サーフィン後に仲間と写真におさまる前之濱博さん(中央手前)と末永薫さん(中央後方)=荒浜の海岸で2019年12月、前之濱さん提供

写真拡大 (全2枚)

東日本大震災が発生した2011年3月11日、「200〜300人の遺体を発見か」と最初に速報された仙台市若林区の荒浜地区。あれから10年、住んでいた人々は内陸への移転を果たし、何年も家の土台と生い茂る雑草ばかりだった場所も近年、ようやく活用されるようになった。

住む人はいなくなったが、それでも「新たな日常」が築かれつつ荒浜の今を、当時の住民のリーダーたちに語ってもらった。

再びサーファーの姿、「ずっと海は憎かった。けど、もういいかな」

南東の方角からうねって入る波が、急斜面の地形によって大きくせり上がる。仙台市若林区の荒浜はかつて、知る人ぞ知るサーフスポットだった。

東日本大震災から数年は足が遠のいていたサーファーたちが、近年ちらほらと戻ってくるようになった。その中に、かつて荒浜に暮らしていた会社員の前之濱博さん(55)と自営業の末永薫さん(54)の姿もあった。前之濱さんは言う。

「ここはたくさんの人の命を奪った場所。だから、ずっと海は憎かった。けど、『七回忌』も過ぎたんで『もういいかな』と思って戻ってきました」

2011年3月11日の夕方。「仙台市荒浜で200〜300人の遺体を発見か」。テレビにそんな字幕速報が流れた。東北沿岸に押し寄せた巨大な津波の映像は繰り返し流されていたが、その時点では犠牲者はまだ数人確認された程度だった。この速報が「前兆」だったかのように、その後、犠牲者数は一挙に膨れ上がっていった。

東北随一の100万人都市・仙台市の沿岸部にある荒浜には震災当時、約740世帯2000人以上が暮らしていた。そこを最高9メートルの津波が襲い、当日周辺にいた人を含む186人が亡くなった。

震災から数ヶ月、仙台市は荒浜地区を含む沿岸部1213ヘクタールを住宅の新・増築ができない「災害危険区域」に指定した。つまり、「もう元の場所には住めない」と、元住民に"宣告"したのだ。市がシミュレーションした結果、海岸に防潮堤を建てるなど対策を施しても、東日本大震災級の津波が押し寄せたら人の命は守れない―そう結論づけた。

被災した沿岸部の元住民は内陸へ集団移転をすることになった。このうち荒浜の集団移転を率いたのが、当時40代半ばだった末永さんと前之濱さんだ。

集団移転では、移転先の土地を借りることはできるが、その上に建てる家は自己負担だ。被災した沿岸部の土地を自治体に買い取ってもらえるものの、被災して再開発の見込みが立たず、仙台市では地価は大きく下落。少なくとも1000万円以上はかかるという自己負担の重さを背景に、住民がまとまるのは容易ではなかった。

「なんで被災した俺たちがそんな金を払わなきゃいけないんだ」
「お前らは行政の言いなりじゃねぇか」

いらだつ住民に怒りを繰り返しぶつけられた末永さんは、「本当は、何度も嫌になって(元住民をまとめるのを)やめようと思った」と振り返る。

当時のリーダーは今思う「満足できる復興は自分たちで勝ち取る」

それでも2人はボランティアで行政との交渉や住民の合意形成を積極的に担った。仙台市から当初提示された、利便性や地盤が悪い集団移転先について、交渉を重ねてより良い移転先を「勝ち取る」など、成果もあった。

「上の世代ではなく、『現役世代』の俺たちが引っ張っていかないとダメだ。子どもたちに安心で安全なふるさとを残すのが俺たちの責任だという思いでした」(末永さん)

震災から3〜4年後の2014年から15年にかけて、荒浜の元住民の多くは相次いで集団移転した。住民の合意形成や移転先の造成などで復興が遅れた他の被災地よりも早期に住まいの復興を果たした。

前之濱さんも14年に2階建て4LDKの戸建て、末永さんも15年に2階建て5LDKの戸建てを、それぞれ荒浜から内陸へ6キロほど離れた住宅地に再建した。2人は言う。

「徒歩圏に地下鉄の駅やショッピングセンターなどもできて、とても便利で住み心地はいいです。あの時、頑張って市と交渉したことでいい移転先を確保できました。満足できる復興は自分たちで勝ち取らなければいけない――心からそう思います」

一方、元住民が移って無人となった荒浜の跡地。震災当日、多くの人が屋上に避難した荒浜小学校は震災遺構として保存されることになった。前之濱さんの自宅があった辺りには土が高く盛られ、「避難の丘」として将来の津波来襲時の避難場所となった。そのほかは依然、荒涼とした風景が広がるままの場所が多く、再開発の途上だ。

「荒浜に住んでいた人々がまたここに集まれるようにしたい」

そう思いついた末永さんは、集団移転の跡地を貸し出して活用してもらう仙台市の事業に友人と応募し、0.6ヘクタールの土地を一緒に借りて共同農園をつくることにした。2021年4月のオープンに向け、毎週末荒浜に通って開墾や井戸掘り、柵の設置など準備を進める。計46区画に分けて、荒浜の元住民らに果物や花を育ててもらおうと計画している。

バーベキューができる施設も併設し、「人々の憩いの場にしたい」という。

末永さんらの共同農園から700メートルほど内陸に入った場所には、3月18日にJR東日本グループの企業が手がけた観光農園がオープンする。

宮城県内では有数の白砂青松の海岸で、震災前は賑わった荒浜の海水浴場は依然「閉鎖」されたままだが、2019年までに3回、「海水浴イベント」が開かれた。20年は新型コロナウイルスの影響で実施されなかったが、仙台市観光課によると21年はコロナ禍の状況次第で再開するか検討したいという。

復興しても元通りにはならない。でも、震災から10年が経ち、荒浜にも新たな日常が築かれようとしている。