徳川宗家19代目に当たる政治経済評論家の徳川家広氏

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反原発の“お殿様”

 新聞各紙は、政治経済評論家の徳川家広氏(54)が5月28日に会見を開き、今夏、参院選静岡選挙区から出馬すると報じた。まずは朝日新聞(電子版)の「参院選静岡選挙区に徳川家19代目 立憲が擁立発表」からご紹介しよう。

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《立憲民主党は28日、夏の参院選静岡選挙区(改選数2)に、徳川宗家19代目に当たる政治経済評論家の徳川家広氏(54)を公認したと発表した。初代家康が駿府城を居城にしたこともあり、徳川氏は会見で「先祖代々縁が深い。土地勘も愛着もある」と述べた。

 徳川氏は徳川宗家18代当主・恒孝(つねなり)氏の長男。徳川記念財団の理事や家康をまつる久能山東照宮(静岡市駿河区)の祭司を務めている》

 徳川家というだけでもインパクトは充分だが、ご本人の経歴も華やかである。慶応大経済学部を卒業し、アメリカのミシガン大学大学院で経済学、コロンビア大学大学院で政治学の修士を取得した。

徳川宗家19代目に当たる政治経済評論家の徳川家広氏

 また、国連食糧農業機関(FAO)に勤務後、2001年から日本でフリーの翻訳家として多くの書籍を上梓している。中でもジョージ・ソロス著『ソロスは警告する 超バブル崩壊=悪夢のシナリオ』(講談社)はベストセラーになった。

 しかしながら、“華麗なる経歴”を見れば見るほど、「なぜ立候補するのか?」という素朴な疑問は増すばかりだ。そこでインタビューを依頼し、数々の疑問をぶつけさせてもらった。以下は、その一問一答である。

――改めて、なぜ出馬を決心されたんですか?

徳川家広氏(以下、徳川):私は19代ですが、16代の徳川家達(1863〜1940)は1898(明治31)年に東京市長選に担ぎ出されそうになりました。そこで勝海舟(1823〜1899)に相談へ行ったんですね。

 すると勝から「徳川家の人間なのだから、よほどのことがない限り、政治に関わってはならない」とアドバイスされたそうです。

 家達は1884(明治17)年の華族令で侯爵となり、90(明治23)年に帝国議会が開設されると貴族院議員となりました。

 1903(明治36)年から33(昭和8)年までは貴族院議長を務めました。貴族院に選挙はありません。人選は内閣が行い、陛下のご下命で就任いたします。(註:正確には満25歳に達した伯爵・子爵・男爵に叙されている者の同じ爵位の華族による互選で選ばれた)

 その後、家達は「よほどのこと」が起こり、国際政治の表舞台に立ちました。1922(大正11)年に、世界初の軍縮会議となったワシントン軍縮会議で全権を務めたのです。

 会議では保有艦の総排水量比率を、米と英が5に対して日本は3と定められました。更に日英同盟が失効し、米・英・仏・日の四カ国条約を結びました。会議の結果に反発する世論も少なくなかったわけですが、だからこそ家達しかできない仕事だったのではないかと思っております。

 私も、今の日本では「よほどのこと」が起きていると判断して立候補を決断いたしました。今年4月に行われた北海道知事選に出馬するか検討していた際も、同じ問題意識を持っていました。

 日本は少子高齢化から人口減少社会に突入しました。加えて、公文書の改竄や、首相が省庁幹部と面談した際の議事録を作成しない事実が発覚するなど、日本が文明国の座から滑り落ちているという恐怖感を覚えます。怒りではございません。恐怖心です。日本で底なしの堕落と衰退が始まっているという恐怖があって、「これを建て直す必要があります」と有権者に訴える必要性を痛感しているのです。

――出馬会見では“反原発”を訴えました

 そもそも中部電力が持つ発電所のうち、浜岡原発は中電本社からの距離が最も遠いとされております。この姿勢が大問題ですし、危険な状態にあることは言うまでもありません。

 もし浜岡原発がシビアアクシデント(過酷事故)を引き起こせば、静岡県が人口稠密地帯です。更に東京と名古屋、大阪を結ぶ大動脈が壊滅的被害を受けます。もちろん私のルーツという観点からも、他人事ではございません。

 2011年に東日本大震災が発生し、参院選は13年と16年に実施されました。ところが静岡県選挙区で、原発問題は全く争点になっていないわけです。これは非常に問題ではないかと考えております。

 原発の現場レベルでは、メーカーや電力会社、経産省などの関係者であっても、「原子力政策を今のまま継続させることは無理」だと分かっているのではないでしょうか。

 そういう声が表に出ないのは、「確かに日本は原発ゼロにしなければならないが、そうすると自分の仕事はどうなるんだろう?」という不安や、仲間から「反原発を口にするなんて裏切り者だ」と非難されるのが辛いということがあるのだと思います。

 もちろん私は、「電力がなくても幸せに生きられる」などと主張したいわけではありません。そうではなく、「浜岡原発を廃炉とし、その跡地に火力発電所を建設すれば、誰も文句を言わないのではないですか?」と問いかけたいのです。

 世界最先端の火力発電所を建設することは、メーカーにとってもビジネスチャンスです。メイドインジャパンの名にふさわしいものが誕生すれば、世界的なニーズが起こるでしょう。また、日本が世界中で植林事業を行うなど、二酸化炭素の排出問題に関して断固たる姿勢を示すことも重要でしょう。

 日本における原発政策は失敗だったとはっきり受け止める。前向きに打開策、他のエネルギー政策を探す。それを強く訴えれば、静岡県選挙区で有権者の意識、考え方が変わる。それを日本中に広げていく、というのが私のビジョンです。

歴代総理大臣のベストは?

――憲法改正には否定的という理解でよろしいでしょうか?

徳川:安倍晋三首相(64)は憲法改正を既定路線のように語っておられますが、私は護憲を訴えたいと思っています。日本国憲法とは、進駐軍が資金力と軍事力にものをいわせ、日本人が嫌がる新憲法を無理矢理に呑みこませたということではありません。

 そもそも太平洋戦争で、日本人は全員が死ぬかというところまで追い詰められました。文字通りの一億玉砕です。そして、あの大戦を「自衛戦争」と呼ぶ人もおられますが、他国が日本の領土を侵略した事実はありません。

 1943(昭和18)年、大本営は絶対国防圏を設定しますが、44年7月にサイパンは陥落します。国防圏が破られたら停戦交渉を始めるはずだったのですが、政府は戦争を続行してしまいます。

 神風特攻隊だけでなく、桜花(航空特攻兵器)、回天(人間魚雷)、震洋(爆装特攻艇)、伏龍(人間機雷)といった特攻・自殺兵器を開発します。(註:マルカッコ内は編集部が補った)

 惨(むご)いのは開発段階のテストで多くの若い兵士が命を落としていることです。そして最後には竹槍が登場しました。

 45(昭和20)年8月15日、終戦を迎えます。日本は何とか、あそこで踏みとどまったわけです。それも自然に停戦が成立したわけではありません。陛下の御聖断があったわけですが、そこに持っていくまでに大変な苦労が、あまり語られない苦労があったわけですね。

 あの時の日本人は「あの戦争が、あともう少し続いたら、みんな死ぬところだった」と真摯に反省し、それが帝国議会における新憲法の議論に反映されます。憲法9条2項の冒頭に「前項の目的を達するため」という文言を挿入した「芦田修正(編註:日本政府憲法改正小委員会において委員長の芦田均[1887〜1959]が加えた修正)」は、その代表例です。

 ダグラス・マッカーサー(1880〜1964)も、「日本の皆さんで、しっかり議論してください」と言いました。貴族院も、自分たちの名誉と天皇陛下に対する忠誠心から、極めて真面目に議論しています。その上で日本国憲法が誕生し、陛下の御裁可をいただきました。これを“GHQの押し付け憲法”と評するのは無茶苦茶です。

 日本人が真摯に議論して作った憲法という事実を無視し、「もう憲法は時代に合っていない」とか「緊急事態条項を創設しよう」という指摘は、あまりに乱暴です。昨年7月に西日本を中心に大豪雨が発生しましたが、被害者の皆さんは改憲が必要だと指摘されたでしょうか?

 敗戦における軍部の責任は否定できません。つまり憲法9条とは、「日本を敗戦に追い込んだ旧日本軍を復活させない」ことを主旨としたのです。警察予備隊、自衛隊を創った方々は、そのことを熟知していました。もっと言えば、自衛隊に入隊される方々も、同じです。

 中には漫画『沈黙の艦隊』(かわぐちかいじ:講談社)に憧れた人もいるでしょうが、それは極めて少数で、自ら戦争を引き起こすことはない、よほどのことがない限り戦場には駆り出されない、という前提で自衛官になられた人が大半でしょう。ですから、安保法制を審議した際、「裏切られた」という声が自衛官の方々からも漏れたわけです。

――徳川さんのような“エリート”が、ドブ板選挙を戦えますか?

 戦前、徳川家は、国が認める特権階級でした。華族令で伯爵になりましたが、私の父である徳川恒孝(79)は、会津松平家の分家に産まれましたから華族ではありません。

 祖父の松平一郎(1907〜1992)は、太平洋戦争中、横浜正金銀行職員としてシンガポールに行っておりました。終戦で収容所に入れられますが、父とその兄、私の祖母は御殿場に疎開しており、秩父宮さまの元に身を寄せておりました。秩父宮さまは立派な方なので、一切、ヤミ物資には手を付けられません。ですので皆さま、戦後の平均的な日本人の中でも、相当に貧しい暮らしをしておられたんですね。

 祖母は結核で片肺しかなかったのですが、それでも懸命に畑を耕しました。貧しい食べ物を3人で分け合い、たまに宮さまから卵を賜わると、父は泣いたそうです。旧華族は1000軒に達しましたが、あれほど貧しかったのは我が家だけだったでしょう。

 だから特権階級どころか、実情は庶民と全く変わりませんでした。皆さんと同じように空襲で逃げ惑い、疎開先でいじめられ、食糧難に苦しんだのです。戦争で本当に酷い目に遭ったという認識を持っているからこそ、そうした歴史的事実をすっ飛ばして改憲議論が行われるのには賛成できません。

 私がドブ板の選挙活動を行うことは当然ですし、それをしなければならないと思っております。日本人が滅亡寸前まで追い詰められたからこそ、私たちは1票を持っているのです。

 政治家として、その貴重な1票を分けてくださいとお願いするわけです。敗戦を経て、日本人は自分たちの血で1票を購(あがな)いました。よく「日本人は戦わずして民主主義を手に入れた」と指摘する方もおられます。確かに内戦などが起きたわけではありませんが、充分すぎる犠牲を払っている。血まみれの1票なのですから、ドブ板選挙を行わなければ、政治家になってはいけないとも思います。

――安倍首相の選挙区は山口4区、つまり昔の長州です。「徳川家が長州に挑戦状」と面白おかしく書かれたら、どう感じますか?

 実は薩摩の方々は、徳川幕府に対して非常に同情的だった歴史があります。篤姫、つまり天璋院(1836〜1883)は島津家の一門に産まれ、徳川家に嫁ぎました。薩摩の皆さまが徳川家を守ったという表現もできるでしょう。

 私の母親も薩摩の出身です。私には会津家だけでなく、島津家の血も入っています。実は旗本の子孫が薩摩藩の子孫と結婚したというケースは、意外に多いんです。薩摩人と江戸っ子は相性がいい。私は“黒潮連合”と呼んでいます(笑)。

 また私は、歴代の総理大臣のうち、ベストは伊藤博文(1841〜1909)だと考えています。明治維新の原動力になったのは坂本竜馬(1836〜1867)でもなければ西郷隆盛(1828〜1877)でもなく、岩倉具視(1825〜1883)でさえない。木戸孝允(1833〜1877)だと私は考えております。

 もちろん伊藤も木戸も長州人です。私は長州人というのは大したものだと思っております。確かに私が立候補すると、安倍首相のルーツが長州であることを面白おかしく書くメディアがあるかもしれません。ですが私としては、長州にそういう考えを持っているということは知ってほしいですね。

なぜ立憲民主党なのか?

――なぜ立憲民主党から立候補されたのですか? 北海道知事選では自民党の候補として出馬すると報道されました。

徳川:北海道知事選では、自民党の皆さんと相談していたことが、たまたま記事になりました。しかし、他党ともやり取りはあったんです。北海道は衰退する日本の象徴と言えます。ここで対策を講じることができたなら、それは日本全体で参考になる政策でしょう。

 その経験を踏まえて、参院選では静岡選挙区から立候補することを決めました。なぜ立憲民主党かと言えば、私の考えは立憲民主党の政策と同じだからです。

 徳川幕府の最高法規の1つに、禁中並公家諸法度があります。天皇陛下の政治的中立が謳われており、これを当時の“憲法”と表現することが可能です。

 そして諸法度は制定されてから大政奉還までの250年間、ただの1行も変えられていません。天皇陛下から国政を預っているという意識を徳川家は強く持っていました。つまり徳川家の基本方針は、立憲主義と平和主義だったのです。

 また現在、日本の有権者の平均的な感覚は、立憲民主党の主張に近いと思うんです。自民党ではない。

 例えば、今の上皇が退位の意向を明らかにされた際、朝日新聞の世論調査では90%以上、産経新聞でも60%近くが賛成しました。つまり日本人の85%くらいが賛成したと考えられるでしょう。

 ところが当初、官邸も自民党も難色を示していたことは、皆さんもご記憶でしょう。天皇の政治的中立を問題視したわけですが、そんな話ではなかったのです。

 個人の幸福追求権や生存権という文脈で受け止められるべきことでした。上皇陛下は当時、「85歳になったので辞めさせてください」と国民に相談されたわけで、それに圧倒的多数の国民が共感と賛意を示した。それが今の日本人の感覚ですが、与党自民党の感覚はズレていたと思います。

 丸山穂高議員(35)の戦争発言も、1つだけ良いところを見つけるなら、日本人全体の感覚と政治家の感覚がズレていることを、如実に示したわけです。これだけは不幸中の幸いと考えられます。

――反アベノミクス、反新自由主義も主張しておられます。

徳川:反原発、護憲、そして反アベノミクス(反新自由主義)が、私の主張の3本柱です。2008年のリーマンショックを経て、日本の経済学会も、新自由主義的な理論を主張する経済学者が増えています。

 しかし、それが散々たる結果に終わっているのは、私たちの生活実感からも明らかでしょう。どこの会社も苦しいのです。日本の人口の1%に満たない人はアベノミクスの恩恵を受けたかもしれませんが、残りの方は生活が苦しく、将来に対する不安を抱えています。

 バブル景気は1986年から始まったとされていますが、その前の経済水準と比べても現在は貧困が拡大し、経済格差は広がっています。

 国民の誰もが「おかしい」と思っているのですが、テレビを筆頭とする大手メディアは「安倍政権の経済政策はおかしい」と指摘しないため、誰も「おかしい」とは言えない状況になってしまっています。

 戦後、日本経済が生んだ最高傑作は、1979年にソニーが発売したウォークマンかもしれません。あれは日本ではないと開発されなかった。満員電車で通勤・通学する人たちが、「ぎゅうぎゅうの車内でも、なんとかプライベートな空間を確保できないか」と願ったのが原点です。

 普通の日本人の希望が反映されたわけですが、重要なのは、当時の日本人は“夢の新商品”を買うお金を持っていたということです。日本人なりの幸せが製品の形で具現、更に世界中に輸出され、「メイドインジャパン」の名を高めていった。

 ビデオデッキもそうです。当時の日本人は残業が多かったので、ニーズがあったんですね。当時の10万円というのは相当な高価格ですが、非常に早いスピードで普及していった。あの頃の日本には、しっかりとした中間層が存在していたのです。

――最近、立憲民主党の支持率が低下していることは、どうお考えですか?

徳川:自民党で上手くいくように見えてしまっているのが原因でしょう。総理大臣が「高度経済成長の時代に戻れます」と旗を振り、国民もファンタジーを信じてしまう。信じざるを得ないという側面もあるでしょう。

 一方の立憲民主党は、結党して間もないという点もあります。ただ、野党共闘が進み、立憲民主党が「私たち日本人の伝統的な価値観に照らし合わせると、自民党の主張はここが間違っています」という主張をできるようになれば、きっと支持率は上がっていくと思います。

――政治家になろうと決心されたのは、いつ頃からですか?

徳川:一昨年か去年というところでしょうか。私は翻訳と著述をしていましたので、活字文化の衰退を通して日本の衰退を実感するようになりました。

 北海道知事選もそうですが、もともと政治家の皆さんと話をする機会は多かったのです。自民党にも友人は少なくないですが、実は最も知人が多いのは国民民主党です。

 そういうことになりますと、私は旧民主党における右派に最も知り合いが多いということになります。とはいえ、政治家としてどこの党から出馬するか、各党の皆さんとお話をさせていただく中で、最終的に一番主張が合う立憲民主党にしました。

週刊新潮WEB取材班

2019年6月13日 掲載