宝くじが当たる人には、ある共通点があるという。それは「宝くじを買い続けている」という、ごく単純なものだ。何事も分母が増えれば、奇跡的な出来事に遭遇する確率は上がってくる。

 筆者にとっては2009年10月26日に行なわれた秋の高校野球・中国大会準々決勝が「当たりくじ」だった。鳥取県にある「どらドラパーク米子市民球場」というローカル球場で繰り広げられた4試合には、広陵・有原航平(現・日本ハム)、石見智翠館・戸根千明(現・巨人)、岡山東商・星野大地(現・ソフトバンク)といった、のちにプロに進んだ好選手も続々と登場。どの試合も見どころが満載だった。

 そんななか、いまも忘れられないシーンがある。

 あるチームの、決して身長の高くない左打者が、逆方向であるレフトスタンドにホームランを放った。それも、1試合で2本だ。1本目は速球に対して「詰まったかな」というフライが、驚くほど伸びてレフトスタンドに入ったもの。2本目はさらに圧巻だった。この選手は投手のモーションに合わせて一歩歩いてからスイングし、高めのカーブをレフトスタンドに運んだのだ。

 このシーンを目撃して、全身にゾクゾクと震えが起きた。両翼92メートルの狭い球場とはいえ、フェンスは低くなく、内容も「えげつない」としか言いようがない2発だった。試合後、その選手のもとへ走り、聞いてみた。「なぜ打席で歩いたのか?」と。するとその選手は、あっけらかんとこう答えた。

「イチかバチかです」

 どうやら変化球の曲がり始めを叩こうという狙いがあったようだが、その天才的な感覚、打席での驚異的な反応は、一度の取材ではとうてい理解できなかった。それ以来、筆者は何度もその選手がいる島根・開星高校へと足を運ぶことになる。これが、糸原健斗との出会いだった。

 糸原は高校1年秋の中国大会で9打席連続安打という大会新記録を打ち立て、2年春のセンバツでは7打数4安打を記録するなど、すでに名の知られたアベレージヒッターだった。筆者が目撃した2年秋の時点で身長は175センチ、体重は75キロ。だが実際に目の前にすると、その数字よりも小さく感じられた。

 高校時代の糸原の武器は、何といってもその打撃力にあった。3年夏の甲子園・仙台育英戦で、1点を追う9回裏二死満塁の場面で左中間へ大飛球を放ち、仙台育英のレフト・三瓶将太の超ファインプレーに阻まれたシーンを記憶しているファンも多いだろう。

 当時、糸原は自身の打撃について、こんなことを言っていた。

「打席は『打つところ』なので、何も考えずに打とうと思っています」

 自分の打撃フォームについてのチェックポイントも、相手投手に関する情報も極力打席には持ち込まず、思考を「無」にして体の反応に任せる。それが糸原健斗という打者のスタイルであり、魅力でもあった。

 しかし、進学した明治大では壁にぶつかった。本人も「プロに行くようなレベルの投手のキレ、変化球に対応できなかった」と振り返るように、大学2年を終えた時点で通算23打数2安打と打率は1割にすら満たず。3年春のシーズンはレギュラーとして迎えたものの、開幕当初から苦しんだ。

 そんな矢先に転機が訪れた。糸原は善波達也監督の指示でバットを極端に短く持つようになり、以降は結果が出るようになったのだ。3年時は春秋連続でリーグのベストナインに選ばれ、大学選手権では打率5割で首位打者に輝いた。

 東京六大学リーグの名門で結果を残すことは、並大抵のことではない。しかし、高校時代の天才的な打撃を見ている者にとっては、バットを短く持ってプレーする糸原に対して物足りなさを覚えたのも事実だ。糸原本人も「(短く持つのは)メッチャ抵抗がありました。でも結果が出ていたので......」と葛藤があったことを明かしている。

 そして、結果次第ではプロ入りも視野に入ってくるはずだった大学4年のシーズンで、糸原は再びつまずいた。

「プロに行きたい、行きたいという思いが強すぎて、全然ダメでした」

 4年春のリーグ戦で打率.163と空回りした糸原は、プロ志望届の提出を見送り、社会人のJX-ENEOSに入社する道を選ぶ。

 社会人では1年目からレギュラーとなり、2年目の2016年は主に3番打者として活躍した。チームは都市対抗への出場権を逃すなど苦境を味わったが、糸原個人は安定した結果を出し、都市対抗には東芝の補強選手として出場している。

 いまはもう、打席で「何も考えずに打つ」ことはないという。

「ピッチャーの研究をするようになりましたね。いいピッチャーは情報を頭に入れないと打てないですし、結果も出ないですから」

 大学時代に拳ひとつ分短く持っていたバットは、いまは指数本分余らせる程度になっている。「バットを短く握ったことでバッティングが小さくなってしまった」という反省からだ。そして、ドラフト解禁となる2016年は打撃面で手応えをつかんだ。

「1年目は逆方向にクリーンヒットが多かったのですが、今年に入って引っ張って強い打球が打てるようになってきました。筋トレの効果で飛ばせるようになったと思います」

 糸原は高校時代から広島にあるトレーニングジム・アスリートの平岡洋二代表に師事し、ウエイトトレーニングに取り組んでいる。このアスリートは、阪神の金本知憲監督が現役時代から通っていたジムだった。

「金本さんがいかに現役時代にストイックに取り組んでいたか、平岡さんから話を聞いていました。ウエイトトレーニングをしたことで、打球が飛ぶようになりましたし、変化球で崩されても下半身とリストの強さで拾えるようになりました」

 9月27日に行なわれた大阪ガスとのオープン戦では、糸原にとって運命的な出来事があった。大阪ガスの今津総合グラウンドのバックネット裏に、金本監督が視察に訪れたのだ。

「チームの監督からは『酒居(知史/大阪ガス→ロッテ2位)を見にきただけだから意識するな』と言われたんですけど、もちろん意識しました」

 その試合、糸原はセンター前ヒットを1本打っただけで、「アピールできた手応えはなかった」という。しかし、アスリートの平岡代表づてに糸原のことを聞いていた金本監督は、その興味を失うことはなかった。その後、糸原の明治大時代の後輩である高山俊、坂本誠志郎の2人を監督室に呼び出し、「糸原、どうや?」と聞いたという。

「高山も坂本も『勝負強い選手です』といいことを伝えてくれたみたいで......、かわいがっておいてよかったです(笑)」

 そして迎えた10月20日のドラフト会議、糸原の名前は阪神の5位でコールされた。もし今年ドラフト指名がなかった場合は、プロ入りをあきらめ社会人で骨を埋める覚悟だったという。

 プロで勝負するために、まず何が必要か── 。糸原にそう聞くと、意外な言葉が返ってきた。糸原はまず「守備」を挙げたのだ。

「まず守れないと使ってもらえないので、内野ならどこでも守れるということをアピールしたいと思います。派手なプレーではなく、当たり前のことを当たり前にやるプレーを見せたいです」

 大学、社会人での糸原のプレーを見ていると、はっきり言って高校時代のような天才性を感じることは少なくなった。だが、その代わりに見えてくるものもあった。それは、糸原の「際(きわ)での強さ」だ。

 チームの逆境でしぶとく結果を残す打撃、抜けたら終わり......という打球を球際で抑える守備。この生死を分ける場面でのたくましさこそ、いまや糸原の最大の武器になっている。糸原にそのプレーの生命力について聞くと、こんな言葉が返ってきた。

「野々村イズムでしょうね。間違いなく」

 高校時代の恩師・野々村直通氏(現・教育評論家、画家)のことだ。「やくざ監督」と呼ばれ、個性派監督として有名だった野々村氏だが、選手に死生観について深く考えさせる教育者としても知られた。梶谷隆幸(DeNA)をはじめ、多くの教え子は卒業後も野々村氏から受けた教えの影響を口にする。

 糸原は言う。

「きれいなヒットじゃなくてもいい。形がグチャグチャでもいい。プロでも死ぬ気でプレーしたいんです」

 一方、恩師の野々村氏は、糸原がドラフト指名されたことについて深い感慨を抱いている。

「ドラフトの後、糸原から報告の電話がかかってきたんです。ワシが『やったな』と言うと、普通は『ありがとうございます』と言うものですが、糸原は『やりました〜!』と嬉しそうに言っていてね(笑)。今まで梶谷をはじめ教え子がプロに進むことはありましたけど、糸原は体が小さくて今まで評価されてこなかった。でも、ワシは絶対にプロでやれる男だと思っとります。いまは打っても、守っても、走っても平均点の選手かもしれんけど、アイツは魂でプレーする男です。必ずタイガースを救う選手になってくれると信じとります」

 糸原のプレーを7年間追いかけ続けている筆者も、野々村氏とまったく同じ思いを抱いている。チームの窮地でこそ存在感を発揮する男、それが糸原健斗という選手なのだろう。

 糸原は最後に、プロに懸ける思いを静かに語った。

「高卒、大卒の選手は『就職』ですが、僕は『転職』なので。会社を捨てて行く覚悟を持って、戦っていきます。プロは少ないチャンスをつかむか、つかめないかの世界だと思います。社会人で『負けたら終わり』の世界で戦ってきた経験を生かして、1年目からがむしゃらに結果を出していきたいです」

 いずれ近い将来、阪神ファンが「糸原健斗は当たりだった」と振り返るような存在になることを、陰ながら祈っている。

菊地高弘●文 text by Kikuchi Takahiro