外出自粛要請が出る中での花見パーティーの開催に大分旅行。安倍昭恵さんの行動は、私たち国民にとって理解に苦しむものばかりだ。なぜ彼女はそのような行動を続けるのか。コラムニストの河崎環さんが痛烈に読み解く。
静養先のホテル周辺を散歩する安倍晋三首相(左から2人目)と昭恵夫人(同3人目)=2019年12月31日、東京・六本木(写真=時事通信フォト)

■「何を考えているんだ?」という当惑

新型コロナウイルスの感染拡大が深刻さを増す中、日本のファーストレディーたる安倍昭恵さんの周辺がまた賑やかになった。森友学園問題で、国有地売却に関する文書改ざんへの関与に苦しみ、自殺した近畿財務局職員・赤木俊夫さんの遺書が公開されて、2017年のいわゆる「モリカケ劇場」における安倍昭恵さんのプリマドンナぶりを思い出した人も多かっただろう。

そこに、コロナ禍という言葉も定着して国民が広く自粛要請を受け入れ始めた3月下旬にセレブリティーを集めて開催していた花見社交パーティーが露見し、さらに3月中旬、安倍首相の「コロナ警戒発言」翌日に催行された50人規模のスピリチュアル大分旅行もすっぱ抜かれ、それを報じるマスコミ側も額に青筋を立てて追及をするというよりは、理解に困り「何を考えているんだ?」と純粋に当惑している様子がありありとわかる。

■キャリア女性の間では話題にものぼらない

働く女性と話をする中で、同じ女性である安倍昭恵さんのことが真剣な話題にのぼることはまずない。男性と話をする中でも、その人が安倍首相に対してどういうスタンスを取っていようとも安倍昭恵さんのことを本気で称賛する人も、本気で批判する人も見たことがない。「ああ、あの人はねぇ」と誰もがちょっと鼻白んだような、鼻を微かにフンと鳴らすような、そんな表情を見せるのが印象的だ。

■夫を含め、誰もがまともに相手にしていない

つまり、誰も安倍昭恵という女性を――日本の現ファーストレディーという唯一無二の重要な立場にいる人物であるにもかかわらず――真剣に、まともに取り上げる人がいないのである。

重大な社会的責任と人生の行く末を共有してるはずの夫でさえも、側近でさえも、取り巻く友人さえも、誰も本気で怒らず苦言を呈さず安倍昭恵さんの交友や言動の天衣無縫ぶりを泳がせるということは、誰も彼女の存在や影響力を重要視しておらず「存在を軽視されている」ということなのではないのだろうかと、私は彼女に対してしばしば寂しさを感じるのだ。

マスコミで昭恵さんが評されるときに頻出する天衣無縫という言葉は、「社会性の欠如や無知」をぶ厚いふかふかの真綿にくるんで、最大限に丁寧に表現した言葉である。

■“お嬢さん育ち”は言い訳になるだろうか

「だって、大企業の社長令嬢としてお育ちあそばしたんでしょ。お嬢さまだもの、仕方ないよね」。彼女の生まれ育ちの良さが、世間知の欠如や社会性の低さの理由と決め込まれている。

「お嬢さん育ちは世間知らずだから、言動が常識離れしているのも仕方ない」? それは一聴して寛容なようでいて、たまたま彼女と同じように恵まれた環境に育ちながら、だが遥かに社会性と能力を発揮している、人間的に成熟しシリアスに社会貢献をしている多くの女性職業人たちに対して、実に失礼な偏見だと思うのだ。

お嬢さん育ちでも、十分以上に社会的責任を取って生きる有能なビジネスウーマンは世界中に数多いる。例えば企業経営者が重大な経営判断ミスを犯したとして、それは「お嬢さん育ちだから」という鷹揚な説明で「あーそれなら仕方ないネェ」と株主に受け入れられるだろうか。

安倍総理に対しても、「お坊ちゃん育ちだから仕方ない」という擁護が成立するだろうか。冗談ではない、もしお坊ちゃん育ちが言い訳になるような政治家がいるとすれば、その人は政治家などになるべきではない。

■お飾りとしか見なされないファーストレディー

ではなぜ、ファーストレディーには「お嬢さん育ちだから仕方ない」が成立してしまうのか?

それは、彼女が、ファーストレディーなる立場が、お飾り以上の存在と見なされていないからだ。女性活躍推進のごく初期に、人数合わせのために名前だけの女性役員があちこちに立てられた時の「お客さん」扱いと同じ。本当に大切なことからは遠ざけられ、本当に大事な情報は聞かされない。誰も本気で耳を傾けない。

だからあの頃、政治でも経済でも「数合わせのために」重用された女性たちの中から、ある人々は真剣に闘って自分たちの権限と責任の幅を広げ、そうでない人々はあっという間に姿を消したのではなかったか。

チヤホヤされる「お客さん扱い」は、真剣に生きている大人だったら耐えられない。

■空虚感はスピリチュアルと相性がいい

安倍昭恵さんがご自身の状況に満足しておられるのなら、「安倍昭恵さんという個人」としてはもちろんOKで、外野がしのごのいうことじゃない。だけど「ファーストレディーという公人」としてはだいぶNGだ。

国家のリーダーと運命を一つにしているはずの最も近い存在が、そのリーダーが国民に対して真剣に密集の回避と異例の自粛を要請し、少なくない国民がそれに応じて自分たちなりに生活様式を変えようと努力していた隣で、フワフワとそれを踏みにじっていられた。歴史的な有事におけるその無自覚さを見て、私は初めて安倍昭恵さんという人に対して盛大な皮肉を込めて「すごいな」と感じた。

「アタシたちが一生懸命自粛しているのに、昭恵が自粛してない! ガー!!」なんてこれっぽっちも思っていない。そういうことじゃなくて、例えばコロナ対策の方針で異論があるとか、政治的に対立しているとかで態度に表したというならともかく、ただ「フワフワと」「無自覚に」ありのまま、というのが、なんだろう、猛烈に空虚なのだ。

あまり考えたくないけれど、ひょっとして、もしかして、彼女はとても空虚なのではないか。昭和の夫たちの「家庭内野党」という古い定型句や「女房は機嫌よくしていてくれるのが一番」という恐妻論は、「女房のすることなんてその程度」という認識と表裏一体だ。「夫に“自由にさせてもらっている”」という、現代の女が聞いたら身の毛をよだてて泡吹いて卒倒するやつだ。

そういう空虚感は、昔からスピリチュアルと相性がいい。昭恵さんのスピリチュアル好きは以前からたびたび指摘されてきたことで、私も耳にしたことがある。あの世代では、女性の世間知らずは「手つかず」「高級」「上等」の証だった。「上等?」な女性がそのまま大人になるとスピリチュアル行きになるという例を、私たちはいま、見て学んでいる。

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河崎 環(かわさき・たまき)
コラムニスト
1973年京都生まれ神奈川育ち。慶應義塾大学総合政策学部卒。子育て、政治経済、時事、カルチャーなど多岐に渡る分野で記事・コラム連載執筆を続ける。欧州2カ国(スイス、英国)での暮らしを経て帰国後、Webメディア、新聞雑誌、企業オウンドメディア、政府広報誌など多数寄稿。2019年より立教大学社会学部兼任講師。社会人女子と中学生男子の母。著書に『女子の生き様は顔に出る』、『オタク中年女子のすすめ #40女よ大志を抱け』(いずれもプレジデント社)。
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(コラムニスト 河崎 環 写真=時事通信フォト)