Jリーグに久々の超大物がやってくる。2010年南アフリカW杯でウルグアイ代表をベスト4に導き、MVPとなったディエゴ・フォルランセレッソ大阪入りが決まった。

 母方の祖父と父親も元代表選手というサラブレッドで、107回を数える代表キャップは同国最多。2011年のコパ・アメリカ優勝により、三代続けての南米王者という記録も作った。まさにウルグアイの"顔"ともいうべきフォルランだが、プロとして母国でプレイしたことはない。

 ユース時代はウルグアイのペニャロールとダヌビオで育ったが、アルゼンチンのインデペンディエンテに移籍して18歳でプロデビュー。3年目、4年目でゴールを量産し、「赤い悪魔(インデペンディエンテの愛称)の金髪ストライカー」として脚光を浴びた。しかし、当時はスピードだけが頼りという感じがして、生のプレイを何度も見ていた筆者には、彼が後にこれほど大成するとは思えなかった。

 フォルランの才能が本当に開花するのは、2002年にマンチェスター・ユナイテッド(イングランド)へ移籍してファーガソン監督の指導を受けてからだ。当初は別のクラブと契約するはずだったが、飛行機に乗っている間に移籍先がマンUに変わっていたというエピソードが残っている。

 その後、スペインのビジャレアル、アトレティコ・マドリード、イタリアのインテルを経て、2012年からブラジルのインテルナシオナルへ入団。ヨーロッパでも好条件のオファーが多数あったが、ブラジルW杯に備えるためこの地を選んだ。それがこの時期にブラジルを出ることになったのは、契約延長を望んだインテルナシオナルにはプレイスタイルで不満があったから。ミラン(イタリア)の監督となった元オランダ代表のセードルフの後釜にとラブコールを送っていたボタフォゴとは金銭面で折り合いがつかなかった。

 セレッソ大阪のライバルとなったのは、プレミアリーグのウエストハム、メキシコのアメリカ、北米MLSのトロントだった。フォルランは以前のインタビューで、「MLSでやってみたい。これまでにオファーを受けたことはないが、チャンスがあれば行きたい。バケーションで訪れて、北米がすごく気に入った」と語っており、トロントが有力かと思われた。

 しかし、父親のパブロがウルグアイ報道陣に「とても断れない金額」と語った条件を出したセレッソ大阪が逆転に成功。なお、この話には尾ひれがつき、ウルグアイでは「フォルランの給料は日本政府が支払う」というニュースが流れた。諸外国、特に南米では給料の遅配や未払いは日常茶飯事。セレッソ大阪にはその心配はない理由として、「大阪市がバックについており(出資先のひとつ)、クラブ運営は健全である」との説明を、勘違いしたものと思われる。

 フォルランの売り物は、スピードと豊富な活動量、そして正確なプレースキックだ。中山雅史や元クロアチア代表のスーケルのように、最近では少なくなった、闘志をむき出しにして動き回り、前線からチームを引っ張るタイプだ。そしてストライカーまたはセカンドストライカーとして決定的な仕事をする。34歳となり身体能力の低下は隠せず、代表での出場機会は減っているものの、インテルナシオナルでは昨シーズン35試合で17得点の成績を残している。

 南米のFWは一般的に守備の意識が低いが、彼は前線からボールを追うので、日本のサッカーにも適応できるだろう。またFKやCKからのゴールやアシストも得意とするところで、セレッソ大阪の得点力アップに大きく貢献するはずだ。

 私生活では、11歳年下のパス夫人と昨年6月に入籍し、12月11日に結婚式を挙げたばかり。パス夫人は医大生という才媛のうえ、フィールドホッケーの代表にも選ばれたスポーツウーマンだ。最高のパートナーを得た新婚のフォルランは、日本で新たなサッカー人生をスタートさせる。

三村高之●文 text by Mimura Takayuki