私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第3回
日本初のW杯、衝撃の落選メンバー発表〜北澤豪(3)

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 1998年フランスW杯開幕目前、代表メンバーからの落選を言い渡された北澤豪とカズ(三浦知良)は、協会スタッフと現地コーディネーターとともにレンタカーに乗って、合宿地であるスイスのニヨンを離れた。だが、行く当てはなかった。

 そのため、まずどこから日本に帰るのがいいかを考えた。イタリアか、ドイツか、それとも同行したコーディネーターが住むフランスか……。

 最終的には、かつてカズがプレーしていたイタリアへ向かった。パリよりも距離的に近いミラノに行くことに決めた。

 ミラノまでおよそ6時間。その長い道のりで、車の中では誰もがそれぞれの思いに耽(ふけ)っていた。静かな車中だったが、今後について話をすることもあったという。

「ミラノに行くことに決めたけど、『さあ、これからどうしようか』ってことになった。最初はすぐに帰るつもりだったけど、今(日本に)帰ると、俺らの話題が大きくなってしまうので、それはやめたほうがいい。もうちょっと熱が冷めてから帰ろうってことで、3日間、ミラノに滞在することに決めた。あまり長くいても、みんなに迷惑がかかるからね。ただ、関係者に連絡をするのはやめよう。(世間から)『消えよう』って、みんなで決めた」

 それが、いわゆる『空白の3日間』である。

 このとき、日本のメディアはスイスから”消えた”北澤とカズの行方を必死になって探していたのだ。

 北澤たちは、ミラノにあるフォーシーズンズホテルのスイートルームに投宿した。カズがプライベートでもよく使っていて、馴染みのあるホテルだったからだ。

 みんなといると気が紛れたが、「ひとりになるといろいろと考えてしまった」と北澤は言う。落選という非情な通知を受けたのは、まだ数時間前のこと。気持ちはささくれ、傷ついたままだった。

 そんな北澤の心を救ってくれたのは、カズのポジティブな姿勢と言葉だったという。

「キー、俺たち、ヴェルディがあってよかったな。ずっと代表でやってきて、代表の自分たちっていうふうに思っていたけど、代表はダメだった。でも、俺たちにはサッカーをやれる場所がある。そういう意味で、クラブは大事だし、ヴェルディに感謝しないとな」

 北澤は素直に「そうだな」と思ったという。

「『ドーハの悲劇』からずっとW杯に行くことを目指していて、目前で行けなくなったから、なんか感覚的にサッカーがなくなったというか、自分のサッカーが奪われてしまった感じがあった。でも、カズさんは『クラブがあるから、サッカーやれるじゃん』って言ってくれた。そのとき、クラブという”自分の家”があることって、すごく大事だなって思った。代表にいてプレーしていたときは、そんなふうに考えることはなかったんだけどね」

 ミラノに来て2日目、カズは郊外の美容室で髪を切り、金髪に染めた。北澤はさすがにトレードマークの長髪を切ることはできなかった。そのままホテルに戻り、ゆっくりと静養した。

「1日経っても、いろいろと考えていたね。『俺、最終予選の途中で呼ばれて、そこから(予選を)突破してきたのになぁ』とか、4年前のドーハでのこととか……。でも、不思議なことに帰国するときには、『また4年後、勝負しよう!』っていう気持ちになれた。

 それはなんだろうなぁ〜。子どもの頃から大事な場面で(メンバーから)外されたり、ミスって負けたり、そういう経験が生きているのかな。あのときも意外とへこたれなかったし、(サッカーを)やめようとは思わなかった。それ(精神的な強さ)が、サッカーで養われたものかもしれないし、サッカーで一番大事なものかもしれない。

 とにかくこの落選は、俺にもう一度、やる気を起こさせてくれた。あのときは、監督の岡田(武史)さんにムカついていたけど、どんな監督にも認められるような選手にならないといけないと思った。この悔しさはW杯に行くことでしか晴らせない。そのためには、もっとうまくなるしかないって思った。ドーハから4年、一生懸命やってきて『またかよ』って思ったけど、また『やろう!』って気になった。(ミラノで過ごした3日間で)そう思えたからこそ、すっきりした気持ちで日本に帰国することができた」


W杯メンバーから漏れ、帰国後に空港での会見に臨んだ北澤豪(右)と三浦知良。photo by Kyodo News

 カズとともに帰国した北澤は、空港で会見を行なったあと、家族とともにすぐにグアムへ”逃亡”した。「(周囲から)好奇の目で見られるのが嫌だったし、家族もいろいろと言われてしまうので、日本にいたくなかった」という。

 北澤がグアムにいるとき、日本代表がW杯初戦のアルゼンチン戦を迎えた。北澤は試合を見ないようにしようと思っていたが、気になって仕方がなかった。グアムでは試合が放送されることもなく、なおさら気になった。それで、つい日本に電話して「テレビの近くに電話を置いてくれ」と頼んで、実況を聞いた。

 その姿を見ていた妻が、北澤にこう言った。

「だったら(日本に)帰ろうよ」

 フランスW杯での日本代表の戦いが気になる――そんな自分の気持ちに嘘はつけないことを悟った北澤は、すぐに帰国。その足で、ヴェルディの福井キャンプに合流した。

 3戦目、ジャマイカ戦が始まる前、北澤はひとり、部屋に閉じこもっていたという。

「試合を見ているとさ、いろんなことをつい言ってしまいそうなんでね。みんなが俺の部屋に来て一緒に(試合を)見ようとするんだけど、『頼むからひとりにしてくれ』って言って、ひとりでジャマイカ戦が始まるのを待っていた」

 自分はメンバーから外れたとはいえ、W杯に挑んでいるのは一緒に戦ってきた仲間だ。思い入れの強いW杯で、そんな仲間たちの雄姿を見逃すことはできない。北澤は、実力的には勝てる相手ゆえ『是が非でも1勝してほしい』と思って、祈るように見ていたという。

 ジャマイカ戦が始まった。北澤はひとり、テレビ画面を食い入るように見つめていた。そして、試合が後半を迎えると、信じられない光景が目の前に飛び込んできた。

 岡田監督が4バックに変更したのである。

「それを見た瞬間、『ふざけんな』って思ったね。めちゃくちゃ頭にきた。だって、俺が外されたとき、確認したんだ。そうしたら、岡田さんは『4バックには戻さない』と断言した。”やらない”って言ったのに、最後に”やった”。あのとき、俺のことを必要じゃないって言ったのは何だったのか。本当に、これだけは許せなかった」

 北澤は、その瞬間もきっとそうだったんだろうなという哀しげな表情を見せた。

 それから4年後、北澤は2002年日韓共催W杯の2戦目、ロシア戦に足を運んだ。

 代表の試合は、選手として行くべきところであり、観戦には行きたくなかった。しかし、4年前のアルゼンチン戦同様、どうしても見たくなったのだという。

 試合は、稲本潤一の決勝ゴールで日本が1-0で勝った。日本の歴史的なW杯初勝利に、スタンドを埋め尽くしたファンやサポーターの喜びが炸裂した。北澤は4年前のW杯予選、UAE戦のときに浴びたブーイングとは違う歓喜のシャワーを背に受け、そのまま帰ろうとした。

 そのとき、あるサポーターが声をかけてきた。

「おめでとうございます!!」

 その言葉を聞いて、北澤はハッとしたという。

「あのとき、俺はもう代表には入っていなかったけど、ずっと代表でやってきたから『おめでとう』って言ってくれたと思うんです。選手にしてみれば、代表に入ってプレーしていない自分が残念っていう感覚があるんだけど、周囲の人はそうは思っていない。メンバーに入っていなくても、代表のひとりとして見てくれている。そう考えると、ここまでやってきてよかったなって思った。俺はW杯には出られなかったけど、そのひと言ですごく救われた」


W杯出場は叶わなかったが、サポーターの言葉に救われたという北澤豪

 そう語ると、北澤は表情を崩した。

 日韓W杯が未曾有の盛り上がりを見せた2002年のシーズンが終わったあと、翌2003年シーズンから横浜F・マリノスの指揮官に就任することになっていた岡田監督からオファーが届いた。

 しかし、北澤は右膝のケガの影響もあって「本来あるべき姿を見せられない」とそのオファーを断った。

 そして、そのままスパイクを脱いだのである。

(おわり)

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■シリーズ第2回>W杯3連敗。成田空港「水かけ事件」〜城 彰二

北澤豪(きたざわ・つよし)
1968年8月10日生まれ。東京都出身。修徳高→本田技研→読売クラブ→ヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)。ヴェルディ黄金時代のメンバー。「ダイナモ」の異名で日本代表でも長年活躍した。(財)日本サッカー協会理事

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