作るトップの決断1〜ビジネスを育てて長期支援
亘理町で先祖代々、農業を営んできた渡邊通さん。農地は海から3キロほど離れていたが、津波が押し寄せてきた。「海水をかぶると農地は再起不能です」と言う。農機具も海水をかぶり駄目になった。だが、「先祖代々の土地を守らないといけない。立ち直ろうと決心しました」。
渡邊さんのような農家の窮状を見て、大山は精米事業を始めた。震災から2年後の2013年、80億円をかけて精米工場を建設。農家が安心して作れるように、売りたいコメの全てを買い取り、低温精米で「おいしい付加価値」をプラスして販売した。
渡邊さんは補助金で土壌改良し農業を再開、2015年にアイリスオーヤマと提携した。価格も相場より高く買い取ってくれるという。
「大満足でアイリスオーヤマさんに全量を出荷している。感謝しています」(渡邊さん)
渡邊さんは農業の規模を広げ、農地は震災前の2倍近くになった。
こんなやり方で大山は地元と向き合い、企業ができる復興に尽力している。
「赤字で苦労しましたが、おかげさまで10年で累積損失がなくなって黒字になりました。我々は事業家ですから具体的なことを一歩一歩やりたい」(大山)
売り上げが28倍に!〜地元のリーダーを育成
〇未来を作るトップの決断2〜地元を立て直すリーダーを育成
被害の大きかった町の一つ、気仙沼市。街は津波に飲み込まれたが、15年が経って建物や道路も復旧、震災の爪痕も消えつつある。三陸自動車道や防潮堤もできた。
だが、「空地が増えて何も建たない。水産業も下火で仕事がない」という声も。事業を再開したものの、取引先が戻らず廃業した水産会社もある。以前の活気は戻っていない。
こうした厳しい状況を見越して、大山が震災の2年後に始めたのが、自ら塾長を務めた経営者を育てる「経営未来塾」だ。そこでは、以前の規模に戻すのではなく、一歩上を行く経営者への道を指導した。大山は塾生に「ピンチがチャンス。東北が明るくなれば日本が明るくなるという信念で頑張っていただきたい」と、声をかける。

カンブリア宮殿は8年前の2018年、この塾の卒業生を取材していた。水産加工の千葉豪さん、漁師の藤田純一さん、仲買の吉田健秀さん。自宅を流された3人がチームとなって「さんりくみらい」という会社を立ち上げたのだ。
「大山社長(当時)に『お前たちが組んだら面白いことができるから組んでみなさい』と言われました」(藤田さん)
「大山社長の一言がなかったら一緒に会社をやっていないと思います」(千葉さん)
3人は「極上市場」というショッピングサイトを開設。消費者に海産物を直接届けるビジネスを始めた。
今、社長を務める藤田さんは、震災後に買い直した船で、毎朝、海に出ている。
向かった先はワカメの養殖場。ミネラルが豊富な海で種から育てている。ワカメは注文が入ってから収穫し、鮮度抜群の状態で全国に送っている。

「この10年で一番品質がいい。気仙沼の人と同じ環境で東京や関西で食べられます。リピータ―も増えています」(藤田さん)
直販が人気となり、藤田さんはワカメの養殖場を震災前の1.5倍に広げた。
一方、気仙沼市魚市場へ仕入れに向かったのは水産加工の千葉さんと仲買の吉田さん。チームを組んだことで、仕入れから加工・販売と、一気通貫でできるようになった。
「私が一生懸命買ったものを千葉がボイルして製品化しています」(吉田さん)
この日の目玉は巨大なミズダコ。加工場で活締めにし、さばいて作るのはタコの唐揚げ。これを冷凍にし、スーパーの「サミット」などに惣菜用として卸している。
この8年で業務用の取引も増え、「さんりくみらい」の売上高は28倍になったという。
大山仕込みのビジネスの種が東北各地で育ち、今、花開こうとしている。
「この15年間は一瞬でした。ため息をついたら15年たったくらいがむしゃらに走ってきた。今後の15年も一瞬だと思うから、63歳になるまで何ができるか。水産業で子どもや孫の世代に残るようなことをしたいなと思っています」(藤田さん)
経営危機から大逆転〜変幻自在ビジネス
アイリスオーヤマの本拠地・仙台。大山は街の新名所を訪ねていた。自らが提案した約1万5000個のLEDがきらめくストリートだ。幻想的な空間が150メートルにわたって続く。

「心が楽しくなるじゃないですか。仙台が活性化すると思っていました」(大山)
そんな大山の半生には大きな試練が何度も立ちはだかってきた。
アイリスオーヤマの前身は1958年に大山の父・森佑が大阪で起こした町工場。下請けでプラスチック成形を手がけていた。その父親が急死し、大山は19歳の若さで家業を継ぐことに。理不尽な値下げの強要などもあり、大山は下請けからの脱却を目指す。
そこで作ったのが農家のための道具。当時、田植えに使う苗の箱は重い木製だったが、軽いプラスチック製の育苗箱を作り、1970年に売り出した。するとこれが大当たりする。
「つくったら売り上げが倍々に上がる。26歳で宮城県に工場をつくりました」(大山)

しかし、順調に成長したのも束の間、1973年にオイルショックが起こる。苗の箱は値崩れし、資金は枯渇。会社は経営危機に陥った。
「このまま続けると倒産するからリストラをせざるを得ない。自責の念が非常に強かったです」(大山)
大山は大阪の工場を畳み、もう一つの工場がある宮城県に移った。一からの出直しだったが、このピンチにアイデアがひらめく。
1989年新たに開発したのが押し入れの中で重ねて使う収納ケース。透明なタイプを作り、中に何を入れたかが分かるようにした。これが大ヒットし、アイリスオーヤマは生活用品メーカーとして躍進していく。
「困った時に知恵が出る。火事場のばか力で今までの考え方とは違うアイデアが出るわけです」(大山)
そんな大山がギリギリまで追い詰められたのが東日本大震災だった。
日本の危機に立ち向かう〜未来をつくるトップの決断
震災当日は千葉県にいた大山は、2日後、なんとか仙台に戻ったが、本社や宮城・角田市にある工場は大変な状態に。あちこちが損壊し、商品を出荷できなくなった。

しかし、その中にはカイロや毛布など被災者に届けたい商品もある。社員にすぐに復旧作業に当たってもらうべきか、大山は決断を迫られた。
「自分の家が流された社員もいる。仕事を優先させるのは気が引ける。非常に悩みました、『どうするか』と」(大山)
震災から3日後の3月14日・月曜日、大山は「誰も出社していないかもしれない」と思いながら角田工場へ向かった。しかしそこには約400人もの社員が、何か役に立てることはないかと集まっていた。
「半分の社員が、被災しても集まったのは勇気になりました。我々の力で何とかしようという気持ちが沸々と湧いてきた。感動しました」(大山)
この光景を見た大山は、社員たちに向かって「家族が心配だろう。しかし、私たちの商品を届けることが東北の復興になる。企業には企業にしかできない役割がある。未来を見据え、前に進むことだ」と宣言した。
元工場長の倉本直樹は今もその時の言葉を覚えている。
「『困っている人たちにお届けするのが我々の使命だ』という話に感激して、やらねばならないという使命感を感じました」(倉本)
復旧作業が困難を極めた場所もあった。例えば商品を自動的にピックアップする巨大倉庫。商品がレールの上に散乱し、台車が動かせない状態に。しかも停電で真っ暗。懐中電灯の灯りを頼りに、商品を取り除いていく。
「余震のたびに『避難しろ、余震だ』と言って下に隠れる。余震がおさまったらまた作業をする。一刻も早く商品を届けるという思い一つだけでした」(物流本部・矢澤裕幸)
数日後、電気が戻り、高さ30メートルのクレーンも動くように。スタッフは命綱をつけてクレーンに乗り、高所の棚に登って、散乱している商品を一つ一つ片付けていった。
結局、2週間がかりで自動倉庫は復旧。カイロや毛布などを届けることができた。
さらに大山がいち早く決断したのがLED照明の増産だ。当時は、まだ普及しておらず、アイリスオーヤマも細々と作る程度だったが、「福島第一原子力発電所で水素爆発が起きて日本の原子力発電所が止まった。電気の無駄遣いをやめようと」(大山)。
蛍光灯をLED照明に変えれば半分の電力で同じ明るさにできる。震災から10日後、大山は中国へ飛んだ。トップ自ら緊急性を伝え、LEDを5倍増産するよう指示した。
実はアイリスオーヤマの工場では、需要の変化に対応できるように常に空きスペースを確保している。このスペースを使い、約1カ月で増産体制を整えた。

「他社より早く決断して早く投資することで半年、1年早く出せる。それがお客様にとってみれば『助かった』と」(大山)
電力が逼迫(ひっぱく)する中、増産したLEDは一気に普及していく。アイリスオーヤマがこれまで販売したLEDによる節電効果は440万キロワット。これは100万世帯の1年分以上の電力量に相当する。
覚悟の行動を取った社員&被災した若者の成長物語
アイリスオーヤマが運営する気仙沼市のホームセンター「ダイシン」気仙沼店。震災の直後から客が押し寄せたため、当時店長だった吉野毅さんはすぐに店を開け、本部と連絡がつかない中、解雇も覚悟で満タンだった灯油を無料で配った。
「当時は寒くて雪も降って、現金を持っている人が少なかったので無料で配ろうと。無料にすると200万円以上の損害になるので、配る前に娘に『父さんは借金するから進学を諦めてくれ』と言って、やりました」(吉野さん)
燃料の流通もストップする中、うわさを聞きつけた人たちがやって来て、約2500人に配布した。実際に灯油をもらったという人は「もらえなかったら、しんどかった。寒いのにストーブもたけないからありがたかったです。いまだに忘れないですよ」と言う。
後日、吉野さんは大山に言われた。
「『吉野、よくやった』『それがいつも言っていることだ』と褒められました。『200万円や300万円、気にするな』と。本当に感謝です」(吉野さん)
アイリスオーヤマには被災後、入社した社員も多く働いている。
ペット事業部・雫石きらりもその一人。石巻で被災し自宅は全壊した。当時はまもなく高校3年生。就活しようとしていたが、それどころではなくなった。
「求人が来るのかもそうですし、『これからどうしよう』と悶々と考えていた」(雫石)
そんな時に見つけたのが、アイリスオーヤマが始めた被災者の特別採用枠だ。自宅を失ったり、親を亡くしたりした高校生を対象に30人を追加採用することにしたのだ。
「就職先が減るのではないかと思っていたので、感謝しかないと今も思っています」(雫石)
アイリスオーヤマで働いて14年。今、雫石はペット事業部のリーダーになった。
雫石は震災で、飼っていた犬と猫を津波に流されている。そんな経験から開発したのが「ペット用防災セット」(4378円)。普段は小さく畳んでおける餌皿や、真ん中に穴の空いたアルミシート。ケージに被せれば中が暖かくなる。

この防災セットは800店舗(ネットショップを含む)で販売。心細かった女子高生は立派に成長していた。
「震災当時に感じていた『誰かのために働きたい』『受けた恩を返したい』というのが、やっと少しずつできるようになってきたかなと思っています」(雫石)
※価格は放送時の金額です。
〜村上龍の編集後記〜
3回目の登場だった。2回目は「家電メーカーになったんですか?」というのが質問の中心だった。だが、LEDを開発して、その2年後に東日本大震災が起こる。震災直後、全国のホームセンターに連絡し、店頭の自社製品を買い戻す。そうしないと必要なものが入手できなかったからだ。メーカーと問屋の機能を併せ持つ「メーカーベンダー」だったというのが決め手だった。そして低温製法で精米したお米を「パックごはん」として売った。今や約8000億円の企業に成長しているが、ユーザーのためという思想に貫かれている。
<出演者略歴>
大山健太郎(おおやま・けんたろう)1945年、大阪府生まれ。1964年、大阪府立布施高校卒業。同年、父急逝のため大山ブロー工業所を継承。1971年、法人化に伴い大山ブロー株式会社代表取締役就任。1991年、アイリスオーヤマに社名変更。2018年、代表取締役会長就任。
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