『ばけばけ』が訴える“中庸”の大切さ “日に日に世界が悪くなる”いま向き合うべき朝ドラに
〈日に日に世界が悪くなるーー〉。ハンバート ハンバートによる『ばけばけ』(NHK総合)の主題歌「笑ったり転んだり」の歌詞が、いよいよ現実のものとなってきた。
参考:“柄本兄弟”がNHKドラマで重宝される理由 『ばけばけ』『光る君へ』などで存在感放つ
1月14日に世界経済フォーラム(WEF)が発表した2026年版の報告書によれば、今年は「経済対立」「国家間の武力紛争」「社会の二極化」の年になるだろうとの見立てだ。
世界情勢に呼応するように、私たちの身の回りに目を向けただけでも、分断と対立がはびこり、人々がやたらとギスギスしているように感じられてならない。
そんな2025年から2026年にかけて放送される朝ドラが、この『ばけばけ』であることが感慨深い。
本作を制作するにあたっての心構えを、制作統括の橋爪國臣氏はこう語っていた。
「現代は極端な意見が増え、分断した世の中になっていたりするわけですけど、そうじゃない視点を持った人たちの生き方が裏テーマとしてあったらいいなと思いました」(※)
『ばけばけ』は、人間の光でも闇でもない部分を映し出している。登場人物に完全なる善人も、完全なる悪人もいない。誰もが不完全で、どこかが欠けている。そんな彼らがそれぞれのあり方で明治の世を生きる姿を、誰も、何も断じることなく、できるだけありのままに描いている。
白か黒かで切り分けられない、人物の複雑な感情が表現されている。作り手が何らかの一方的な「正義」に偏らない。視聴者に「正解」を押しつけない。極力説明的な台詞や表現を省き、ふくよかな行間を残して、観る者が「感じて、考える」作劇になっている。
物語後半に突入した『ばけばけ』を観て、このドラマは「中庸」の大切さを訴えているのだなと、ますます感じる。もちろん制作側がそれを声高に表明したことは一度もないのだけれど、映像の中にそのメッセージが託されている気がしてならない。
ここで言う「中庸」とは、「普通」という意味ではない。「中庸」とは、どちらか一方に偏らず、傾かないこと。物事や世界を広く見渡し、世の中にはいろんな人がいて、いろんな考え方があるのだと知ること。そして、それぞれ違っていいのだと認めること。極端な考えに引きずられず、自分の目で見て確かめて、思慮することを忘れないこと。こうした意味での「中庸」を目指して調和を保つことが、二極化と分断が進む今の世の中、必要とされているのではないだろうか。
『論語』の中で、孔子はこのような言葉を残している。
「中庸の徳たる、其れ到れるかな。民鮮きこと久し」
中庸、すなわち偏りがなくバランスの取れた思考を持ち続けることは、このうえない徳である。しかし、これを実践できる人がいなくなって久しいーー。2500年以上前の思想家の言葉が、まさに現代に響いてくる。加えてこれは、明治時代を中継地点として、令和の視聴者に向けて発信される『ばけばけ』にそっとしのばされた「裏テーマ」ではないかと思うのだ。
そして何より、ヘブン(トミー・バストウ)のモデルである小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が、明治時代の日本人の内面に「中庸」の美徳を見出し、怪談の再話や随筆の中で、何度となく著しているのだ。
小泉セツと小泉八雲をモデルとした『ばけばけ』は、トキ(髙石あかり)とヘブンが、文化の違い、言葉の違いはありつつも、互いを知っていき、分かち合いながら、最適なバランス……つまり「ふたりの幸せのかたち」を探していく物語だといえる。
第15週「マツノケ、ヤリカタ。」でも、「中庸」の肝要さが描かれていた。
トキ(髙石あかり)と結婚して、義父・司之介(岡部たかし)、義母・フミ(池脇千鶴)と同居を始めたヘブンは、日本のやり方、松野家のやり方を学び、懸命に順応しようとする。父に捨てられ、差別や迫害も経験しながら、世界各地を漂泊し、どこにも居場所を見つけられなかったヘブン。そんな彼がトキという最愛の伴侶を得て、初めて「家族」という名の居場所を見つけた喜びから、もう二度と手放したくないと、無理をしてしまう。さらには、無理がたたって嘘をつくことになってしまう。
何事も行きすぎれば、破綻が生じる。無理をしすぎたヘブンも、彼の気持ちを慮ることを忘れて問い詰めてしまったトキも、「中庸さ」が欠けていた。
トキはある部分で鈍感で、ヘブンはある部分で極端で短気だ。ふたりとも決して聖人君子でないところが、「不完全な人間どうしがトライアンドエラーを繰り返しながら関係性を育てていく」というドラマツルギーに説得力を持たせている。「足りない者どうし」がときにはぶつかりながら、その都度、胸の内を打ち明けあって、いたわりあって、だんだんと夫婦になっていく。だからこそ、観る者の心にコミュニケーションの難しさと大切さを訴えかけてくる。
さまざまな背景、さまざまな考え方をもつ多様な登場人物がいて、みんなそれぞれに「生きている」。これもまた『ばけばけ』の魅力だ。
第16週「カワ、ノ、ムコウ。」では、トキの親友で小学校の臨時教員をしているサワ(円井わん)と、長屋の隣の遊郭で働く遊女・なみ(さとうほなみ)の生き様がクローズアップされる。
トキとサワ、そしてなみ。加えて、松江随一の名家に生まれながら一時は物乞いをするまでに零落したトキの産みの母・タエ(北川景子)や、県知事の娘として何不自由なく育ちながら本当に欲しいものは手に入らないリヨ(北香那)など、『ばけばけ』に登場するさまざまな階層、さまざまな境遇の人物たちが、明治を生きた女性の苦悩を多面的に表現している。
第15週で、長屋や遊郭が連なる「橋南」から、城下の「橋北」に戻ったトキ。彼女を見送るサワの複雑な表情が忘れられない。このドラマは、幼なじみで親友のトキとサワの間に生じてしまう「格差」までも、容赦なく描く。この先サワとトキは、どんな行動に出るのだろうか。
かつてなみが、トキとサワに向けた「おなごが生きていくには、身を売るか男と一緒になるしかない」という言葉が、この後の展開でもキーワードになってきそうだ。はたして、なみとサワは、それぞれどんな道を選ぶのか。
「ドコ、モ、ジゴク。」という第6週の週タイトルがあった。これに象徴されるように『ばけばけ』は、背景や立場の違う者から見れば天国ーーつまり幸せに生きているように見えるかもしれないが、本人からすれば他者にはわかり得ない、その人なりの「地獄」を抱えて生きている、ということをずっと描き続けている。どこも地獄、誰もが苦しい。
物事や他者を色眼鏡で見ず、決めつけず、オープン・マインドな心構えで接してみる。自分とは違ういろんな人の気持ちや価値観を知り、想像して、二元論ではないところを探ってみる。そうすればきっと、「幸せな生き方」に近づくのかもしれない。おそらく『ばけばけ』はこの先もこうした、「知ること」と「中庸さ」を大事に描いていくことだろう。
先日、この先に続くエピソード、「熊本編」の新キャストが公式から発表された。新たな人々との出会いを通じて、トキとヘブンは、どんな「幸せのかたち」を探していくのだろうか。
参照※ https://www.steranet.jp/articles/95487(文=佐野華英)
