久米宏さん

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天才と呼ばれる理由

 フリーアナウンサーの久米宏さんが肺がんのため、逝去した。81歳だった。1967年にTBSに入社した久米さんは2年目に結核と診断され、1年以上も第一線から退いた。その苦い過去からタバコは吸わず、肺を大切にしていたが、運命は非情だった。【高堀冬彦/放送コラムニスト、ジャーナリスト】

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【写真】小宮悦子、渡辺真理との貴重なツーショット、スポーツ界のレジェンドと談笑する姿も。生前の久米宏さん

 どの世界にも天才と呼ばれる人が何人かいる。しかし桁違いの才能と能力を持つ本当の天才は一握り。テレビ界で真の天才の1人が久米さんだった。

 テレビ朝日「ニュースステーション(Nステ)」(1985年)では次のニュースを伝える前、軽く深呼吸をすることがあった。次のニュースが大きなものであることを視聴者に無言で告げるためだ。こんなキャスターはいない。

久米宏さん

 司会を務めたTBSのクイズバラエティ「ぴったし カン・カン」(1975年)や音楽番組の同「ザ・ベストテン」(1978年)では、自分の甲高い笑い声やボディアクションを、番組を盛り上げるために使った。

 今のひな壇芸人の役割の一部を自分1人でやったのである。司会が笑うと、タレントも乗る。だから久米さんが司会のバラエティはどれも華やいでいた。こんなことをやるアナもいない。アナウンス技術も絶品だった。

 ニュース番組とバラエティ番組のどちらも成功させたのも偉業だが、久米さんは両方とも一緒と考えていた。2017年には『久米宏です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった』(世界文化社)という本も書いている。

「ザ・ベストテン」は歌と歌の合間に久米さんと黒柳徹子(92)のトークがあった。実はこのトークが番組の魅力やカラーをつくっていた。歌を流すだけでは他局のベストテン番組との違いが出ない。 

 久米さんによると、「Nステ」は歌の代わりがニュースだった。ニュースとニュースの合間にある久米さんのトークなどが番組の持ち味やカラーをつくり出した。こんな分析をするアナも久米さんくらいだろう。

 筋を通す人でもあった。「Nステ」時代の久米さんが自民党の圧力に一歩も引かなかったのはよく知られているが、テレ朝にも厳しかった。1996年10月、同局の報道マンとカメラマンが大麻取締法違反の現行犯で逮捕されたときのことである。

 この不祥事は「Nステ」のトップで報じられた。久米さんの意向もあったという。久米さんは伝える前に「大馬鹿者としか言いようのないニュース」と冷たく言い放った。身内に甘いニュース番組は信用されない。久米さんの厳格な姿勢によって「Nステ」は信頼されるニュース番組になった。

反権威の人

 2008年、久米さんにインタビューをする機会を得た。場所はTBSラジオ。2006年から20年まで放送された「久米宏 ラジオなんですけど」のスタジオである。

 久米さんくらいの大物になると、インタビューの前に質問内容の提出を求められることが珍しくないが、そういった制約は一切なかった。久米さんは自分も取材者だから、こちらに不自由がないよう考えてくれたのだろう。フェアな人だった。

 話は番組のことから日常生活のことまで多岐にわたった。やがて久米さんが広島カープのファンになった理由についての話になった。

 久米さんは広島ファンであることを「Nステ」などで公言していたが、生まれは埼玉県浦和市(現さいたま市)。なぜ、広島ファンだったのか。

「林(美雄)のせいなんですよ。僕はどこのファンでもなかったんですが、あいつがアナウンス部で贔屓の広島の勝ち負けで大騒ぎしているから、こっちまで広島が気になるようになったんです」(久米さん)

 2002年に他界した林さんは久米さんとTBSの同期。TBSラジオの深夜放送「パックインミュージック」の人気パーソナリティの1人だった。大学はともに早稲田大。どちらも麻雀が好きだったという共通点もある。2人はTBSの同期の中でも特に親しかった。

 林さんは東京都江東区出身。やはり広島とは縁がなかった。なぜ、広島ファンになったのか。1975年のセ・リーグ初優勝の前で弱小球団だったころである。そもそも2人はどうして親しくなったのか? それは2人がともに権威嫌いだったのが大きい。

 林さんは「パック」で、他局がかけないマイナーなアーチストの曲ばかり流し続けた。無名時代のRCサクセションなどである。邦画の紹介もしたが、メジャー系の作品は一切扱わなかった。

 久米さんはプロ野球界が再編問題で揺れていた2004年、ニッポン放送の特別番組「久米宏と1日まるごと有楽町放送局」で、巨人軍前オーナーで実質的な支配者だった故・渡辺恒雄さんを辛辣に批判した。「早く引っ込んだほうがいい」。こうも言った。

「(プロ野球の)経営者は完全に間違っている。チームを自分のものだと思っている。野球は文化なんだから、社会のものだ」

 当時の渡辺氏は読売新聞グループ本社代表取締役主筆で、マスコミ界の最高権力者と呼ばれていた。これ以上ない権威だった。それでも久米さんは平然と意見した。広島ファンなのは久米さんと林さんの権威嫌いの表れでもあった。

 ちなみに久米さんと親しかった人の中に、もう1人、広島ファンがいる。2008年に他界したTBS「筑紫哲也のNEWS23」(1989年)のキャスター・筑紫哲也さんである。大分県日田郡小野村(現日田市)出身。でやはり広島と縁がないが、反権威の人だった。久米さんと筑紫さんは顔を合わせるたび、広島の話で盛り上がったという。

女性問題もあった

 TBSラジオでのインタビューの際の久米さんは、どんな質問にも当意即妙で答えてくれた。だが、表情を曇らせた質問が1つだけあった。早大時代の話である。

 当時、早大出身の作家が学生時代を振り返った本がベストセラーになっていた。久米さんが学園闘争の闘士であったかのような下りもあった。演説がうまかったなどと書かれていた。

 しかし久米さんは「間違いです」と毅然と言った。険しい表情だった。実際、この記述は事実でなく、久米さんは早大闘争には一切関わっていない。演劇部に所属し、学生俳優として熱心に活動していた。

 久米さんはどうして早大闘争と関連付けられたことに顔を曇らせたのか。間違いだから当たり前だが、同時に教職員、学生の多くが傷ついた闘争だからではないか。間違った闘争史を残したくなかったのだろう。

 前例のないことに挑むのも好きな人だった。2004年3月26日の「Nステ」の最終回もそう。放送終了直前、瓶ビールを取り出し、グイッとあおった。別れの言葉はあっさりしていた。「本当にお別れです。さようなら」。無論、こんなキャスターもいなかった。

 久米さんが「Nステ」を降板した理由は今もハッキリしない。久米さん自身は2003年8月の会見で「衰えた」「(ニュースに対する)最適な言葉が出てこなくなった」と説明したが、額面通りに受け止めた放送記者はいない。

 テレ朝は久米さんを引き留めたかった。しかし費用が嵩む。久米さんのギャラが推定年間約2億円だったのは妥当だが、「Nステ」は久米さんが所属する制作会社「オフィス・トゥー・ワン」との共同制作だったため、同社にも年間数十億円支払わなくてはならなかった。これが重荷だったというのが定説だ。

 久米さんがオフィス・トゥー・ワンと袂を分かったら、「Nステ」はもっと続いたかも知れない。だが、久米さんと同社が決別する可能性はゼロ。同社が久米さんの苦境時を支えてくれたこともあり、関係は一枚岩だった。

 久米さんは1981年当時、麗子夫人(80)以外の女性と接点があった。その女性が同8月、自死未遂を図る。命に別状はなかったものの、久米さんは批判にさらされ、謹慎を余儀なくされる。

 TBSは1979年に退社しており、守ってくれる大組織はなかった。盾になったのがオフィス・トゥー・ワンだったのである。ちなみに久米さんの謹慎は1か月で終わった。異例の速さだった。

 久米さんは存在感が薄くなるばかりのテレビ界への提言も残した。「テレビがつまらないといわれるのは、制作者が『面白い』と『楽しい』を勘違いしているところがあると思う」(民放連の機関誌『民放』2020年5月号)

「面白い」と「楽しい」はどう違うのか。

「今でいうと、『ポツンと一軒家』(テレビ朝日系)は面白い番組ではなく、楽しい番組なんです。ゲラゲラ笑うところもありますけど、『この人はここで生きているんだ』という楽しさがある。番組がどうもうまくいかない、またしても打ち切りになりそうだという原因のひとつは、面白がらせようとしているからではないでしょうか」(同)

 確かに無理に笑わせようとして滑ったり、強引に感動させようとして観る側をシラケさせたりする番組は多い。

「これからは観ている人の心が和らぐ、楽しい番組作りをしていかないといけないでしょう。放送は日常ですから、『面白い』じゃなくて、こ『楽しい』で十分なんです」(同)

 久米さんはテレビと時代の関係を考えていた。今日性を大切にした。こんなアナもいない。やはり天才だった。

高堀冬彦(たかほり・ふゆひこ)
放送コラムニスト、ジャーナリスト。1990年にスポーツニッポン新聞社に入社し、放送担当記者、専門委員。2015年に毎日新聞出版社に入社し、サンデー毎日編集次長。2019年に独立。前放送批評懇談会出版編集委員。

デイリー新潮編集部